明日もシアター日和

明日もシアター日和

観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

 これ、昨年も放送されましたね。そもそもこの2023年の公演「ベジャール・プログラム」、私は、ユーゴが「ボレロ」メロディーを踊るというので、それに合わせて日程を組んでパリ遠征したのです……が、ユーゴは1回目を踊った後に怪我をしてしまい、私がチケットを買った2回目、3回目は降板という😱(開演10分前にキャスト表を見て知った😓)「バレエ海外遠征あるある」体験をした思い出の公演。ユーゴの代役でメロディーを踊ったのは、2回目がアマンディーヌ、3回目がオドリックでした。

 実際の公演は「火の鳥」→「さすらう……」→「ボレロ」の順に上演されたんだけど、放送では「ボレロ」を最初に持ってきてある。何故だろう? 各作品の前にベジャールの過去映像コメントを入れてあり、冒頭でベジャールが「ダンスは言語であり、何かを語るためのものです」と言っているのが印象的です。

 

「火の鳥」

マチュー・ガニオ/フロリモン・ロリュー

 フォーキン振付のバレエ・リュス版とは違い(曲自体も短いし)、ベジャール版「火の鳥」が描くのはレジスタンスの精神、概念。ダークグレーの衣装に身を包んだグループはパルチザンで、精神的エネルギーを象徴するような赤い光を浴びた彼らの中から1人(マチュー)がリーダー=火の鳥となって姿を現し、皆を引っ張っていく。

 マチューは希望を掲げ、皆を鼓舞し、闘志を見せて戦う(踊る)んだけど、残念ながら前半はレジスタンスの闘士には思えなかったな💦 たくましさ、怒りにも似たパワー、反骨心のほとばしりみたいなのがもっと見えるといんだけど、マチューはどうしたってエレガントでノーブルなんだわ。彼に引きつけられて踊る同士たちのフォーメーションが美しい。

 でも後半は訴えてくるものがありました。挫折し倒れたマチューの背後から不死鳥(フロリモン・ロリュー)たちが現れ、立ち上がって復活したマチューからは、勝利の喜び、その崇高なる魂みたいなもの……その抽象的な存在としてのマチューはとても輝いて見え、彼の美しさが相乗効果となってクライマックスを作っていました。不死鳥とその取り巻き(=彼から放たれる熱い炎?)とが一つになって踊る、集合体としてのダンスのダイナミズム、身体が作る形の美しさは格別。希望を感じさせるエンディングでした~。

 

「さすらう若者の歌」

フロラン・メラック/オドリック・ブザール

 この作品についてベジャールは「運命に苦しむ若者、彼は自己という敵と闘う、その2人の物語です」「肝心なのは、テクニックや姿形ではなく、秘めた内面や感性を見せることです」と。「パトリック・デュポンへのオマージュ」公演で、ジェルマン&ユーゴのこれを観てしまいましたからねー、それが、近年観た「さすらう……」の中では出色で(まさしく、イレールさま&ルグリ版の路線✨)、他のペアのが霞んで見えてしまう。

 それでも今回のフロラン&オドリックは、ダンサーの雰囲気がそれぞれの役柄に合っているので、一つの作品として成り立っていたと思う(上から目線😅🙇‍♀️)。フロランは道を見出せずに迷い、求めているものの不確かさにうろたえ、失われていくものが何かすらも分からない、でも時々希望を見つけて表情に光が刺す……そんな無垢でナイーヴで、ちょっとワガママ?な青年に確かに見えました。

 それと対峙するオルターエゴとしてのオドリックは硬質な雰囲気を保ち、最初は友好的にフロランを鼓舞するも、その未熟さに苛立って、突き放し、現実を突きつけ、最後は歩むべき道へと引き摺り込んでいく。オドリックが放つ微かな陰りが仄かな闇を感じさせ、作品に独特の意味合いを加味するようでもあったな。ベジャールの言う「自己の中に潜む “敵” と戦う」という言葉が浮かんだりしました。

 

「ボレロ」

アマンディーヌ・アルビッソン

 上述したとおり、アマンディーヌのメロディーは遠征にて(ユーゴの代役で)観ましたが、急な代役(今回の収録日より2週間ほど早い日の舞台)でもあったせいか、力の出し方の時間配分がまだコントロールできていないような……ちょっと消化不良でした。

 それに比べるとこの放映でのアマンディーヌは自信に満ちていて、メロディーの精神性を感じさせるパフォーマンスだと思いました👏 序盤は、女性の身体が持つ特有のしなやかさあがり、曲線と直線が織りなす肢体ラインが美しい。リズムが8人くらいに増えたあたりから動きがかなりシャープになり、アマンディーヌという自己がなくなり、音楽の中に自己陶酔していくようだった。中性的なものに変身していくような……。

 終盤近くなるとさすがに脚のバネの力が十分でなくなるのか、ジャンプはちょっと弱くて(私が鑑賞ポイントにしている→)ヒンドゥー神のポーズも、空中で形を決める前に脚が開いてしまって残念ではあったけど、最後は溜めんでいた力を発散させ、リズム隊と共に昇華していく感じでした。踊り終わったときのアマンディーヌの表情、あれは何と言えばいいのか、会心というのでも、踊り切ったという満足感でもない、ちょっと苦しさすら感じられる、不思議な姿だったな。ところで曲のテンポがすっごく早かったんですが、アマンディーヌの希望なんでしょうか。

 

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振付 ジョン・ノイマイヤー

音楽 フレデリック・ショパン

ニコレッタ・マンニ/ロベルト・ボッレ

 

 ボッレさまのアルマン❗️ 日本時間で夜中02:45から3時間強、アーカイヴなしのライヴ配信があるっていうんで、見逃すわけにはいきませんでした。ボッレさまは期待通りだったんですが、ニコレッタ・マンニのマルグリットが想像を上回る出来で、とても良い舞台だった🎊

 

 49歳のボッレさまアルマン、眼福でした😍 ノイマイヤーの「椿姫」って、酸いも甘いも噛み分けているマルグリットに対して、アルマンは彼女より年下のナイーヴなブルジョア青年という年齢関係が刷り込まれてしまってるけど、小説では、マルグリットは20歳ぐらい、アルマンは24,5歳という設定なんですよね。なので、今回の2人はアルマンの方が年上という意味では原作に近い関係にある……のに、ボッレさまアルマンがニコレッタマルグリットより若く見えたのは、ノイマイヤー版がそう見えるような作りになっているってことかな。

 

 ニコレッタは今スカラ座バレエを代表する女性ダンサー。キュートで陽のイメージが強い彼女は、20代の頃はキトリのような役はぴったりだったけど、演技派とまでは言えない感じでした。ところが今回、30歳を超えて演じるマルグリット、可愛いという面影は残しながらも、佇まいにはクルティザンとしての凛とした雰囲気や陰りや知性が感じられ、ダンスにおいても丁寧な感情・心情表現で哀れを誘い、悲劇のドラマを作っていた🎉 ひとまわり大きなダンサーになった感じで、感慨深かったです。

 1幕では、ストレートに気持ちをぶつけてくるアルマンを最初は子ども扱いするところに、売れっ子クルティザンとしての余裕を見せる。紫のPDDで、アルマンが床に平伏している姿に新鮮な驚きを覚え次第に彼に惹かれていく、その自分に驚いている表情がとてもいい。

 2幕での、白のPDDのときのアルマンを見つめるピュアな眼差しや幸福感に満たされて踊る姿は少女のようだったし、アルマンの父親との抒情的なデュエットでは葛藤する心情表現が美しく、愛する人のために身を引こうと決心するまでのダンスと演技に深い悲しみが見えました。

 3幕の黒のPDDで登場するマルグリットは亡霊のようで、病が悪化し心もすり減らした姿はすでに死の影をまとっているというか、死神を背負っているようでした。アルマンに蔑まれてからの打ちのめされた姿が痛々しくて😢

 何度も言っているかもですが、世界バレエフェスでは、ニコレッタと彼女の夫であるティモフェイをスカラ座の2トップとして呼ぶべきだったんですよー!

 

 そしてボッレさま~💓 私は今年2月にロンドン遠征し、ロイヤルバレエの客演で「マノン」デ・グリューを踊ったボッレさまを観ましたが(マノンはネラさま)、あのときと同様、彼のアルマンはまさに金持ちの若造ボンボンだった。悲恋を連想させる陰りこそ薄味なものの、世間知らずといっていいほどの純粋さと誠実さがあり、且つ、繊細で傷つきやすい一面もちゃんと見せている。マルグリットをまっすぐ見つめる眼差しがキラキラと輝いていた。

 1幕では、一目惚れしたマルグリット以外は目に入らないといった風な演技が可愛くもあり、紫のPDDでは確かなサポートを見せる。2幕では永遠の青年そのものの姿で、白のPDDでの、決めのときの身体ラインが美しい。2人がキスするシーン、客席から拍手が湧いたほど美しいロマンティックなキスでした✨

 一転して3幕。訪ねてきたマルグリットに対し、自分を捨てたと拗ねて冷たい視線を向けるところから、その気持ちがだんだん熱を帯び抑えられなくなっていく感じ、良かったなあ。PDDでは感情の高ぶりを美しく見せ、そのあと、裏切られたと勘違いして冷たくあしらい札束を突きつけるところではクールな所作がむしろ魅力的だったし、一途なゆえに不器用にしか接することができないアルマンの悲哀を感じました。亡くなったマルグリットが残した日記のページをめくるボッレさまアルマンは、悲しみを経て知った人生の重みを噛みしめている表情でした😢

 

 他では、アルマンの父親を演じたガブリエーレ・コッラードが印象に残りました。ダンディーな佇まい、マルグリットには理解と憐憫を感じているような眼差し、しなやかなダンスなど、とっても良かったです。マルグリットに幻影として付きまとうマノンデ・グリューの2人も、物語に深い味わいを加える存在感を見せました。

 ボッレさまとニコレッタは、終わってからのレヴェランスでもしばらくは放心の表情で、幕が閉まってからのカテコ登場でようやく会心の笑顔になってましたね。

 来月のシュトゥットガルト・バレエ公演では、私はフォーゲルくんアルマンの回にしたので、マルグリットはエリサ・バデネスで観るんですよね……💦 え、いや別に、深い意味はないんですが😬

 

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作 サイモン・スティーヴンス

演出 眞鍋卓嗣

 

 3世代の家族の(私の苦手な💦→)群像劇みたいな芝居だった。ちょっとダメだった~🙇‍♀️ でも2006年にオリヴィエ賞の最優秀新作演劇賞を獲ってるんですよね。確かにイギリス人は好きそう。タイトルはキーツの詩の一節「広い世界のほとりに、一人たたずみ、もの思えば、恋も名誉も無に沈む」から取ってあるそうです。

 

 ネタバレ概要→マンチェスター郊外に住むホームズ家の人々。ピーターとアリス夫妻は倦怠期にあり、今の生活に何となく充実感を覚えていない。息子との関係もギクシャクしがち。思春期にある2人の息子のうち兄(18歳)は恋人とロンドンに住むと言って出ていく。弟(15歳)は兄の恋人を好きになったがどうすることもできないまま、交通事故で死亡する。近くに住んでいる、ピーターの両親である(息子から見ての)祖父母の夫婦関係は完全に冷め切っている。アル中で持病を抱えている祖父はDV男で、イラつくと今でも祖母に暴力を振るう。皆が小さな不満を抱え、何かを変えたいと思い、それができず、互いに上手くコミュニケーションがとれず、亀裂が生まれていく。

 2年(だったかな?)が経ち、妻アリスは不倫に傾きかけていたが思いとどまり、長男カップルはロンドンを引き払って帰郷し、祖父の持病は大事ないことが分かる。皆なんとなく気持ちを通い合わせるようになり、ホームパーティーを開く。終わり。

 

 はあ~、何だかよく分からない普通のお話だった。かなりの数のシーン転換があり、夫と妻、兄と弟、父母と息子、舅姑と嫁、祖父母と孫、そこに、兄の悪友、父の仕事先の女性、弟を事故死させた車の男なども加わり、それぞれの交流、会話が断片的に見せられていく。弟の事故死は別として(それだって、父が仕事先の女性に「3カ月前に息子が死んだんです」と言うだけで、観客はそれで初めて知る)、特別に大きな事件は起こらないから、何かが解決されるとか未来に希望がどうとか、そういう終わり方ではなかった(と思う)。

 あまりに “よくありがち” な光景が展開されるんで、3時間弱の上演がとてつもなく長く感じ、観ているうちに、この戯曲が何を描きたいのか分からなくなってきて……。私にはこの手の作品を楽しむのは難しいです🙇‍♀️

 

 一応、終盤に小さな山場がある。1つは、弟が事故死した日、父は彼から一緒に行こうと誘われたが断ってパブに行った、もし一緒に出かけていたら息子は事故に遭わなかっただろうと、父はずっと深い後悔と罪の意識とやり場のない怒りにさいなまれていたことを、妻に告白する。妻は息子を事故死させた車の男と不倫寸前までいったがその気持ちを振り切ったことを夫に告白する。2人が心を曝け出すシーンは熱演だったけど、それでも、全体に展開がフラットというかメリハリがなく、小さいシーンが淡々と続いていく感じだった。

 あと一つ意味を感じたのは、特に女性(母、祖母、兄の恋人)が、小旅行も含め、地元から外に出たがっていたことかな。母はスペインに、祖母はリバプールに、兄の恋人はロンドンに、それぞれ想いを馳せていた。彼女たちの「閉塞感から逃れたい」というありきたりの意味しか、私は見い出せなかったけど💦

 

 優等生的な解釈をすれば、どうしたって “他人” にはなり得ない “家族” という関係性ゆえに、思っていることや本音を遠慮なく口にしてしまう、あるいは家族だからこそ相手を思いやって言えないこともある、そのために誤解やすれ違いが起こり、それによって湧き上がる感情をそのまま抱えて時が過ぎ、ますます関係性がこじれる。でも、小さな転機が積み重なっていき、あるとき突然、相手を理解したり思いやったり受け入れたりできてしまう、それが家族だよね……ってこと? 最後のパーティーで皆が、相手を気遣いながらも甲斐甲斐しく楽しげに動く姿はその表れなのか? でも、その1日が終わればまた口喧嘩と誤解とが始まるだろうなと、私は予想してしまうのでした😅

 

 舞台となったマンチェスターは作者サイモン・スティーヴンスの出身地だそうで、開演前に地元出身のオアシスの曲が流れたり、マンチェスターユナイテッドのロイ・キーンの名が何度も口にのぼったりしてました。

 

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演出/振付/台本/音楽構成 熊川哲也

音楽 アレクサンドル・グラスノフ

小林美奈/堀内將平/成田紗弥/石橋奨也

 

 1週間以上も前に観たので記憶が薄れ…て……💦 もともと杉野慧さんがシャークを踊る日を取ったんだけど降板してしまい、シャークは栗山廉さんに変わり、さらに石橋奨也さんに変わるという、なんか、はぁ……そうですか…ってなりました、いや栗山さんも石橋さんも好きですけど。

 しかも、BBLマチネ「バレエ for ライフ」を観てからのソワレ「マーメイド」で、BBLの感動冷めやらぬうちに渋谷へ移動、「B for L」で高揚したままの気持ちを切り替えられない状態で「マーメイド」を観る態勢になってしまった💦

 それにしても杉野さんは「くるみ割り人形」のドロッセルマイヤー役にも名前がないし、何があったのでしょうか。K-BALLETを観るようになったのは杉野さんに惹かれたからなので、とてもとても気になります😢

 

 さて「マーメイド」ですが、熊哲は「バレエ人口を増やそうという思いから、子供たちにも観てもらえる新作を作った」みたいなこと言ってますね。その意図を知らないと、1人の男性をひたむきに愛し、結ばれずに死んでいくっていうお話は、21世紀の新作としては古いのでは? かといって2人が結ばれるハッピーエンドも陳腐、プリンスを振り切ったマーメイドが別の人生を見つけていくとか、そういう結末にはならないのか? と(私の場合)思うところですが、子供にも訴えかけるのなら童話踏襲でいいのでしょう。

 

 童話では、マーメイドに “尻尾を脚に変える” 薬を与えるのは魔女ですが、熊川版ではそれはなぜかシャーク。プリンスが投げた銛で傷つき怒ったシャークが嵐を起こしてプリンスが遭難、マーメイドが助ける……と繋げているのは、よく考えたなと思います。

 また最後も童話では、マーメイドは短剣を海に投げそこに身を投じて泡になり、そのあと空気の精になって空に昇っていく。熊川版では、マーメイドは、短剣をプリンスが寝ているベッドにそっと置いて去って行く→目覚めたプリンスがそれを見て、自分を助けてくれたのはマーメイドだったのかと理解し追いかけるも、彼女は泡になって消えていくという展開でした。このほうが「プリンスが全てを知るのがもう少し早ければ……」というドラマ性というか悲劇性は強まりますね。

 

 ストーリーがシンプルでオーソドックスな分、ヴィジュアル部分=舞台美術や衣装が際立ちました。嵐の表現は浪布を上手く使っているし、海中の世界はブルー系のグラデーション使いがとても神秘的。衣装では海の生き物たちがとても可愛い。人魚たちの尾のデザインがが工夫されていて、マーメイドのそれを取ることで脚が現れ、そのまま海上に昇っていく演出はお見事でした👏

 踊りも、良い意味でオーソドックスで、クラシック・バレエ味がよく出ている。冒頭の酒場のシーンは「白鳥の湖」の1幕にそっくり。ソロを始めパドドゥ/トロワ/シスなどが次々と踊られたり、物乞いが(道化並みに)テクニックを披露したり、父親が息子プリンスに(クロスボウならぬ)短剣を渡し海で狩をしてこいと言ったり。プリンスとマーメイドとのPDDが1度しかないのは残念だけど、マーメイドが波打ち際で倒れているプリンスを見て恋心を募らせるところでは、それを表現するマーメイドのソロがあってもよかったかも。

 

 マーメイドの小林美奈さんは、プリンスへのほのかな思いが次第に確信に変わっていくところや、プリンスが自分を見ていないことを知ったときの、スーッと心が引いていく儚げな感じ、最後、葛藤し自ら犠牲になる決心をした時の凛とした態度など、シーンに合わせた感情表現がとても巧み🎊 海の中で生き生きと踊る姿や、プリンスとのPDDでの溌剌とした動きなども良く、マーメイドを表す特徴的な腕や脚の動き、それが見せるラインがきれいだった。脚を “持った” プリンセスが砂浜を初めて歩き出すところも痛々しい感じが現れていました。余談ですが童話ではその時の感覚を「歩くたびにナイフでえぐられるような痛みを感じる」って書かれているんですよね。そりゃ痛いわ……😖

 

 プリンスの堀内將平さんはノーブルさと若々しさがあり、酒場で仲間と楽しむ姿は爽快。マーメイドへの優しさもよく出ていて、でも、彼女の恋心までは気づかず、逆に、プリンセスを見た時のハッとした一目惚れ感が、苦労を知らない王子っぽかったです😅 そのプリンセスは成田紗弥さんで、婚約式でのGPDDで見せるダンステクニックも完璧。プリンスもプリンセスも性格描写はあまりないので踊りの美しさが見せどころになりますね。

 シャークの石橋奨也さん、荒々しさとたくましさをうまく出していてダンスもダイナミック。踊る姿をもっと見たかったです(シャークの登場シーンを増やしてほしい)。そのほか、冒頭で踊る物乞いの栗原柊さんのキレの良いダンスに目を見張る。酒場の女たちや、プリンスの友人たちの踊りは華やかで楽しい。海の生き物も、海面をジャンプしながら進むイルカたち、コミカルなロブスターなど、そのコスチュームと相まって、ユニークなダンスが可愛かったです。

 

 これってマーメイドとプリンスの恋話でもなく、プリンスが2人女性の間で悩むわけでもなく、プリンセスも別に悪いやつじゃないよね(可愛い嘘をついちゃうけど「助けたのは私ではありません」と正直に言ったところで、プリンスは、じゃあマーメイドなのか?とは思わないだろうし😔 彼が一目惚れするのは先に会ったマーメイドではなくプリンセスなんだし)。マーメイド1人の行動と感情の変化のドラマなので、ダンステクニックに加えて演劇的(心理)描写力が要求されるという、難しくもやりがいのある役だなと思った次第。

 

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「だから踊ろう…!」

振付 ジル・ロマン

音楽 ジョン・ゾーン/シティパーカッション/ボブ・ディラン

 ジルが2022年に創った作品です。さまざまな音楽に載せてのびのびと楽しげに踊るダンサーたち。その踊りを純粋に楽しめばいいのだろうけど、ちょっとぼやけた印象しか残らなかったな💦 ジルの音楽のチョイスが個人的にあまり好みではなくて、それに振り付けたダンスが自分の感性にスルッと訴えてこないのか? 振付もあまりオリジナリティーがなく、ベジャールのスタイルも取り入れているけど、それが作品としての独自性に繋がっていないような。

 ダンサーではジャスミン・カマロタがやはり華がありダンスも綺麗だし、大橋真理さんキャサリーンも良かった。あとはイタリア男三人衆(アンジェロ・ペルフィドアレッサンドロ・カヴァッロヴィト・パンシーニ)に注目しているよ。オスカー・フレイムもシムキン系のルックスでつい目が行ってしまいました。

 ジルの作品の中では、前回の来日公演で観た「人はいつでも夢想する」が唯一好きといえるものかな。ジルはダンサーとしては大好きなんだけど、素晴らしいダンサーが必ずしも素晴らしい振付家であるとは限らない、ということを、今回再び思うのでした🙇‍♀️

 

「2人のためのアダージオ」

振付 モーリス・ベジャール

音楽 ルードヴィヒ・ベートーヴェン

エリザベット・ロス/ジュリアン・ファヴロー

 作家・政治家であるアンドレ・マルローの生涯にヒントを得たベジャールが1986年に「マルロー:あるいは神々の変貌」を創作。今回はそこからの抜粋です。マルローはスペイン内戦時に義勇兵として参加したり、第二次世界大戦では兵士として戦ったのちレジスタンス運動に身を投じたり……という人生を送ったらしい(wikiより)。著作の1つに「辺獄の鏡:反回想録」があり、冒頭に流れるナレーションはその一部で、キャスト表の裏に和訳がありました。↓

 

下士官が、私に出てくるよう合図をした。

中庭は兵士でいっぱいだった。

私は数歩、歩くことができた。

下士官は、私を壁に向かせ、両手は頭の上で石壁に押し付けられた。

命令が聞こえた「気を付け!」

私は振り向いた……目の前は銃殺隊だった!

 

 死と向かい合った兵士ジュリアンが刹那に見た甘い幻想のダンス……、ナレーションの内容を知って観ると生々しいです。これから銃殺される兵士にタバコをくわえさせるエリザベット。タバコは兵士の最後の望みでありささやかな贅沢であり、同時に、吸い終わったら銃殺されることから死のメタファーでもある。そのタバコを与えるエリザベットは “死神” でもあるけど “天使” とも言えるよね。兵士が生と死の狭間で彼女と最後の美しいダンスを踊る。束の間の幸せを味わうジュリアン、優しく相手をするエリザベット。

 ローラン・プティの「ランデヴー」っぽいけど、プティよりもエロスや毒気は薄く、愛と優しさを感じます。最後に兵士の魂を抜き取るエリザベットはひんやりした空気をまとい、死んでいくジュリアンは、その倒れる姿すら美しかった。長年一緒に踊ってきた2人は、息をするように踊っていました。エリザベットの衰えぬしなやかな踊りの美しさよ✨

 

「コンセルト・アン・レ」

振付 モーリス・ベジャール

音楽 イーゴリ・ストラヴィンスキー

 世界バレエフェスのガラで大橋さんとカヴァッロが同作品からのPDDを踊ったのは、今回これを踊る布石だったのか? プログラムにもあるようにバランシン味のある清らかな作品。バランシン風に言えば音楽を視覚化したダンスで、クラシックのテクニックで踊るBBLダンサーが新鮮。ところどころベジャール言語が入っていて身体の純粋な美しさに魅入ります。

 ベジャール作品にしては珍しく?女性を前面に出した作品だけど、やはりオスカー・シャコンが舞台に登場すると空気が一気に変わる。彼がちょっと腕を動かしたり身体を捻ったりするだけで物語がブワッと湧いてくるような……。でもって、女性を前面に……と書いたものの、このオスカーとソレーヌ・ビュレルの男女ペア、ドリアン・ブラウンエドアルド・ボリアーニの男性ペアが登場すると4人の思いが交差する愛?の展開になり、女性群は途端に “背景” になってしまうのがベジャールなのねー😅

 

「ボレロ」

振付 モーリス・ベジャール

音楽 モーリス・ラヴェル

メロディー ジュリアン・ファヴロー

 ジュリアンの日本でのラスト・メロディに感涙! 魂を持っていかれそうになった💓 ジュリアンがメロディを最初に踊ったのは2011年。ボレロを踊っていた唯一の男性ダンサーがバレエ団を去って2、3年経ったとき、ベジャール亡きあと芸監になっていたジルが声をかけたのだそうです。日本でのメロディ初披露は2013年。それは楷書で、振付を丁寧になぞっている感じだった。以後、踊るたびに自由に、自然体になっていき、とうとう自分の中にメロディを取り込み一体化しましたね

 この日のジュリアン、丁寧に振りを見せていく端正でしなやかな動きから、次第に熱を帯びていき、リズムたちからパワーを集めそれを溜め込むように大きくなり、最後に弾けて爆発させる。そんな踊りだった。次々に決める完璧な身体ライン。プリエはしなやかで、身体の動きはシャープでキレがあり、肩から腕にかけての振りは力強く、振り上げた脚は真っ直ぐに高く、そして(私の大好きな!)ジャンプした時のヒンドゥー神のポーズも4回とも完璧だった👏 あの曲げた手足の角度とバランスが大事なんだよね。

 観ながら “神々しい” と形容したくなるんだけど、それとはまたちょっと違う何かを感じていて、突然、ベジャール「魔笛」でジュリアンが踊った、神官にして太陽を司る?ザラストロと重なりました。ジュリアンのメロディはほとばしる「陽」で調和をもたらす

 

 そして、リズムたちを従えていくジュリアンの求心力の凄まじさ。一人一人を見ながら「さあっ!」というふうに力強く誘い込む。ジュリアンとリズムたちとが呼応しあって舞台上に、息吹のものすごいうねりが起こっている感じでしたた。

 そしてやはりBBLのリズムは野生味があり迫力が別格です。ツートップは「バレエforライフ」でフレディを踊ったアンジェロ・ペルフィド(しなやかな動き!)と、世界バレエフェスで「バクチIII」を踊ったアレッサンドロ・カヴァッロ(キレがありシャープな動き!)。このイタリア二人男がまた美しくて~✨ そのあと加わるオスカー・フレイムエドアルド・ボリアーニも良かったんだよ~。

 クライマックスは、観ているこちらの感情もすべて引っ張り出されていくようで、放心状態でした。終わって舞台に一列に並んだダンサーたちの晴れ晴れとした笑顔が脳裏から離れません。ありがとう🎊

 

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作 河竹黙阿弥

監修/補綴 木ノ下裕一

演出 杉原邦生(KUNIO)

田中俊介/須賀健太/坂口涼太郎/川平慈英/小日向星一/深澤萌華/眞島秀和/藤野涼子/緒川たまき/田中佑弥/武谷公雄/高山のえみ

 

 木ノ下歌舞伎は、木ノ下裕一が主催する「歴史的な文脈を踏まえつつ、現代における歌舞伎演目上演の可能性を発信する」団体だそうです(ホームページより)。私が木ノ下歌舞伎を観るのは今回が2度目。1度目は「桜姫東文章」で、その演出・演技が全く生理的に受け付けられず、木ノ下歌舞伎は観ないと決めたのです。が、それはそのときの演出家の特徴なのだと知りました。木ノ下歌舞伎は “劇団” ではなく、演出家も固定せず他所から呼んでくるっていうのすら、知らなかった💦 今回のこれは演出が杉原邦生ということで、歌舞伎の「三人吉三」も好きだし、観てみることにしました。

 

 本作は、歌舞伎の通し狂言として現行上演される「三人吉三」に、商人と花魁の恋をめぐる廓の話と、「地獄正月斎日の場」(チャリ場みたいな感じ)を入れてある。これらはもともと黙阿弥のオリジナル版にはあるのだそうで、そのためタイトルも本外題「三人吉三廓初買」にしたのだと。

 

 歌舞伎の通し「三人吉三」部分は良いとして、商人と花魁の恋話を簡単に書くと→道具屋文里(眞島秀和)は妻子がいるのに花魁一重(藤野涼子)に入れあげている。安森家のお坊吉三(須賀健太)がお家再興のために探している名刀を、それとは知らずに偶然手に入れた文里は武兵衛(田中佑弥)に百両で売る(武兵衛はその百両を金貸(武居卓)から借りた)。そのやり取りの使いに出された、文里の店の手代十三郎(小日向星一)は受け取った百両を落としてしまう(このあとが歌舞伎の大川端庚申塚の場に続く)。百両を失い、廓通いが重なったこともあって、文里は商売が左前になり一家は落ちぶれる。彼に恩義のある人たちが「百両をなんとか手に入れて文里を救いたい」という同じ目的をもって行動する(そのあたりも歌舞伎の通りで、すれ違いや誤解によって百両は次から次へといろんな人の手に渡り、殺し殺され、ドロドロになっていく)。文里との子を産んだ一重は持病ゆえに亡くなり、赤子は文里の妻(緒川たまき)の理解のもと引き取られる。最後に百両は文里の手に戻る(そして三人の吉三の最期へ)

 

 この廓まわりの話を入れたことで、お話の悲劇の真ん中に百両があることがとても明確になり、お金のために人を殺したり人生を狂わされたりという、現代にも通じる因果の話になっていました。シーン転換が多く舞台セットはスピーディーに変わるんだけど、舞台後方に高く作った橋を上手く使っていたと思う。特に最後、舞台手前で捕手たちに斬られ死んでいく三人の吉三と、高みにある橋を渡って未来に向かって歩いて行く文里一家とのコントラストが切なさを呼びました。その前の、雪が降る中、三人吉三がスローモーションで見せる(実際には出ない捕手たちとの)エア立ち回りの形が綺麗だった。立師は橋吾さんがされているんですね。

 

 歌舞伎言葉(黙阿弥らしい七五調とか古典語とか表現とか)が現代語として耳にストンと入ってくる。一部の登場人物は現代服で、いま観ている私たちがいるこの場所と、江戸とが時空を越えて繋がっている感じ。現代に寄せて大きく翻案はしていないけど、とてもリアルな感触でした。おとせ(深沢萌華)と十三郎の運命的出会いの場は、スポットライトを当てるなどして「実の兄妹とも知らずに愛し合ってしまう因果」を強調しており、伝吉(川平慈英)が十三郎を「自分が捨てた我が子だ」と知っておののくところも印象付ける演出で、「逃れられない閻魔の裁き」という伝吉のセリフが重い。

 チャリ場とはいえ地獄の場があることで、当時の人たちの生死感、地獄に対する特別な思い、その裏返しとしての浮世の捉え方などが感じられました。プログラムには、人を殺める三人吉三は「修羅道」、おとせ&十三郎の近親相姦は「畜生道」、貧しさに苦しむ文里一家は「飢餓道」と、それぞれが地獄を体現していると書かれていた。

 

 百両と名刀を奪ったお嬢吉三(坂口涼太郎)の「月も朧に白魚の……こいつぁ春から縁起がいいわえ」という名セリフが七五調ではなく歌に変わってたことや、和尚吉三(田中俊介)が実の妹弟(おとせと十三郎)を殺すところの見せ方は物足りなかったな。

 そして、個人的に苦手だったのは、湿っぽいシーンが長いこと😓 和尚がおとせと十三郎の首を持って、自害しようとするお坊とお嬢を泣きながら説得し止めるところや、一重が死んでいくシーン(廓の仲間や文里の妻おしずたちの情グダグダ)はしつこくて、観るの苦痛だった💦 要所要所で「蛍の光」を流すのも勘弁してほしかったです。

 

 観終わって思ったのは、自分は古典としての歌舞伎作品、歌舞伎の古典性が好きなのであって、そこに現代に通じるものは求めない、そういう観点で解釈し演出した作品には特に興味はないということ。シェイクスピア劇だとそういう部分も面白く観るのに、この違いはなんなのだろう。

 

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原作 ベルトルト・ブレヒト

脚色/上演台本/演出 田中壮太郎

 

 ブレヒトの戯曲を脚色してあると知ったうえで観たけど、休憩を挟んで後半が、原作とは全く違う展開(上演台本)になっていてびっくり。現代に合わせた話にしてあって、確かに翻案なんだけど、方向性が全く変わっていて、終わってみればブレヒト味など無くなっていた😔 原作はブレヒト亡命中の(ブレヒトはファシズムに反対しておりヒトラーから睨まれていた)1939~42年に書かれ、1943年にスイスで初演されました。

 

 原戯曲の概要→架空の街セチュアン、「善人」を探しに訪れた3人の神さまが住民に一夜の宿を求めるが皆に断られ、最後に娼婦シェン・テが神たちを泊める。神はシェン・テの好意を「善良さ」の証拠と認め、大金を渡して去って行く。シェン・テは娼婦から足を洗い、もらったお金で小さな店を開くが、噂を聞きつけた人たちが彼女のお金や善意を目当てに寄ってくる。シェン・テは彼らを助けていくが次第に彼らの行き過ぎた要求に神経をすり減らす。そこで自分の利権を守るために架空の従兄弟シュイ・タを作りあげ、善行が上手くいかなくなると(シェン・テは長期留守だと言い)シュイ・タに変装して人々の身勝手さを制御していく。次第にシュイ・タの出番が多くなり、店舗を拡張して多くの従業員を雇う。シェン・テがいないことを不審に思った従業員たちはシュイ・タが殺したのではないかと疑い、法廷に持ち込む。3人の神が裁判官として現れる。シュイ・タは神に、自分はシェン・テでありシュイ・タは自分が演じていたと、その理由を訴える。神はシェン・テが「善人」として生きようとすればするほど苦しみが増えるという現実にうろたえ、天に逃げて行く。最後に役者が現れ、善人はこれからどうすればいいのかと観客に問いかける。おわり。

 

 シュイ・タはいわばシェン・テのオルターエゴ、人間の中に潜む、もう1人の人格です。他人の幸せのために全てを与えようとするシェン・テに代わり、それはダメだ!と冷酷で厳格な態度を取ることで、シェン・テは自分自身の均衡を保とうとする

 ブレヒトは、物質主義/実利主義の社会における道徳や利他主義を、社会的経済的観点から捉えています。シェン・テの利他主義と、シュイ・タの搾取という資本主義は、相反するもので両立は不可能であること、両立させようとすると自己崩壊を起こすこと、社会の道徳を決定するのは経済システムであることを示し、だからこの社会で善人が善人のままであり続けるには社会の構造を変えなければならない、と言っている。

 

 今回の舞台では上記概要の後半(黒文字部分)が大きく変えてある。なぜか2023年の日本みたいになっていて、TVの「恋愛込みの企業ドラマ」っぽいノリになっていき、資本家とその懇意な間柄の者たちが弱者を搾取する展開なんだけど、搾取されている人たち自身がそれを受け入れ「しょうがないね、こんなご時世だけど助け合いながら頑張りましょう、みんな善人だよ」みたいに終わった💦(そういう終わり方じゃなかったかもだけど、後半の展開に全く乗れず、お話やセリフの半分くらいしか頭に入ってこなかったのです、つまらなくて!)。まあ、メッセージはあるのだけど、そのメッセージ性があまりに直接的で説明的で、耳がむず痒くなる😓

 

 演出家はコメントで「この戯曲の上演の意義、善や善人の扱い方、いま上演するにあたってのスタンスの取り方などに、迷いや疑問があるまま創ってきた」みたいなこと言っていて、演出の方向性を考えるのに行き詰まっていた時に(いや、だったら断ればよかったのでは?と思いましたが😑)脚色してはどうかと提案され、気がついたら「やる」と返事をしていたって。演出家としてこの自信のなさはまずいのではないか? しかも「自分は作家ではないし……」と言い訳して、自分が書いた台本が「うまくいったかどうか定かではない」とかさ、そういう状態で舞台に上げないでほしい😔 研修生の内輪での発表会とかではなく、観客からお金を取って見せるのに。確かに、青臭いセリフや稚拙な表現は聞いていて気恥ずかしくなったんですけどね。やれやれ、来月に世田パブで上演される白井晃演出版「セツアンの善人」に全力で期待します

 

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振付 モーリス・ベジャール

音楽 クイーン/モーツァルト

衣装 ジャンニ・ヴェルサーチ

 

 ジュリアン・ファヴローの東京でのラスト・フレディ目撃してきました🎊 私が最初にジュリアンのフレディを観たのは、1998年の日本初演「バレエ・フォー・ライフ」です。まだ20歳のジュリアンは、少年の面影を宿していて本当に瑞々しく美しかった。あのときのフレディから今回の熟成した超スーパースターの姿まで、ジュリアンのダンサー人生に重ねながら観ました。空虚だったりアグレッシヴだったりコミカルだったり……、力強いけどどこか脆さや憂いも感じさせるジュリアンの、シーンごとにさまざまな感情を見せて踊る姿、脳裏に永久に刻み込みましたよ✨

 

 そして今までジルが踊ってきた役=狂言回し/死はオスカー・シャコンです。この作品でのジルの後任はオスカーしかいないと思っていたし、なんかもう以前からこれを踊るオスカーを観てきたような錯覚すら覚えます。それくらい適役だし、見ているうちに何度もジルと重なりました。ソロのときに空間を支配する力、ダンサーたちを操るときの悪魔的な笑み……。でも彼の持つ翳りと光のコントラストはまた独特。ほんとに、BBLに帰ってきてくれて感謝しかありません。

 余談だけど、かつてジルも、BBLに入ったばかりの頃に外に飛び出して行ったことがあり、再びバレエ団に帰ってきた時ベジャールに温かく迎えられたという経験があるそうです(“放蕩息子の帰還” だと、ジルだったかベジャールだったかがインタヴューで言っていた)、今回オスカーを迎え入れたのがそのジルだというのも面白いです。そのオスカーには、ジルが踊り継いできた「アダージェット」を是非なんとしても踊ってほしい🙏

 

 「Heaven for Everyone」のアンジェロ、天使のイエロニマス、モーツァルトを踊る大橋真里さん、「I was Born to Love You」のエリザベットジャスミン、「Radio Ga Ga」の岸本さん、「You Take my Breath Away」のジョルト、「A Winter's Tale」の大貫さん……見慣れた顔ぶれと新しいダンサーたち、みんな素敵だった。好きなシーで言えば、抱えていたシーツを「……show must go ooon !」のところでダンサーたちが一斉に翻したときの絵柄、「A Kind of Magic」でダンサーたちが前後に歩く姿、マイクを持ってフレディのポーズを取るところ……キリがないです。序盤と終盤で入る「Brighton Rock」もロックなアクセントになっていてとても好き。

 

 そして結局のところ、この作品はジョルジュ・ドンへの追悼なんだなぁと「I Want to Break Free」の曲が流れる中、ドンの映像を観ながら思うわけです。あそこでドンが踊っているのは「ニジンスキー 神の道化」の一部です。

 1991年11月にフレディが45歳で亡くなり、その1年後の1992年11月にドンがやはり45歳で亡くなった。ベジャールはレマン湖のほとりの街モントルーに別荘を持ち、湖を見つめる日々を送っていた。フレディの死後、1995年にクイーン正規メンバーでの最後のアルバム「Made in Heaven」がリリースされた。たまたまアルバムを手にしたベジャールは、そのカバー写真の風景が、自分が別荘から眺めていたのと同じであることに驚き、敏感に反応した。そうして創られた「バレエ・フォー・ライフ」、初演は1996年。

 ドンとフレディに触発されたこれは「若くして逝ってしまった者たちについての作品だ」とベジャールは書いています。クイーンの曲(特にライヴ)にモーツァルトの曲を挿入した理由は、このときは言ってないけど、モーツァルトも1791年12月(なんとフレディ没からほぼ200年後)に35歳で亡くなっていることに言及しています。ここでのモーツァルトの曲たちからは死の匂いがする……、生と死が常に隣り合わせにある無常感を強く刺激します。

 また衣装はいま見てもとてもスタイリッシュ。デザインしたヴェルサーチは1997年「バレエ・フォー・ライフ」初演の約7カ月後!)、ヴァカンス中にマイアミビーチにある別荘前で銃殺されたんです。50歳だった。この作品にはいろんな思いが飛び交います。

 

 ラストの「The Show Must Go On」は曲そのものがもう素晴らしい。そしてフィナーレで泣かせに来ました。「サプライズ演出を考えています」と言っていたジュリアン。暗転から照明が点くと、ベジャールのポートレイトパネルが置かれていて、いきなり胸がキュンとなった😭 そしていつものようにダンサーが左右から現れ、ポートレイトに手でタッチする人、エアキスする人、深々と頭を下げていく人、腕を広げて抱きしめる人など、さまざまな形でベジャールに敬意を示していく。

 ベジャールが存命だった頃のフィナーレがよみがえり、ジルの不在を痛感し、ジュリアンの元での新生BBLへの希望を感じました。全員が並んだときオスカーが隣にいるジュリアンの胸に頭をスッと預けたの、胸が熱くなりました。「やり切った……」という安堵の思いだったのかな。そのオスカーは半分泣いていたよ😢 何度も繰り返されるカテコで、手を繋いで客席に向かってダッシュしてくるダンサーたちの笑顔が眩しかった。

 

 BBL次の来日は3年後だとしたら2027年。ベジャールは1927年生まれ、2007年没だから生誕100周年&没後20年、そしてベジャールがBBLを創立したのが1987年なので創立40周年と、何かと記念づくしの年です。なんならジュリアン・ファヴローは1977年生まれだし……と思うと、気の早い話ですが、次回の公演内容に期待してしまいますね。

 

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作 ウィリアム・シェイクスピア

演出 藤田俊太郎

木場勝己/水夏希/森尾舞/原田真絢/伊原剛志/章平/土井ケイト/石母田史朗/新川將人/二反田雅澄/塚本幸男

 

 タイトルが「リア王」ではなく「リア王の悲劇」なのは、シェイクスピアのフォリオ版「The Tragedy of King Lear」を舞台化したものだから。シェイクスピア劇「リア王」のテキストには、1608年出版のクォート版「The History of King Lear」と、1623年出版のフォリオ版(上記)があり、一般には2つの版本の折衷版が「リア王」として上演されてきているらしい。今回、確かに今まで観てきているのとはセリフ内容などが違ってると思う箇所もあったけど、全体としての大きな違いは、私には分からなかったです🙇‍♀️

 

 でも、今回の藤田俊太郎さん演出版は配役が興味深いです。まず、コーディリアと道化を同じ役者(原田真絢さん)が演じている。舞台上でこの2人が同じシーンに出ることは一度もないことと、それぞれのリアに対する役割が似ていることから、シェイクスピア当時は1人の役者が2役を演じたのでは?と言われていて、今回の配役はそれを取り入れた形。そのため「この2人はリアに真実を見せる鏡なんだ」という役割がクリアに感じられます。リアは何度も2人を重ね合わせて見ているし時には同一視している。序盤でリアが「私にはまだ娘がいる(=コーディリアのこと)」と言ったとき、リアは道化と顔を見合わせるし、最後の「道化は首を吊って死んだ」というセリフは、死んだコーディリアに向かって言ってたしね(道化が実際にどうなったかは劇中では示されていないのです)。

 

 また、グロスター伯の嫡子=家督を相続する子どもエドガーを女性にしている。演出家は「グロスターの言動や物の考え方から想像すると、嫡子であれば女性でも家を継がせてもおかしくない」と考えたからだそうです。そしてそうすることで、グロスターの私生児エドマンド(エドガーの弟)は、家督は男の自分が継ぐべきなのにとエドガーに嫉妬し、そこに自分の出自のコンプレックスが重なり、2重の憎悪から壮大な悪事を企むという、彼の強固な目的が明確になると思いました。

 ただ、そのエドガーを演じた土井ケイトさんは男まさりの(青年ぽい)造形にしてあり、女性が男性を演じているようにも見え、後継を女性にしたという意味があまり感じられなかった。リアの3人の娘並みに、女性であることを抑えず、跡継ぎが女であることを普通に見せる方が、ジェンダーレスという現代性をもっと出せたのでは?(演出の問題です)。

 

 その他の演出では、例えば、芝居が始まった冒頭、舞台奥から赤子の鳴き声が聞こえ、1人の女兵士が赤子を抱いて登場し、捌けていきます(そのあと、王たちのお出ましになる)。これどういう意味だろうと思ったんだけど、後半でリアがグロスターに「人が生まれたとき泣くのは、阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ」と例の名ゼリフを言ったとき「それか!」と納得。ただ、このモチーフは以後、出ないんですけどね。

 

 舞台美術はシンプルで、セットが全くない状態で役者が対話するシーンもある。抽象的でもいいから何らかの背景を作ってもよかったのではないかと思いました。舞台がちょっと広すぎると感じてしまったので💦 少ないセットのうちの1つは鉄骨を組んだ3層構造の建物で、エドガーがその3階部分(自分の部屋と言っていた)から下界を見下ろすシーンがあるんだけど、その鉄骨セットはその時しか使われず、あとは単なるオブジェ化していました。2階や3階部分をもっと使って演技するとか、駆け降りたり駆け上がったりするとかで、立体的な空間の使い方にすればいいのになと、ちょっともったいなく思ってしまった。

 

 役者さんたちは皆さん大変に上手く、言葉がスッと頭に入ってきて、安心して観ていられました。木場勝己さんのリア王は舞台を支配する重厚さや威厳とは逆の佇まいだけど、国土分割ではその声が朗々と響き渡る。2人の娘ゴネリルとリーガンは父王を「昔から分別がなく横暴だった」と言うのですが、確かに身勝手でワンマンだったろうなと思わせる。そして、荒野に放り出され殻を剥ぎ取られて正気を失ってから、自分の “居場所” を探し “自分は何者なんだ” と問う姿になり哀れを誘います。そこから次第に物事の真実が見えていく……と同時に老いが襲ってくる感じで、病床のリアが哀れでした。

 エドガーを演じた土井ケイトさんは、上記のような造形ではあったけど、演技は素晴らしかったです。水夏希さん演じるゴネリルは凛とした佇まいで、男兄弟がいない中の長女として、自分がリア家を継いでもおかしくないのに、という不満を胸に抱えていて、その怒りを父王にぶつける。それは理にかなっていると納得させるものがあった。

 

 男性軍も皆さん良かったけど、特に二反田雅澄さんのオールバニー公は、最初は妻をゾッコン愛してる(むしろ恐妻家?)人の好いおじさん風だったのが、最後にすべての悪事を知ってから急に頼もしい武将になり、声も力強くなっていて、その変身ぶりが笑っちゃうレベルでした😅

 コーディリアと道化の2役は原田真絢さんです。で、思ったのは「リア王」に限らずシェイクスピア劇での道化って演じ方が難しいんだなーと。登場人物の中で一番まともなことを言っているだけに、上手くやらないと、流れから逸脱して妙に浮いてしまったり、逆に、埋没して存在が希薄になってしまったりで💦

 以上、演出上のネガティヴなことも含めていろいろ書いてしまったけど、久しぶりのシェイクスピア劇、楽しみました。

 

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菊之助/歌六/吉弥/愛之助/米吉/萬太郎

 

 歌舞伎座昼の部はこれのみ幕見しました。先日、同じ演目を尾上右近が自主公演「研の會」で臨んだのを観たけど、右近は初役、今回の菊之助は4度目(といっても9年ぶり)ということで、いろんな意味で楽しみでした。玉手御前だけでなく脇も違うと舞台の印象がずいぶん変わるんだというのを再認識しましたよ。

 

 菊之助の玉手御前はとても楷書で、全体的に義太夫味が強いと感じました。この作品では、玉手が継息子の俊徳丸に言い寄るのは本心からか、(ある目的のための)偽りの行動なのか、というのが1つのポイントです。で、菊之助は「俊徳丸への恋心は本心だった」というやり方らしいけど、私にはそれがあまり感じられなかったな。かすかでも恋心があっての行動ではなく、やはり、嫁いだ家と2人の継息子とその生みの母たちに対する、想いと忠義と義理から、自らの命を賭してあのような行動(俊徳丸に不義を仕掛け、毒を飲ませて病にさせ、家の後継ぎから外させた)に出たのだと、私には見えました

 そう感じたのは、刺されてからの菊之助の述懐にとても説得力があり、父(歌六)母(吉弥)と同様に私も、それが玉手の本心としか思えなかったからです。その前に俊徳丸に色っぽく言いよるところでも、心底からの愛のこもった情念はあまり感じられなかったし、しつこく迫るのは、腹を立てた父に刺してもらうための演技に思えました。そう思わせるほどの菊之助の演技であり、心の奥には恋心あるのだ、と言われれば、ま、それまでですが💦

 

 その菊之助の玉手御前は後家としての品性があり、しっとりとした雰囲気ながら色気も漂わせている。花道から出てきて、家の戸口で腰を落とし袖を口元に添えた姿がもうそのままポートレイト・レベル✨ 家に上がり、母に「俊徳丸に恋を仕掛けたのは嘘だろう?」と聞かれて「嘘じゃない」と柔らかくシナを作る菊之助。イトに乗った所作が美しいです。「尼になるなど嫌でござんす。これからは色町風にして俊徳丸さまからも惚れてもらおうと……」と強い意志を示すキリッとした所作にも “女” の艶やかさが。

 

 俊徳丸(愛之助)が小部屋から出てきたのを知り、奥から飛び出てくる玉手。俊徳丸にナヨッともたれかかる玉手が色っぽい。奴(萬太郎)が意見するのも、知ったこっちゃないって感じで😅俊徳丸の方しか見ていない姿は、凛として、自信と誇りと強い意志が感じられた。「俊徳丸と連れ立って逃げる」と言って「邪魔しやったら蹴殺すぞっ」と言うときの凄み。寄り添う俊徳丸と浅香姫(米吉)の間に入っていく姿には狂気すら感じました。菊之助の女方はクールビューティー系なので、こういう場では(良い意味で)ゾッとするような美しさが際立ちますね~。

 

 父に刺されて一瞬気を失い、苦しみの中から意識を取り戻していくまでの動きが、たおやかでとても良かったな。寅の年月日刻生まれの自分の生き血を飲ませれば俊徳丸の病は治る……「それを聞いたときの、その嬉しさ……」で見せた、諦念すら感じさせる笑みにウルッとしてしまった😢 俊徳丸の手を取って自分の膝に乗せる玉手には、俊徳丸への恋心ではなく母性が感じられました。手を合わせて死んでいくときは笑みは見せず、目を閉じて穏やかな表情のままだった、まるで菩薩のような……。見ていて何かホッとしました。菊之助の玉手御前は、回を重ねることで得た、玉手の在り方や心理に対する深い読みと理解が伺われる、(若くても)大人の女でした

 

 玉手の老父母に娘への情が滲み出ていてねー😢 歌六の合邦は、もと武士だったという矜持や、娘の嫁ぎ先である高安への義理をたてようとする意気が見られました。帰ってきた娘を家に入れられないのは「高安への義理のために、娘を殺さなければならないから」というところで、そうかやっぱり一番大事なのは娘なんだ(殺したくないから追い返したいのだ)と、今回なんかストンと腑に落ちました。歌六のセリフがスッと胸に入ってくるんですよね。幽霊なら家に入れてもかまわないと納得して、一瞬喜びを見せすぐ真顔になるところが微笑ましい。でも、実際に娘に会うと、その不忠義に腹立ちや苛立ちを感じてしまう。だからこそ、玉手の本心を知ってからの悲しみとやりきれなさが胸に沁みました。

 吉弥の母おとくはまさにピエタ、慈母そのもの。玉手の述懐にいちいち「そうか、そうか」「そうだ、わかるよ」という感じで泣きながらウンウンと頷ている姿が切なすぎた😭

 愛之助の俊徳丸には気品があり、玉手に言い寄られれ思わずナヨッとなったりして困ってたような(私の思い過ごしかな😅)。でも菊之助とはちゃんと母息子に見えました。米吉の浅香姫はおとなしめというか抑え気味だったかな。いつか米吉も玉手御前を勤める日が来るんだろうなと、そんなこと思ったりしましたよ。

 

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