カクシンハン「マクベス」@東京芸術劇場シアターウエスト | 明日もシアター日和

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観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

作 ウィリアム・シェイクスピア

翻訳 松岡和子

演出 木村龍之介

出演 河内大和/真以美/岩崎MARK雄大/白倉裕二/塚越健一/鈴木彰紀/東谷英人、ほか

 

 今度はどんな舞台を見せてくれるのだろうと、期待値マックス。外れたらヤダなと思い警戒心を持って観たら、のっけから「ほー、そうきたか」と思うような演出で、自然に気持ちがのめり込んでいました。

 白い体操着みたいな衣装の役者たちが舞台を走って横切っていく。これからスポーツでも始めるみたいに。その彼らがパイプ椅子を武器に戦いを始めます。マクベス(河内大和)とバンクォー(白倉裕二)が登場し、バンクォーが客いじりをして、舞台と客席の垣根がなくなった。バンクォーは観客も魔女として参加させたがってます。次いで魔女登場のシーンになると、3人のはずなんだけど、わらわらと体操着姿の役者たちが大勢出てきた。この後も、一度死んだ人物も含めて、ほとんどの役者が魔女として出てきます。しだいに彼らが、魔女というよりコロスのように見えてきました。

 他の役者が白一色に対して、マクベスは黒、マクベス婦人(真以美)は赤を基調にした衣装で、実存しているのは2人だけとも取れます。

 

 観終わって、壮大な野望/幻想をもってしまったマクベスと夫人との悲しすぎる物語であることを強く感じました。そして単に強く愛し合った夫婦というより、2人は一心同体、アフタートークで翻訳者の松岡先生がおっしゃっていた通り、一卵性夫婦。そのことを示すかのように、河内大和も真以美もスキンヘッドにしていたし。

 手紙を読むシーンでは2人が重なり合い、マクベスが疑心暗鬼にかられていく間、夫人は舞台の下で手をこすり合わせている。この演出は気に入りました。テキストだと、亡霊を見てうろたえるマクベスをたしなめるのを最後に夫人は登場せず、次に出る時はいきなり夢遊病者になっていて、そのあと「亡くなりました」というナレ死的展開で、いったい何があったのかと思ってしまうのです。ここでは、バンクォーの暗殺計画を秘密にされたときから、夫人がマクベスから切り離されていき、次第に狂気に陥っていったと解釈できる。

 終盤、精神が壊れたマクベス夫人は客席通路を通って死への旅に向かいます。夫人はミスチルの曲の歌詞を虚空に向かって淡々と独白し、そこに曲がかぶさっていく。2人を結んでいた糸がじきに切れてしまうことをマクベスは予感したのか、舞台後方に残されたマクベスは虚ろな表情で座っている。ベタな演出だけど、不覚にも涙があふれた。2人の青春時代を覗いてしまったような気持ちになりました。

 

 ロス/ヘカテを演じたMARKが際立って見えました。見た目も印象度が高いうえに流暢な英語が芝居に異化作用を起こすアクセントを与える。ヘカテのセリフがラップ調になるのが面白かったし「Fair is foul, and foul is fair」のセリフが耳に残ります。

 セリフといえば、大勢の魔女たちが一斉にセリフを言うと言葉が不鮮明になって残念。バンクォーは時々セリフが流れるのが惜しいし、マクダフも滑舌がよくなくてセリフに力がなかった。ほかにもセリフが言葉として届いてこないときがありました。カクシンハンのシェイクスピアは、セリフより肉体/ビジュアルで攻めるのね。

 

 演出はダイナミックで、アイディアにあふれていました。パイプ椅子や台車やコンビニ商品(ポテチとかカップ麺とか缶ビール?とか)や練乳など、小道具の見立ては意外性があって面白かった。でも、それが物語の何に繋がっているのか、物語にどういう解釈を与えているのか、ピンとこないこともありました。

 あるいは、なぜバンクォーは裸になるのか、亡霊となって現れるバンクォーが(顔は血塗られているけど)なぜ女子高生の制服姿でスマホを持っているのか、なぜマルカムがバレエのポーズをとったりするのか、理解し難かったです。そこまでする必要あるのかと。

 歌舞伎の要素が随所に取り入れられていて、これは気に入りました。戦闘シーンでの附け打ちは効果的だし、マクベスの死にざまには様式美があった。そうそう、音楽はさまざまなジャンルのものを使っていたけど、ボウイの「Rock’n Roll Suicide」「Five Years」が、その使われるシーンにマッチしていて、個人的には涙でした。

 

 こうして改めて思い起こすと、たくさんある演出アイディアをもう少し取捨選択して、全体的な統一感を出したらよかったかなと思います。でも確かに、いままで観たこともない「マクベス」でした〜。次回はどんな挑戦をしてくるのか、ますます楽しみです。