明日もシアター日和

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観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

監督 羽田澄子

 

 ドキュメンタリー映画監督の羽田澄子さんが、十三代目片岡仁左衛門丈の83歳から90歳で亡くなるまでの姿(舞台、稽古風景、芸談、家族との風景など)を記録した映画を観てきました。十三代目は1903年12月15日生まれ、2歳で初舞台を踏み、1994年3月26日に亡くなりました。最後の舞台は1993年12月南座「八陣守護城」の佐藤清正で、映画の中でご本人が「役者は舞台が命」とおっしゃている通り、まさに最期まで舞台の人でしたね。

 

 幸運にも十三代目の舞台は観てきています。特に、現・仁左さまや十二代目團十郎が「助六」を演ったときの意休、やはり現・仁左さまが「女殺油地獄」で与兵衛をやったときの父・徳兵衛、そしてもちろん菅丞相など、記憶に深く残っている。東京での最後の舞台は1993年4月歌舞伎座「御浜御殿綱豊卿」の新井勘解由で、このときの舞台は映画にも収録されています。綱豊卿は梅玉で、十三代目はそのときの梅玉をベタ褒めしていますよ。

 

 映画は全6巻に分けられていてトータル10時間46分。長尺ゆえ、ディスク化やネット配信はされておらず、映画館上映も限られていたそうで、私は今回初めて観ます。

1巻「若鮎の巻」上方歌舞伎若手役者の勉強会「若鮎の会」が1987年に自主公演「一條大蔵譚」と「吃又」を行うにあたり、十三代目が監修と演技指導をした時の記録。

2巻「人と芸の巻(上)」1987年大阪中座での「伊賀越道中双六/沼津」舞台のダイジェストを中心に、他の作品の稽古風景など。

3巻「人と芸の巻(中)」1988年「菅原伝授手習鑑/学問所、道明寺」の舞台やプライベートの風景。

4巻「人と芸の巻(下)」1988~1991年の記録で、芸談や家族へのインタビュー、私財を投じて行った「仁左衛門歌舞伎」のことなど。

5巻「孫右衛門の巻」1989年「恋飛脚大和往来/封印切、新口村」の稽古風景と舞台ダイジェストなど。

6巻「登仙の巻」1991~1994年の最晩年の舞台やプライベートの風景、そして、亡くなられた後の家族のお墓参りの様子など。

 

 どの巻もすごく見応えがありました。なにより驚愕するのは、十三代目は77歳のときに突発性緑内障を発症して徐々に視力が衰えていき、映画の収録当時には、かなり目が見えない状態であったこと。それでも若手を稽古指導し舞台に立ち続けていたのですね🥹 「道明寺」の稽古では、目ではなく勘で動けるように何度も舞台を歩いたり、三段を降りる時かかとで段の後ろを触って足を下ろしたり、「新口村」では花道から出て本舞台に上がる時の目印の赤いランプや歩みの感覚を確認したり……。

 

「沼津」は平作を十三代目、十兵衛を現・仁左さまが演じていました。生き別れた親子の義理と愛のせめぎ合い、そのやり取りが実の親子だけにもうボロ泣きしました😭 「新口村」も孫右衛門を十三代目、忠兵衛を現・仁左さまが演じるという親子配役。ひとめ息子に会いたいと願う孫右衛門と息子との別れシーンに泣かされました😭 十三代目はスラリとした姿なので身長も高く見えるのだけど、仁左さまと並ぶと華奢で弱々しく見え、それがまた哀れを誘うんですよ。

 

 芸談もとても興味深く、芸に真摯に向き合う姿と言葉に深く感動。「戯曲全体を読み、やるたびに研究を加え、自らの演技や演出を創る」というのは今の仁左さまにも受け継がれていますね。それにしても十三代目は自分以外のお役のセリフも義太夫もすべて頭に入っていて驚きます。「仁左衛門歌舞伎」を立ち上げたときの苦労話も感動もの。たとえアパート暮らしになってもいいから実現させて関西での歌舞伎公演を復興させたい、と。それが成功して収益が出たときは、お金はご自身は受け取らず、他の皆に分けたそうです。

 

 プライベートな風景では、中折れ帽を被ったスーツ姿がダンディー✨ 毎朝神仏に手を合わせる習慣や、カセットテープで義太夫を聴いている姿が印象的でした。以前に現・仁左さまも、スマホはあまり使わないけど義太夫を入れていてそれはよく聴いていますとおっしゃってましたから、十三代目からの習慣なのかなと思ったり。家族のインタビューでは、現・仁左さま(当時40代の孝夫さん)の若々しいシュッとした姿がとても素敵でした~💖

 

 愉快なお話もされていました。「判官と由良助の2役をやる夢を見た。判官切腹の場で判官が腹を切った、そこに由良之助が駆け付けなければならないと分かり、どうすればいいんだと悩んでいたところで目が覚め、あー夢で良かったとホッとした」とか😅 「寺子屋の首実検では役者によって間の取り方に違いがある。(ナルシシストで有名な)十五代目羽左衛門は首を見るまでにすごく長い時間をかけていて、六代目菊五郎が『早く見てあげろよ〜』と言ってた」とか😆

 

 最終巻の「登仙の巻」では最晩年の十三代目の素顔が見られるのだけど、夏のある日の、縁側でソファにゆったりと座っている穏やかな表情が、余分なものが削ぎ落とされ、ただ芸のためだけにそこにいらっしゃるという感じで、役者人生を達観したような崇高な美しさでした。1992年南座「車引」で、十三代目の時平、我當の梅王丸、秀太郎の桜丸、仁左さま(当時の孝夫さん)の松王丸、進之介の杉王丸という、父・子・孫が同じ舞台にそろった映像は貴重でしたね。

 

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著 ウンベルト・エーコ

訳 河島英昭/河島思朗

刊行 東京創元社

 

 小説「薔薇の名前」の完全版が昨年末に出たというので読みました。エーコのこの小説は1980年に出版され、邦訳は1990年に刊行されのですが、邦訳が出る前の1986年にジャン=ジャック・アノー監督、ショーン・コネリー主演の映画「薔薇の名前」が公開されまして(日本公開は1987年)、私はまず、その映画を観てその世界の虜になりディスクも買ったほど(写真中央)。その後に出た邦訳本も、これは読まねばならないだろうと買いました(写真左の上・下)。で、今回その完全版が出たのなら、やはり読んでおきたいと、図書館で借りたわけです(写真右の上・下)。刊行を知って予約した時点で、すでに長~いウェイティングリストができており、先日ようやく順番が回ってきました。

 

 小説「薔薇の名前」は1327年の中世イタリア、ベネディクト会修道院を舞台にした7日間の出来事の話です。主人公はフランチェスコ会の修道士であるイングランドのウィリアム、その弟子として付き添うベネディクト会の見習い修道士であるメルクのアドソ

 物語のメインプロットは修道院で起こる連続殺人事件の発端→推理→解決で、ウィリアムとアドソが、さしずめホームズとワトソンのような関係を保ちながら事件に挑んでいきます。

 サブプロットとして、そもそも2人がその修道院を訪れた目的である、教皇側とフランチェスコ会との間で争われていた清貧問題の調停会談が行われます。さらには修道院に異端者がいることが発覚し急遽その異端審問も始まる。

 というわけで、殺人犯は誰で、なぜ、どうやって殺したのか=殺人事件の鍵となる修道院文書館(図書館)内の迷宮探求、写本探しをめぐる暗号と記号の推理が展開する中に、フランチェスコ会修道士と教皇使節団との論争、ローマ・カトリックにおける正統と異端問題、教皇と神聖ローマ皇帝との確執、“知” と “笑い” のもつ力とアリストテレス哲学、黙示録や終末思想といったテーマが、歴史的事実や当時の実在の登場人物などとも重ねて、縦横に織り込まれており、しかもこれらテーマがすべて何らかの形で繋がっているという、非常に脳を刺激してくる本です。

 

 今回読んだ完全版がそれまでのと違うところは、エーコ自身による文書館の図面や人物のスケッチと、別巻として刊行された「覚書」が収録されていること。また、邦訳刊行時に間に合わなかったエーコによる訂正が反映されているとか、ラテン語関連の見直しや本文の訳稿の訂正がなされているとかもあるようですが、正直言って、そのへんの違いは全く分かりません💦

 また、初版本を読んだときは難しくて理解できない部分も多々あり(特に神学論争のあたり)、それでもまぁいいかとなったのですが、完全版を改めて読んだら、分からなかったところはやはり分からないままでした😅 自分、全く成長していなかったわけですが、それでも素晴らしく面白い小説であることを再確認しました。

 

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演出/追加振付 ピーター・ライト 

音楽 アドルフ・アダン

高田茜/マシュー・ボール/アネット・ブヴォリ/ヴァレンティノ・ズケッティ/前田紗江/ジョンヒュク・ジュン/ヴィオラ・パンテューソ/リアム・ボズウェル/五十嵐大地

 

 今回の映画館上映「ジゼル」は、ピーター・ライト版であるのと茜さん&マシューという割とレアな組み合わせというので楽しみにしていました。ライトの演出はイギリス人が好きな「クリアな物語性」=マイムの力を借りた演劇的表現と心理描写でドラマを進めていくことでしょうかね。

 例えば、アルブレヒトの不実を知ったジゼルは狂乱の中で胸が張り裂けて(心臓発作?)で死ぬのではなく、心を失いアルブレヒトの剣で自らの胸を刺して死ぬ。キリスト教では自殺は(基本的には)大罪なので教会墓地での埋葬はできないから、ジゼルの遺体が森の中にひっそりと埋められ十字架も粗末なのは納得なのです。

 登場人物の造形も分かりやすくて、例えばヒラリオン。版によっては不実なアルブレヒトよりひたむきに思ってくれているヒラリオンの方がずっといいのにと思う見せ方もあるけど、ヴァレンティノ・ズケッティのヒラリオンはちょっと荒っぽい森番でおよそジゼルとは合わなそう。オリヴィア・カウリーのバチルドはワガママで高慢でアルブレヒトが(おそらく政略結婚の相手である)彼女と家系のプレッシャーから逃れたく思うのも理解できる作り。彼女を含めた貴族たちは村人に対して尊大な態度を見せるゆえ、身分の違いによる社会システムを見せつけられ、ジゼルとアルブレヒトの間に最初からある深い溝を感じました

 

 茜さんのジゼルが予想の上をいく素晴らしさでした🎊 1幕は、踊りも良いけど、ジゼルの心情表現がとても丁寧。例えば、花占いで悪い結果が出そうなのがわかりビクッと震えて見せる。あるいは、ヒラリオンがジゼルの腕を掴んでアルブレヒトから引き離し家の方に連れ戻そうと引っ張っていきかけた時、その手を払いのけて「そんなに強く掴んだら痛いワ……」というふうに自分の手首をそっとさする。アルブレヒトもジゼルの肩や手に触れまくるのだけど😅そのタッチはジゼルが気にならないくらいソフトでノーブルなのね。可憐で内気な茜ジゼルは荒っぽいほどに力強いヒラリオンより優男アルブレヒトに惹かれるの納得できる。アルブレヒトがバチルドの手を取り自分に背を向けて行くのを見たとき歪めた唇をワナワナと振るわせる。狂乱シーンの最後に、両手で自分の胸を触り手のひらを見てそこに血が付いているのに気づき「え……?」という表情を見せるんだけど、その時まで自ら剣で胸を刺したその痛みすら感じてなかったのかと思うとあまりに哀れでした😭

 こんな感じで1幕では純真素朴な少女だったのが、2幕ではガラリと変わり、母性すら感じさせる包み込むような愛をアルブレヒトに注ぐ茜ウィリ。表情はまだ少し人間ぽさ=体温や情を感じさせ、それがまた、なんとしてでも愛する人を死から救いたいという献身の思いに繋がります。夜明けを告げる鐘の音を聴いたときに、微笑みを浮かべたかのようにふっと表情が和らぐところまで見事でした✨ 茜さんの浮遊感のある踊りは絶品で、繊細なポワントワーク、美しく且つ雄弁なアームス、マシューにリフトされた時のたおやかさなど、踊りにおいても感動的なウィリでした。

 

 マシューのアルブレヒトはインタヴュー記事にあったとおり「あまり好感の持てない人物」として造形されていて説得力がありました🎉 貴族という縛り、結婚を含め自分に課せられた運命、それらから逃れたい、自由な空気を感じたいという現実逃避型の男。その “逃げ場” としてのジゼルのことは確かに好きで、一緒に遊んでいると楽しいけど、それ以上の「彼女とこうしたい、こうなりたい」ということは考えていない、とても刹那的な逢瀬です。なので1幕の彼は結果としてかなり身勝手な男💦 角笛が鳴って自分の出自と婚約者がいることがバレてしまい、ジゼルが「嘘でしょう? 嘘だと言って!」みたいに手を差し伸べるのに、それから目を逸らし後ずさるとこではサスガにオイオイッ!😩て思いましたよ。ジゼルが死んでしまったことでようやく自分のしたことの罪深さと失ったものの大きさを知るわけだけど、1幕では最後まで貴族のボンボンでしたね。

 2幕ではその悲痛を見せ、懺悔の情にかられた踊りは本当に苦しそうで痛々しく、ミルタに許しを乞うてはいるけど、罪の償いになるのなら命を失っても構わないと思っているようにも見えた。アントルシャやトゥールアンレールなどテクニックを要するステップにも心の叫びが感じられました(マシューの踊りは回転系が特に綺麗だよね)。聖母のような茜ウィリに抱かれる姿は子供のようだったな🥹 ジゼルが去り十字架のところに戻って崩れ落ちるのだけど、その姿は最初にそこを訪れ嘆いた時と同じポーズで、一瞬、すべて夢だったかと思うのだけど、ジゼルが落とした花を拾い「確かにジゼルは現れ救ってくれたんだ」と悟る。彼の罪悪がジゼルの慈愛で浄化されたと分かる瞬間だと思いました。

 

 アネット・ブヴォリのミルタが非常に良かったです。ウィリの女王としての風格と気品と威厳があり、力強いんだけど、怖いとか恐ろしいとかには見えず、雰囲気としてとってもクール。他のウィリたちを率いる存在感があり、ある意味で理想的なミルタだったな。で、今回のロイヤル版を観て、とても奥行きのある作品であることを再確認しました。

 

 茜さんはローザンヌ国際バレエコンクールで「ジゼル」のヴァリエーションを踊って入賞→ロイヤルへの入団を果たし、2016年に「ジゼル」を踊ってプリンシパルに昇格したのだそうです。マシューは、2018年にファーストソロイストでアルブレヒトデビューしたのだけど、その「ジゼル」に客演していたホールバーグが1幕で怪我降板してしまい、帰宅していたマシューのところにロイヤルから連絡→急遽の代役で2幕からアルブレヒトを踊り、その成果が認められて数カ月後にプリンシパルに昇格したんですね。マシューは今回もスティーヴン降板を受けての代役だったんだけど、奇しくも「ジゼル」に縁のある2人が組んだ公演になりました。

 

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作 ウィリアム・シェイクスピア

演出 森新太郎

吉田羊/赤澤遼太郎/星智也/中越典子/篠井英介/愛希れいか/渡辺いっけい/清田智彦/浅野雅博

 

 5月は彩の国「リア王」→日生「ハムレット」→PARCO「リチャード三世」とシェイクスピア劇を立て続けに観たけど、演出としては森新太郎さんのこの「リチャード三世」がいちばん面白かったです。

 舞台は、前方の上部から黒い幕が空間の半分まで下りている、つまり舞台空間が横長。後方も黒い幕が掛かっているだけで大道具としてのセットは組まれていない。1つのシーンが終わると暗転し、上の黒い幕の部分に次のシーンで起こる出来事が字幕で映され(ネタバレね😓)、必要に応じて椅子やベッドなど最低限の小道具が左右の袖から出し入れされ次のシーンが始まる。この奥行きのない横長の舞台は時の流れを感じさせ、上方の字幕はニュースのように事実を淡々と報道しているように見えました。

 

 シェイクスピアの戯曲に「リチャードは片脚を引きずり、片腕が不自由で、背中に盛り上がったコブがある “醜く歪んだ身体”」と書かれているけど、この芝居ではその不具を極端に誇張した姿にしてあって、吉田羊さんは片脚を曲げてもう片方の脚を伸び切らせ、腰を落として杖で身体を支え、片腕を曲げ背中を丸めた姿勢でずっと演技していた。その “醜く歪んだ身体” をカリカチュアライズして見せることでリチャードの心のきしみが感じらるんだけど、同時に、その身体から絞り出される言葉の力が強調され、例えばアンやエリザベスをたぶらかす弁舌の巧みさが際立ってくる感じでした。最初リチャードは顔を白塗りにしており、自身の運命が破滅に向かうにつれてその白塗りが剥げ崩れていくのはグロテスクだったけど、ちょっと哀れを感じてしまった🥹

 

 また、リチャードは白いジャケットを着ているので、心は清いことを表しているのかなと勘ぐったのだけど、終盤で登場するリッチモンドが赤いコートを着ていたので、あ、薔薇戦争(白薔薇ヨーク家と赤薔薇ランカスター家の戦い)だからかと納得😅

 その、赤いコートのリッチモンドですが、戯曲ではリチャードが死にリッチモンドが王冠を被って勝利宣言するところで終わるけど、ここではラストシーンが変えてある(以下ネタバレ💦)→リチャードがリッチモンドに射殺されて倒れたところで幕が一旦下り、再び幕が上がると、そこには王冠を被り赤いコートを着た人物が後ろ姿で立っている。それはリッチモンド(次期王のヘンリー七世)だよねと思っていたら、赤いコートを脱いで振り返ると、さっきまでリチャードだった男=吉田羊が真っ直ぐな姿勢で立っているのですね。そうして芝居が終わる。このすごい演出、鳥肌モノでした👏

 これは、政権は変わったけど、また別の「リチャード=暴君」が登場しただけ、為政者は結局みな同じで、同じことがまた繰り返される、権力は「リチャード化」していくのだということで、しかもそれは現在にまでつながっていることを痛感した。そういえば彼が王に推挙されるシーンはまさに茶番劇ふうな見せ方で、我が国の直近の選挙と重なったよ。リヴァースやヘイスティングズが刺殺ではなく銃殺されるところは生々しくて😖現代の拷問→銃殺を連想してしまった。

 

 私は「リチャード三世」を観るとき基本的にリチャードの心情に寄り添ってしまうのだけど、今回は何故かそういう気持ちが湧かなかったんですよね。全体を通して無機質というか、そこに流れるひんやりした空気は感じられるけど、ドロドロした悪の香りはしなくて、何か、物語を客観視しているような感覚でした。

 

 で、観劇後に分かったのだけど、字幕の多用はブレヒトが提唱した異化効果を生み出す手法のひとつなんですね。異化効果は「観客が物語に感情移入するのを防ぎ、作品を社会問題として批判的に考えさせる効果」を指すもの。今回のように、これから始まるシーンの展開をあらかじめ字幕で見せることで、観客は「どうなるのかな?」と気にしながら物語を追う必要がなくなり、「なぜそうなるのだろう?」という構造や社会問題に意識を向けられ、登場人物の行動を社会的なこととして捉えさせるのだそうです。私が先述のようなことを思いながら観ていたのはあながち見当違いではなかったのねと思いしました。

 

 リチャードを演じた吉田羊さん、素晴らしかったです🎊 彼女のリチャードは明確な野心を持ち、女性を口説く時の色気と言葉の力は半端なく、邪魔者を消していく(その指示を出す)ときは潔く、惚れ惚れするレベル😊 後半は思惑が負の方向にどんどん向かっていくのに、自分で自分を制御できず、もう進むしかないという絶望感と空虚さに包まれる姿が見えた。そして彼は最後まで孤独でしたね……。

 

 吉田さん以外の役者さんは複数の登場人物を兼任するんだけど、それも、特定の人物に感情移入する余裕を与えず、出来事として淡々と見せていくためなのかな。そういえば2人の幼い王子たちはパペットで、身体の動きはスティックで操られ、(原作にはある)殺されるシーンはカットしてあったので、2人への悲哀は感じなかったんですよね〜。

 

 複数兼任のうちメインのお役については、どれも個性がクリアに造形されていて、そこも面白かった。リチャードを陰から支え王座に登らせたのに最後に殺されるバッキンガム(赤澤遼太郎)は権力者におもねるお調子者だったし、最後まで弟リチャードを信じたのにそのリチャードに殺されるクラレンス(渡辺いっけい)は飲んだくれで決して悲劇の弟ではなく、次男坊の甘さが垣間見えたし、リチャードの真意を掴めず殺されるヘイスティングズ(星智也)は不遜な態度で自信満々な軽薄男だし、リチャードの甘言に引っかかるアン(愛希れい)エリザベス(中越典子)は女としての優しさと強さを持っていた。彼女たちとリチャードとのシーンは圧巻で、リチャードの口のうまさに騙される人間の悲しさを見せつけられました。リチャードに恨みを抱くマーガレット(篠井英介)は亡霊と魔女と巫女が混じったような作りで、登場するたびにその場の空気をかっさらっていくお見事な演技でした👏

 

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作 ウィリアム・シェイクスピア

演出 デイヴィッド・ルヴォー

市川染五郎/石黒賢/柚香光/梶原善/當真あみ/石川凌雅/横山賀三

 

 染五郎がハムレットを演じると発表になったとき私は「若い彼には、シェイクスピアの大作中の大作、大役中の大役ハムレットを演じ切れるほどの演技力はまだないのでは?」と、観ないつもりでいたのですが、演出がルヴォーと知って「ルヴォーさんの演出は観てみたい!」とチケットGET。で、観た結果→染五郎すごい、若干21歳であそこまでできちゃうの恐れ入りました🙇‍♀️となり、お目当てだったルヴォーの演出は期待外れでした💦

 

 染五郎にとって初めての歌舞伎以外の芝居だそうですが、大変良かったです。彼の年齢を加味した上での感想だけど、ハムレットの、若さゆえの性急さ純粋さ、情熱と残酷さ、不安や恐れ、悲しみや孤独など、しっかり表現されていて、特にセリフ回しが見事で言葉が感情を確実に伝えていた。独白は歩き回り身振りをつけてという感じで動的な表現になっていて、ここにも若さが見られました。動きや仕草はまだ定型化している感ありだけど、歌舞伎役者の底力を感じましたよ。

 

 黒づくめの服にサングラス(ハムレットには物事がまだクリアに見えていないという象徴的アイテムなのかな?)、サッカーボールをバウンドさせながら登場し、椅子にふてくされたように座って片脚を膝に乗せ、その足を貧乏ゆすりする。先王(自分の父)の死からわずか1、2カ月後に、母ガートルード(柚香光)は先王の弟クローディアス(石黒賢)と再婚し、先王の葬儀からまだ間もないのに、こうして婚礼の祝宴を開いている。この事実がハムレットを苦しめ不満が溜まっていくわけで、この最初の時点で、くすぶる不満の吐口が見つからずにイラついているようにちゃんと見えました。

 

 クローディアスが先王を殺害したのだと知ったことで復讐を誓い、とりあえず狂ったフリをしてオフィーリア(當真あみ)に愛想尽かしをするのだけど、染五郎ハムレットはそもそも彼女を愛しているようには見えなかったな😓 それはオフィーリア役の演技との兼ね合いでそう見えたのかもしれないし、あるいは染五郎はまだ恋愛感情を表現するのは不慣れなのかななんて思ってしまった。

 一方、母ガートルードに対しての独占欲には凄まじいものがあり、母をクローディアスに奪われたことに対する嫉妬の感情の爆発が見えた。もしかしたらガートルードと先王とは年が離れた夫婦(政略結婚かな?)で、夫婦間に情熱的な愛情はそもそもなく、ゆえに、母の愛は息子ハムレットにひたすら注がれており、2人は仲の良すぎる母息子だった、それが、先王の死後ガートルードの前に若いクローディアスが現れ、彼女は彼に夢中になった。それはハムレットにしてみれば「母をクローディアスに奪われた」ことになる……と、そんな物語を想像してしまほどの、母の私室での濃密なシーンでした。

 

 石黒賢のクローディアスが意外にも良かったです。一国の王というほどの威厳はないけど、ガートルードがコロッとなるほどにはイイ男で、悪党らしいずる賢さも時々見えたりしてた(←褒めてます)。一方、先王の亡霊は姿は出さず声だけなのですが、それも石黒賢がやっていて、そちらは、若い声で威厳がなさすぎ、殺されたことでの怒りも恐怖感もなく、何かナレーションじみていて興醒めだったな。

 

 ルヴォーの演出ですが(新鮮な解釈はされていないという意味で)拍子抜けするほど普通でした😔 開演前から舞台の後方に黒々とした波がうねる海の映像が投影されていて、宮廷内は赤黒い壁で囲まれている。剣術試合シーンになると海の色も赤黒くなり、それが溢れて宮廷内に押し寄せ、床が赤黒く染まっていく(←照明で見せる)。この、血の混じったような黒っぽい色は不穏な空気を醸し出すのに十分でした。

 先王の亡霊シーンになると骸骨の映像が後方に映し出され、喋りながら空中を徘徊する段になると、棒に結びつけられたボロボロの長い旗のようなものが舞台を走り回り、それにハムレットは翻弄される。と、この辺までは特徴的で面白いのです。でも、ルヴォーにはもっと心理の深みへの追求、肌にまとわりつくような感触みたいなものを期待してたんですよねー。

 

 最後、ホレイショーを残して主な登場人物たちが死んだ後、ノルウェーのフォーティンブラスが軍隊を率いて現れる、ここまでは原作通りなんだけど、その彼らは宮廷の臣下たちを銃殺するのです💥 後方の波の映像は戦火の映像になっていく。こういうラストは以前にも観たことあるけど、フォーティンブラスは父をデンマーク王に殺されているのでその復讐を果たしたということですよね。ルヴォー言うところの政治力学を反映させた演出で、ハムレットの時代も今も変わらない「争いの連鎖」を見せる意図があるのだと思うけど、あまりに唐突。それならば最初からそういうカラーで見せていって欲しいと思いました。

 

 他にも意味不明な演出がいくつか。ハムレットがもてあそぶサッカーボールは何を意味しているのか。冒頭の祝宴でガートルードが弾き、狂乱するオフィーリアが素足で乗り、最後に燃え果てるピアノの意味するところも分からなかった。「秩序/平和が次第に崩壊する」ことを表したのか? 埋葬シーンで皆が立ち去った後、オフィーリアの亡霊が現れて自分の墓穴を見つめる、その意味も分からない。それを見せるのなら、最初からオフィーリアの存在をもっと強調した見せ方にしておかないと「オフィーリア(亡霊)よ、いきなり、ど、どうした?💦」って思うわけです。オフィーリアの亡霊はそれっきり出てこないし(剣術試合シーンに登場すれば面白かったかも)。あとですね、ハムレットのあの中途半端にウェーブがついたヘアスタイル、染五郎に全く似合っていないんですが、もう少し何とかならなかったのかなー😅

 

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作 サミュエル・ベケット

演出 小川絵梨子

近江谷太朗/中山求一郎/田中英樹/佐藤直子

 不条理劇です。期待通りすごく面白かった。戯曲の刊行はベケットの代表作の1つ「ゴドーを待ちながら」の5年後。終わりの到来を予感する人たちの話です。身動きが取れなくなった彼らが「終わりが近づいている/いや、まだ終わらない/終われない/終わらせたくない」とあがくみたいな…。これは以前に他の演出家による舞台を観ましたが、演出家によって全く違う印象になるんだなと、当たり前のことを改めて思いました。以前の時は最後に絶望感を覚えたけど、今回のラストは希望や救いが見えるように思えたからです。

 

 ネタバレ概要(不条理劇なので明確なストーリーはないです💦)→小さい窓が2つある部屋。目と両足が不自由でキャスター付き椅子に座っている男ハムと、彼の世話をしている片足が不自由な若者クロヴ。ハムはクロヴに対して支配的でさまざまな要求をする(痛み止め薬を持ってこい、椅子を動かせ、犬を連れてこい、窓から外の様子を見ろなど)。クロヴは時に素直に、時に反発しながらそれに従う。部屋に置いてある2つのゴミバケツそれぞれに、両脚を失った男ナッグ女ネルが入っていて、時々顔を出して会話をする。ハムはその2人にも辛辣に当たる。ネルは死に、ナッグはゴミバケツに隠れる。ハムは自分の「物語」を語り、クロヴは窓の外を眺め「全てのものが失せ荒涼とした風景だ」とハムに教える。クロヴはハムを置いて出ていくと言うが、舞台に留まったままでいる。ハムはそれに気づかず「物語」を語り続けて、休む。終わり。

 

 タイトルはチェスの用語だそうで「ゲームの最終段階=チェス盤上の駒が減り勝負の行方はほぼ決定してるが、チェックメイトになるまで駒を進め続けなければならない段階」のことらしい(プログラムより)。私はチェスを全く知らないのでタイトルと芝居との関連性は何とも言えません🙇‍♀️ 芝居の最初にクロヴが客席に向かい「おしまい。終わりました。終わりそうです。もうすぐ終わるはずなんです」と言い、そのあとハムが「もう終わってもいい時なのに、私は終わりにするのをためらっている」と言う。終わるとは、意味ある人生を放棄すること?

 

 舞台セットはシェルターを思わせる灰色のドームのような感じに造られており、その高い位置に窓が2つのある。窓の外を見たクロヴの言葉によると、外の世界は崩壊しており、陸地はどんどん水で覆われていき、ほとんどの生き物は消滅しているらしい。リアリズムで考えると、そこは終末期にさしかかった世界で、シェルターの中で生き残った4人は自分たちもやがて終わることを知っている。

 でもプログラム内の記事を読むと、演出家の希望で美術スタッフは「ドームは頭蓋骨の中、2つの窓は目」というコンセプトでデザインしたらしい。私たち誰もが “見て” “思う”「生きることと終わること」に関わる話として受け止めればいいのかな。そういえば開演前に、雑踏や車の往来、鳥の囀りなど、日常風景を思わせる音が聞こえていました。普段の生活においてさまざまな理由で閉塞感を覚え、希望や意欲を捨てて何もかも諦めたくなる時、救いや突破口をどこに見出せばいいのだろう

 

 今回改めて思ったのは、終わらせないためには人間同士の繋がりをもつこと、誰かと、あるいは何かを話すことが大事かもということでした。クロヴはハムに引き取られた孤児という義父/義息子の関係。ゴミバケツに入っているナッグはハムの父親、ネルはハムの母親かどうかはわからないけどナッグの婚約者。で、4人はつながっている。彼らは同じような他愛のない会話を繰り返すだけで、たぶん毎日同じことを繰り返しているのだろうけど、それが分かっていて皆それぞれの役割を演じている

 それでもネルとクロヴは「毎日、毎日、どうしてこんな茶番劇をするのか」と呟くシーンがあるんだけど、ネルはクロヴに「逃げなさい」と囁いて死ぬんですね。ネルは、そうした不条理を超えたところにある現実(彼女のセリフで言うと「湖の底で見た白いもの」)を知ってしまったために消えていく存在だったのかも。でもクロヴが出て行かないのは、ハム=homeと重ね、ハムはクロヴの「家」=安全と居心地の良さを得られる場所だからなのか?

 

 今回の舞台に楽観的なものを感じたのは、クロヴの演技から喜劇的な明るさと自我の強さを感じたからかもしれません。彼はこの茶番劇に絶望的になっているのではなく半ば楽しんでいるような、妙な軽さがあったナッグはビスケットを食べたり飴をねだったりと食べることに貪欲だった。ハムは人に対しては辛辣だけど自分の物語を話すととても人間味のある語り口調になる。そして、聞いている人がいる/いないに関わらず、語ることで時間を紡いでいく。そういえばナッグもネルに自分のお話を無理やり聞かせていたな。2人とも活力があった。クロヴもそれを受け継いでいくのだろうか。

 観劇後にいろいろな思いがが錯綜し、結論は出ないのだけど、それだけ面白い作品だなという感想に尽きます。

 

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振付 ウェイン・マクレガー

音楽 マックス・リヒター

ナタリア・オシポワ/ウィリアム・ブレイスウェル/マルセリーノ・サンベ/高田茜/前田紗江/レティシア・ディアス/金子扶生/アクリ瑠嘉/クレア・カルヴァート /パトリシオ・レーヴェ

 

 2015年初演の本作は、2017年にシネマ上映で観た後、同じものを2020年コロナ禍に配信でも観ました。すごく好きな作品です🎊 今回観て、バレエは総合芸術だということを改めて強く実感しました。確固としたドラマツルギーのもと、振付と踊り、音楽と音声(朗読)、舞台美術と衣装とメイク、映像と(レーザーも含めた)照明など全ての表現が完璧にマッチしており、知的かつ情緒に溢れ、観る人の気持ちを高揚させ、最後はなぜかとても穏やかな気持ちになる。

 ヴァージニア・ウルフの小説は昔いくつか読んだけど、実は全く好きになれず💦(いわゆる「意識の流れ」スタイルの文体に拒絶反応🙇‍♀️ 「オーランド」はかろうじてOK)なのでウルフという人物に、作家としても人としても特別な興味は持てないのですが、このダンス作品はその気持ちを吹き飛ばす力がある。マクレガー曰く「ウルフの文体は感覚そのものでダンスに通じている。ウルフは感覚を刺激し、身体は感覚の宝庫だ」。確かに!

 

I now, I then(「ダロウェイ夫人」より)

 全3幕のうちこれが最も小説の物語性を出しているけど、そこはマクレガー、リアリズム風にナラティヴで見せていくのではなく、エッセンスを象徴的にまとめ、ウルフ自身の人生とも重ねて展開する。クラリッサ・ダロウェイ(オシポワ)夫(レーヴェ)と、かつて自分にプロポーズした男ピーター(ウィリアム)、そしてウルフ(オシポワ)と、かつて愛し合った女性サリー(ディアス。ちなみにウルフはバイセクシャル)。小説のクラリッサと現実のウルフの人生がシンクロするのだけど、2人を繋ぐのが、第一次大戦従軍でPTSDとなったセプティマス(サンべ)。彼は妻(高田茜)はいるけど、同性愛感情で結ばれていながら戦死してしまった上官(マシャーリ)との思い出に苦しみ、最期は飛び降り自殺する。

 オシポワとサンべのデュエットは取り戻せない過去の思い出に囚われる2人が、そこから解放されたいと願う自己と葛藤してるように見えた。サンべの苦悩のソロが素晴らしい若き日のクラリッサ(前田紗江)とサリーのデュエットは同性愛的なものより無邪気さが前面に出ていて、それを後方から見つめるウルフの切なさが伝わってきた。そう言えば、クラリッサとピーターの踊り(ウィリアムの優しげで穏やかな動きが印象に残る)を夫が、セプティマスと上官のPDDをセプティマスの妻が、やはり後方から見つめていて、その寂しげな姿に胸が詰まりました。ここでは誰もが孤独を抱えている🥹

 

Becomings(「オーランドー」より)

 マクレガーの真骨頂が発揮された一幕でした。16世紀半ばに男性として生まれ、途中で女性に転生して、30代という若さのまま350年ほどを生きたオーランドの物語。ウルフの恋人だった女性ヴィタをモデルにしたのだそうです。小説の発端で設定されているエリザベス朝時代の衣装(ヒダ襟、ダブレット、女性のヘアドレス、かぼちゃパンツなど)で、音楽も最初はバロック味がある。でも、時空とジェンダーを超越する物語の通り、ゴールドでコーティングされた衣装はどこか宇宙人ぽくもあり、音楽も次第に電子音になりレーザーが空間を切り、舞台はどんどんSFファンタジーの世界になっていく。

 ダンサーたちは身体の動きの限界に挑戦しながら美しさをキープしつつ、さまざまなステップを見せる。関節が外れたような手脚、オフバランスから重心を変え、宙に飛ぶ。すごくクールだ! その過程で彼らは衣装を変えて男になり女になり、男女のペアから同性のペアになり……。そうしながらも、物語にある抒情やユーモアや官能などは感じられるんですね。ダンサー全員キレッキレの踊りだったけど、金子さんがひときわ飛び抜けたダンスを見せてくれて素晴らしかった。最後は皆がスキンカラーのレオタード姿で中性的な存在になり、その中をオシポワが入ってくるところは、いかにも時空を旅してここに辿り着きましたという感じだった。

 

Tuesday(「波」より)
 タイトル「火曜日」はウルフが自殺する前に夫に宛てた遺書に、日付の代わりに「Tuesday」と書かれているところから取ったもの。ウルフは1941年3月28日金曜に入水自殺したのだけど、遺書は3月18日火曜に書かれたとされているようです。

 この幕は小説「波」そのものからは離れ、ウルフの死を象徴する水からイメージを広げたような作品。舞台の後方に荒々しい波頭を立てる海の映像が映し出されるけど、実際にウルフが入水したのはウーズ川。それを海に変えたのは、川→水→海=生命の母というイメージからかな。最期、ウルフは海/母の中に帰っていく、みたいな。

 冒頭で夫宛ての遺書が朗読されるのだけど、「もし誰かが私を救ってくれたなら、それはあなただったでしょう」という箇所のタイミングで、オシポワの後ろに現れるのは、第一部での夫(レーヴェ)ではなくピーター(ウィリアム)なんですね。ピーターはクラリッサにとっては「若い頃に愛した人」だけど、ウルフにとっては「かつて自分の中にあった情熱、希望、そして不安、悲しみ」のメタファー、あるいは、それらを体現するもう1人の自分なのだろうか。自分を最も理解してくれるのは結局自分でしかない、ということ?

 珊瑚がモチーフのオブジェを顔につけた群舞は海の精のように見える。それが波となってゆらめき動き、その中をただようウルフを少しずつ包み込んでいく。オシポワの、あらがうような、身を任せるような動きや、ウィリアムとのゆったりとしたデュエットがとても美しい。波の映像も、最初は超スローモーションなのが次第に早く荒々しくなり、それは死を前にしたウルフの心の動きのようだった。幼い頃から現在までの思い出の中を歩き、やがて波に揉まれてそれら全てが飲み込まれ、最後にウルフはピーターに支えられ横たわる……その幕切れはちょっと生々しく、でもとても感動的でした。

 

 全体を通してオシポワのダンスと心理表現に感嘆しました。初演時のフェリとはまた違って、強さの中にある脆さ、輝きの内側にある闇みたいなのが踊りや動きに感じられ、どの幕も深みのある舞台になっていた。余談ですが、オシポワの身体が丸っこくなっていて、がっしりとした重量感が……😓 それ自体はまぁいいとして、決して逞しい身体とは言えないウィリアムや少し小柄なサンべがリフトするとき、彼らが腰や膝を痛めやしないかとちょっとヒヤヒヤしてしまった😅

 

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「鬼一法眼三略巻」(菊畑)

辰之助/松緑/彦三郎/時蔵/亀蔵 

 三代目尾上辰之助襲名披露狂言は、昼の部が「寿曽我対面」だったのに対し、夜の部がこれです。新・辰之助は、虎蔵じつは牛若丸というお役。平清盛に表向きだけ仕えている鬼一法眼(彦三郎)が所持する源氏の兵法書「三略巻」を奪うため、その虎蔵/牛若丸に仕える知恵内(松緑)と共に、奴として鬼一の館に潜入している。鬼一の娘皆鶴姫(時蔵)は虎蔵に惚れ込んでるのだけど、鬼一の弟子(実は清盛が送り込んだ密偵)の湛海(亀蔵)も姫が大好きなので……以下いろいろあり……😓姫が虎蔵と知恵内を、兵法書がある蔵に手引きするところで終わります。

 

 新・辰之助は昼の部での荒事とは打って変わり、この虎蔵は、本当は牛若丸(源義経)というお役なだけに完全にハマり役でした。気品と柔らかさがブレンドされた雰囲気で、少年ぽさが残る面差しは義経になる前の牛若丸そのもの。役柄の特徴もよく捉えていてセリフには芯の強さと香りがあった。その辰之助牛若丸を主と仰ぐ松緑知恵内は、奴としての無骨さと愛嬌がある。父松緑が、主従関係の “従” の立場から息子辰之助の襲名を支えている形になっていて、胸が熱くなります。

 鬼一の彦三郎は総白髪と顔の皺で老け造り……なのに声に艶があるので老けて見えないのですが😅 深く重みのある声色のおかげで貫禄は十分。知恵内を追い詰めるところも威圧感があり、含みを持たせたセリフ回しも良かった。舞鶴姫の時蔵は虎蔵に積極的にアタックしていくところや、好きな人のために思い切ったことしてしまうところが可愛らしくも行動派の姫でした。

 湛海の亀蔵が登場したところで襲名口上。新・辰之助と松緑を挟んで、昼の部の口上には出なかった、彦三郎、亀蔵、時蔵が座ります。亀蔵は「私は新・辰之助さんが生まれたその日に会っているんです」と。その日、芝居が終わった夜、松緑と一緒に病院へ駆けつけたのだそう。すごい出会いですね。

 

「助六由縁江戸桜」

團十郎/八代目菊五郎/男女蔵/梅玉/尾上右近/松緑/辰之助/鷹之資/時蔵/雀右衛門/市蔵/九團次/歌女之丞/萬次郎/家橘/新之助/齊入

 いやぁ~、やっぱり「助六」は良いですわ~🎊 そして、團十郎の助六には菊五郎がベストマッチ。なんだかんだ言っても團菊の並びは唯一無二、落ち着きます。また、今回は “令和の三之助” の舞台は叶わなかったけど、かつての “平成の三之助” が揃うという、何か感慨深い舞台だったな。「助六」での大きな見どころのひとつは花道でのパフォーマンス。助六の出端とつらね、揚巻と白玉の花魁道中ですよね。これは絶対フルで見える席に座らないとダメなので、夜の部は1階席を取りましたよ👍

 

 團十郎の助六、襲名披露公演以来なんですね。傘を差しカッカッカッと下駄を鳴らして花道を颯爽と登場した姿は “粋” が着物を着て歩いているよう。なんといっても華があるし、荒事としての豪快さと勢い、プラス和事風な色気もほどよくてね。意休(男女蔵)には喧嘩腰で向かって行き、兄(梅玉)とのやりとりではヤンチャな弟になり、母(雀右衛門)の前では神妙に腰を低くし、でもって常に江戸っ子らしい軽やかさを感じさせる。セリフも癖が随分なくなっていましたよ。

 菊五郎の揚巻も負けず劣らずの素晴らしさ。色っぽさは薄味でスッとした佇まいに気高さと気品とがまとわりついてる、それが菊五郎の持ち味なんですよね。意休への悪態のつらねもスカッとしていて気持ちよく、助六を心配するようなセリフにはお姉さんぽい落ち着きが見える。團十郎と顔を見合わせたりすると、俺たち同級生で幼馴染なんだよね……という空気が感じられてほのぼのとした気持ちになるのでした。助六の花道からの引っ込み、それを見送る揚巻が上体を優雅にグーッと反らした姿の美しいこと。そこに幕がスーッと引かれて終わるところも含めて、よくできた芝居です。

 

 お話もさることながら「助六」が演目として良いのは、助六と揚巻以外にも見せどころのあるお役がたくさんあるから、多くの役者さんにお役を振ることで皆がそれぞれのシーンで張り切れること。それで全体として華やかで楽しい舞台になることです。

 例えば、髭の意休の男女蔵。堂々としていて憎たらしくてちょっと人間味があって大変よい。意休はただの意地悪爺さんではなく、頭良いし、実は助六に対して器の大きいとこを見せる人物で、男女蔵は若い分そのあたりはあとちょっとだけど、期待したいです。なぜなら男女蔵の見た目がもう左團次のコピー😅 声も全く同じ系統で、今はまだ枯れた声ではないけど同じ渋味を持っている。ニンも左團次と同じだし、これからもお父さんの持ち役をどんどん演じていってほしいです。

 通人は尾上右近で、團十郎と梅玉への、芸の上での感謝の言葉を盛り込むという今までにないユニークで素敵なアドリブでした。股くぐりは、普通うつ伏せでシュルッとくぐり通るのだけど、右近は團十郎の股をくぐるとき仰向けでズリズリズリと動き、通り終わって立ち上がると「大丈夫、履いてました」って😆 で花道に出てからは新・辰之助の襲名を寿ぐ口上を述べたのも良かったな。

 

 今回のスペシャルは福山かつぎの新・辰之助くわんぺら門兵衛の松緑のやりとりですね。辰之助のかつぎは江戸っ子らしい軽やかさがあり、着物の裾をまくってあぐらをかき啖呵を切るところがなかなか良かった。彼に喧嘩を売る門兵衛の松緑。この前の演目「菊畑」では息子をフォローする家来になり、「助六」では息子に「ざまあみやがれ」と捨てゼリフを吐かれる役で息子を引き立てる。自分が辰之助を襲名した時はお父さん初代辰之助もお爺さん二代目松緑も亡くなってたから、後ろから支えてくれる家族がいなかった松緑。自分がして欲しくても叶わなかったものを、いま息子に精一杯の形で与えてるんだなと思い、ちょっとウルッとしてしまいました。

 そうそう、幕開けの口上は新之助で、なかなか立派でした。とにかく、團十郎の助六はもう絶品で揺るぎないものがありますね。だからなおさら(と敢えて言いますが)、他の役者さんの助六もそろそろ観てみたいという贅沢な希望もあるのですが。

 

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「南総里見八犬伝」

尾上右近/巳之助/彦三郎/廣太郎/種之助/廣松/男寅/鷹之資/九團次

 

 足利成氏(九團次)に献上した名刀・村雨丸が偽物とすり替えられていたことから間者として追われることになった犬塚信乃(尾上右近)。芳流閣の屋根に逃げ延びて、そこで捕手はじめ犬飼現八(巳之助)と大立ち回り。そこから眼下の利根川へ落ち(たことになって)生還した2人のところに霊玉の導きで八犬士が勢揃い、だんまりから絵面の見得を決め、犬山道節(彦三郎)が花道を六方で去り、幕。

 最初の芳流閣から場が移って館の屋根、その上方に登って決めてみせる右近の上半身が見えないという、3階B席の民の切なさよ😓 捕り手たちとの立ち回りは梯子とか刺股とか小道具をいろいろ使っていて派手で楽しいのなんのったらありません。捕り手たち軽やかにトンボを見せるわ屋根から落ちるわ組んで右近を支えるわで大活躍。

 そのあと右近と巳之助との勢いある立ち回り。右近は颯爽として若々しく身も軽やかで文句なし。巳之助は力強い動きから骨太な感じが出ており、対照的な2人の立ち回りはメリハリがあって面白い。2人とも踊りが上手い役者さんだから、型や決めポーズがバシバシ決まります。がんどう返しでスペクタクル味もアップ。

 場が変わってだんまりになるんだけど、船頭たちが船の櫓を掲げて「八」の字を作るという粋な演出も。でもって、彦三郎が見せる花道での荒々しい立ち回りから引っ込みまでがカッコいいのです。七三までしか見えない3階B席の民ですが(しつこく言う😅)。

 でも芳流閣→利根川で終わるのは置いてきぼり感ありというか「続きが観たい!」というフラストレーションが残ります。もしかしたら松竹さん、近いうちに通しで出そうと思っていて今回はその様子見なのかな。ぜひお願いしたいです🙏

 

三代目尾上辰之助襲名披露狂言「寿曽我対面」

辰之助/八代目菊五郎/七代目菊五郎/萬壽/雀右衛門/團十郎/権十郎/橘太郎/萬太郎/巳之助/新悟/尾上右近/松緑 

 浅葱幕が振り落とされると、工藤祐経(七代目菊五郎)がすでに上手の高座に座っており家臣や大名たちもずらりと並んでいて、一気に華やかな気分になります。舞鶴(萬壽)に呼び出されて登場する十郎(八代目菊五郎)五郎(新・辰之助)兄弟。辰之助は線が細めの体格のせいもあるのか、荒事のニンではないと思うし、実際、荒っぽさはなくて、荒事の定番表現といっていい「カッカッカッ、ンゴォ~」って喉を鳴らすところはできてないなど物足りなさはあったのは確かです。でも見方を変えれば、荒事に必要なが稚気が見え、素直かつ爽やかさも加わって独特な五郎だった。腰を落とした形も綺麗だし、工藤祐経に対する敵意を素直に出すところに健気さすら感じました

 八代目菊五郎の十郎は柔らかみがあって適役。血気溢れる五郎を制するところはまさにお兄さんでした。友切丸を持参した鬼王新左衛門の團十郎が揚げ幕の奥から「しぃ~ばぁ~らぁ~く~、しぃ~ばぁ~らぁ~く~」と声をかけたときは、一瞬「暫」が始まるのかと思ってしまう楽しさ。七代目菊五郎さんがポーンと投げた “狩場の切手” が八代目菊五郎の真正面でス……と止まったのはお見事でした👏

 

 「裾野で会おう」「さらば……」「さらば……」のあと襲名口上です。一部の役者さんたちが引っ込み、後見に回っていた松緑が出てきて、並びは上手から、七代目菊五郎雀右衛門八代目菊五郎新・辰之助松緑團十郎→萬壽。七代目菊五郎さんは「初代辰之助とは兄弟のように稽古や遊びを楽しんだ」と。そういえば今の松緑が2002年に松緑を襲名したとき、どの演目でだったか忘れたけど七代目菊五郎さんが劇中で「ガンバレ、ガンバレ、しょーろっく! ガンバレ、ガンバレ、しょーろっく!」とエールを送ったんですよ。あのとき新・松緑はまだ27歳だったから「襲名には早すぎる、実力が伴っていない」などネガティヴな意見もあったんですよね。父初代辰之助と祖父二代目松緑を相次いで亡くしたあのときの新・松緑への菊五郎さんの優しさに、ウルッときたのを思い出しました🥹 辰之助とは全く関係ないエピソードでした、すみません。

 團十郎は「新・辰之助さんはこれまでサコンヌとして、染五郎さんや團子さんと共に人気でしたが、少し年は離れますが令和の三之助もよろしく」と言っていました。そうですよね、せっかく團菊祭で襲名披露するんだから、新・辰之助、新之助、丑之助という “令和の三之助” が揃う演目、出せなかったのかなー。いつかそういう舞台を観たいです🙏

 

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作 ウィリアム・シェイクスピア

演出 長塚圭史

吉田鋼太郎/山西惇/石原さとみ/松岡依都美/矢崎広/藤原竜也/山内圭哉/吉田美月喜

 

 辛口感想です🙇‍♀️ 自分の感性/好みと、演出家のディレクションや役者の演技とが合わなかったということで🙏 演出家さんと主役の役者さんが発表になったとき、あまり期待しないでおこうと思ったのだけどその予想は当たっていた。だったらそもそも観なければいいのだけど、シェイクスピア作品だし、もしかしたら面白いかもという期待もあったしね。

 「彩の国シェイクスピア・シリーズ」で吉田鋼太郎さんが演出から外れたことにはホッとしました。彼は役者であって、演出家としては……💦 彼が主催・演出する劇団AUNの公演は面白かったんですけどねー。で、その彼から依頼されて本作の演出を引き受けた長塚圭史さん。長塚さんの作品はいくつか観てますが、自分のツボにあまり刺さらないのですよ(彼が主催する劇団阿佐ヶ谷スパイダースの舞台は未見)。

 

 舞台上に、円形に褐色の土が盛ってあり、演技はほぼその上で行われる。その大地はリアの国土を象徴していると捉えたけど、同時に不毛であることも感じました。その後方の床に椅子が並べてあり、役者たちが控えている。盛り土の上にコーディリアが横たわっていて、その後ろにリアが立ちそれを見つめている。後方にいた役者たちが舞台に登ってくるとコーディリアも起き上がって役者たちと一緒になり、リアは後方に一旦引き下がり、そこから芝居が始まります。

 

 プログラム内の演出家のコメントによると、この冒頭シーンは「リアが自分の辿った道のりを見つめている」ところで「冒頭から終わりまで、リアは自分が大きな過ちを犯してきた時間と向き合っている」らしい。これはプログラムを読まなければ分からなかったことで、それが分かるような演出にはなっていなかった(私が感じ取れなかっただけかもですが🙇‍♀️)。本編が始まってからも、後方の椅子には出番を待つ役者たちが座っているのだけど、それが意図するところもよく分からなかった。リアの脳裏で自分の過去が「芝居の形」で再現されていくという構成だからその登場人物が控えているのだとしても、あまりうまく機能しているようには思えなかったな。

 演出自体は拍子抜けするほどオーソドックスで意外性はなく、演出家独自の解釈も感じられない。そのぶん役者の言葉の力で引っ張っていく芝居だけど、総じて、作品に深みや味わいは感じられなかったです(←個人の感想です)。

 

 リアを演じた吉田鋼太郎さんの演技スタイルは知っているから覚悟はしてたけど、案の定、ずっと怒鳴る&叫ぶのセリフ回しで辛かった😓 登場時は老齢の弱々しい男の感じだったけど、国土分割の段階になってコーディリア(吉田美月喜)のすげない返答を聞き、一気に傲慢で驕り高ぶった喋りになり、あとはずっとこの調子の、ガナリたてる喋り方だった。狂気を纏っていく嵐のシーンでは暴風のように声を張り上げ、目の前にいるエドガー(藤原竜也)に向かって話すだけなのに怒鳴り口調。このあとガクンと老人になるのでそれとの差異を付けるためなのかもだけど、とにかく熱いハイテンションのまま終盤に突入していく。1つのシーンや1つの長ゼリフの中でもう少しメリハリつけて欲しいなと思いながら観ましたよ。

 コーディリアとの再会シーンになってようやくトーンが落ち、ホッとしたんだけど、ここからのリアはどういうわけか身体が小さくなっていて、その見せ方はサスガに素晴らしかったです。まさに「80の坂を超えた愚かな老人」だった。でも最後、コーディリアの遺体を抱いて登場したときはまた元気になって叫びちらかしてた😅 で、ここでコーディリアを地面に横たえ、冒頭のシーンに繋がるわけです。

 

 リアは長女ゴネリル(石原さとみ)と次女リーガン(松岡依都美)に対して暴言を吐くのだけど、鋼太郎さんはこの調子で完全にDV化していて、そのためリアに何の同情も共感も覚えないのに対して、2人の娘が正当に見えてきました。実際、石原さんと松岡さんには自分の手で自らの立場を守り将来を切り開いていく強さがあった。まあ、清廉潔白な娘たちではないけど、そこは、この父にしてこの娘たちありですね😓

 その2人をモノにし出世しようと企むエドマンドは矢崎広さんだけど、悪党っぷりや貪欲さや色悪の香りがちょっと薄味だった。ゴネリルとリーガンの陰に隠れてしまってたような。

 リアに忠実なグロスター伯の山西惇さんがとても良かったです。山西さんがおっしゃっているようにグロスター伯とリアとは表裏一体。身勝手な父親で息子の本心を見抜けず裏切られ絶望する。プログラム内の配役紹介文に小見出しが付いていて山西さんのページには「“狂えなかった人” の人間臭さを」とあり「あ…そうか、狂ってしまった方が苦しみから逃れられる、ある意味、救われることもあるんだ」と思った。正気のまま悲しみを抱えて死んでいったグロスター伯の悲劇に涙しました🥹

 

 観客の反応でちょっと驚いたのは、狂気に陥ったリアが頭に枯れ草をたくさん刺して現れたとき客席から笑いが起こったこと。また、リアに「この挑戦状を読んでみろ」と言われたグロスター伯が(両目をくり抜かれていたため)「読みたくても私は目がないのだ」と言ったところでも客席からドッと笑い声が。そこで笑うってどういう感覚なんだろう🙄 ここまで観てきて2人の運命に哀れさを感じないのだろうか? ドラマの悲哀が観客に伝わってないってこと? もし笑いが起こるとしたら道化のセリフのところだと思うのだけど。

 ところがその道化(中山祐一朗)が全く印象に残らない存在になっていた。もう少しうまく見せられないものだろうかと思いました。あ、役者が悪いのではなく、演出の問題ね。道化はリアを映す鏡……ではないとしたら何なのでしょう? ただのおどけ者という捉え方なんだろうか。そういえば、狂って地に這いつくばったリアが土の中から帽子を見つけそれを被ろうとするんだけど、それは道化がかつてかぶっていた鶏冠つき帽子(に見えた)で、そこは上手く解釈したなと思いました。

 う~む、鋼太郎さんが演じるシェイクスピア劇、悲劇ではなく喜劇で観たいなあ。それならいくらでもぶっ飛んでいいから。そういえば前回の「マクベス」での魔女役、最高でした。

 

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