作 サミュエル・ベケット
演出 西本由香
横堀悦夫/小倉久寛/釆澤靖起/佐藤銀平
ベケットはアイルランド出身の作家で、不条理演劇を代表する作家の1人。「ゴドーを待ちながら」はその代表作で、1952年に出版、その翌年に初演されました。私自身とても好きな作品で、久しぶりの上演を楽しみにしてました。
ネタバレあらすじ→道端でウラジミール(横堀悦夫)とエストラゴン(小倉久寛)がゴドーという人物を待ちながら取り止めもなく会話をしている。そこにポゾー(釆澤靖起)とその従者ラッキー(佐藤銀平)が現れウラジミールたちと意味のない会話をする。ポゾーはラッキーの首に縄を巻きつけ奴隷のように扱っている。ポゾーたちが去り、ゴドーの元で働いているという少年が現れて「ゴドーは今日は来ないけど明日は来る」と伝言する。翌朝、ウラジミールとエストラゴンは同じ場所でゴドーを待ちながら昨日と同じような会話をしている。ポゾーとラッキーが再び現れるがポゾーは盲目になっていてラッキーの首に巻かれた綱を頼りに歩いており、そのラッキーは言葉を喋れなくなっている。ポゾーたちが去ると再び少年が現れ「ゴドーは今日は来ないけど明日は来る」と言う。ウラジミールとエストラゴンは「今日はもう帰ろう」と言うが2人はそこを動かない😑 終わり(「ポゾー」の表記は今回の翻訳通り)。
ゴドーは、ヨーロッパ人的解釈では「神/ゴッド」と考えられることが多いようだけど、ベケットはゴドーが誰なのかを語っていないので自由に解釈できます。ウラジミールたち2人がなぜゴドーを待ち続けているのかは分かりません。ゴドーが神=救世主だとすると、何かから救われたいということなのかな。
そもそも「何のために待つのか」ではなく、待つこと自体が目的と言えます。「待っている」という行為自体に人間の存在意味があるってことです。そして彼らはゴドーが今日も翌日もその後もずっと来ないことを(おそらく)予感している。待つことには希望と絶望が共存しているわけです。人生において私たちは常に何かを待ち、希望と絶望とを交互に味わいながら生きていくのですよね、時には「来ないでほしい」と密かに願いながら。
こうして昨日と同じことを今日も繰り返す2人、そしておそらく明日も同じことを繰り返すでしょう。無限に続くと思われる人生、ゆっくりと習慣化していく人生、そこに意味はあるのだろうかと思うと、苦痛と悲哀を感じてしまう。
ゴドーを待っている間に2人が交わす会話にはほとんど意味がありません。ウラジミールは宗教的、哲学的なことを口にし、エストラゴンは食べ物や身体など日常的なことを独りごつ。2人の会話はすれ違い、無意味で虚しくて可笑しいけど、何故か会話は進んでいく。これって日常的に割とよくある風景ですよね。そこに乱入するポゾーとラッキーは支配と従属の関係を示す存在だけど、2幕でその関係が逆転することで(しかもポゾーは目が見えなくなり、ラッキーは言葉が喋れなくなっていることで)時間の経過とともに人の在り方が一転する人生の皮肉や悲劇や恐怖を突きつけられる。
非常に面白い戯曲です。今回の舞台は、今まで観てきた「ゴドー」が割と無機質というか乾いた世界観だったのに対し、小倉久寛さんと横堀悦夫さんの芸風のせいなのか、なにか有機的な感触がありました。孤独感が漂う淡々としたセリフ回しではなく、日常的な自然な喋りになっていて(特に小倉さん)即興コメディーを見ているような時もあった。「靴が脱げないんだよ~」とか「もう帰ろうよ」とか言う小倉さんが甘えん坊の可愛い男に見えたりもしました😊 横堀さんは学問的なことを1人でブツブツ言う姿が、セリフにあるような “哲学者崩れ” にも見えました。鞭を片手にラッキーにパワハラするポゾーの釆澤さんにはクールなサドっ気がありましたね(本人もコメントしてた😅)。
演出でちょっと面白かったのは、ウラジミールとエストラゴンは衣装を上下交換して着ているので(ウラジミールは派手なジャケットに黒いズボン、エストラゴンは黒いジャケットに派手なズボン)2人で1人というふうにも取れる。そうすると、1人の人間がいろんな思いをぶつぶつと呟いていることになり、孤独と不条理さが増してくる。
また、ベケットは舞台について「田舎道、1本の木、夕暮れ」とト書きしてますが、今回は抽象的なセットで、それは割と良かった。舞台の下手にカーブのついたオブジェがあってそれが1本の木を表していました。上手にはスロープがついた円形の台とその上方に円環が浮いているんだけど、その意味がちょっと分からなかったな。









