明日もシアター日和

明日もシアター日和

観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

作 サミュエル・ベケット

演出 西本由香

横堀悦夫/小倉久寛/釆澤靖起/佐藤銀平

 

 

 ベケットはアイルランド出身の作家で、不条理演劇を代表する作家の1人。「ゴドーを待ちながら」はその代表作で、1952年に出版、その翌年に初演されました。私自身とても好きな作品で、久しぶりの上演を楽しみにしてました。

 

 ネタバレあらすじ→道端でウラジミール(横堀悦夫)エストラゴン(小倉久寛)ゴドーという人物を待ちながら取り止めもなく会話をしている。そこにポゾー(釆澤靖起)とその従者ラッキー(佐藤銀平)が現れウラジミールたちと意味のない会話をする。ポゾーはラッキーの首に縄を巻きつけ奴隷のように扱っている。ポゾーたちが去り、ゴドーの元で働いているという少年が現れて「ゴドーは今日は来ないけど明日は来る」と伝言する。翌朝、ウラジミールとエストラゴンは同じ場所でゴドーを待ちながら昨日と同じような会話をしている。ポゾーとラッキーが再び現れるがポゾーは盲目になっていてラッキーの首に巻かれた綱を頼りに歩いており、そのラッキーは言葉を喋れなくなっている。ポゾーたちが去ると再び少年が現れ「ゴドーは今日は来ないけど明日は来る」と言う。ウラジミールとエストラゴンは「今日はもう帰ろう」と言うが2人はそこを動かない😑 終わり(「ポゾー」の表記は今回の翻訳通り)。

 

 ゴドーは、ヨーロッパ人的解釈では「神/ゴッド」と考えられることが多いようだけど、ベケットはゴドーが誰なのかを語っていないので自由に解釈できます。ウラジミールたち2人がなぜゴドーを待ち続けているのかは分かりません。ゴドーが神=救世主だとすると、何かから救われたいということなのかな。

 そもそも「何のために待つのか」ではなく、待つこと自体が目的と言えます。「待っている」という行為自体に人間の存在意味があるってことです。そして彼らはゴドーが今日も翌日もその後もずっと来ないことを(おそらく)予感している。待つことには希望と絶望が共存しているわけです。人生において私たちは常に何かを待ち、希望と絶望とを交互に味わいながら生きていくのですよね、時には「来ないでほしい」と密かに願いながら。

 こうして昨日と同じことを今日も繰り返す2人、そしておそらく明日も同じことを繰り返すでしょう。無限に続くと思われる人生、ゆっくりと習慣化していく人生、そこに意味はあるのだろうかと思うと、苦痛と悲哀を感じてしまう

 

 ゴドーを待っている間に2人が交わす会話にはほとんど意味がありません。ウラジミールは宗教的、哲学的なことを口にし、エストラゴンは食べ物や身体など日常的なことを独りごつ。2人の会話はすれ違い、無意味で虚しくて可笑しいけど、何故か会話は進んでいく。これって日常的に割とよくある風景ですよね。そこに乱入するポゾーとラッキーは支配と従属の関係を示す存在だけど、2幕でその関係が逆転することで(しかもポゾーは目が見えなくなり、ラッキーは言葉が喋れなくなっていることで)時間の経過とともに人の在り方が一転する人生の皮肉や悲劇や恐怖を突きつけられる

 

 非常に面白い戯曲です。今回の舞台は、今まで観てきた「ゴドー」が割と無機質というか乾いた世界観だったのに対し、小倉久寛さんと横堀悦夫さんの芸風のせいなのか、なにか有機的な感触がありました。孤独感が漂う淡々としたセリフ回しではなく、日常的な自然な喋りになっていて(特に小倉さん)即興コメディーを見ているような時もあった。「靴が脱げないんだよ~」とか「もう帰ろうよ」とか言う小倉さんが甘えん坊の可愛い男に見えたりもしました😊 横堀さんは学問的なことを1人でブツブツ言う姿が、セリフにあるような “哲学者崩れ” にも見えました。鞭を片手にラッキーにパワハラするポゾーの釆澤さんにはクールなサドっ気がありましたね(本人もコメントしてた😅)。

 

 演出でちょっと面白かったのは、ウラジミールとエストラゴンは衣装を上下交換して着ているので(ウラジミールは派手なジャケットに黒いズボン、エストラゴンは黒いジャケットに派手なズボン)2人で1人というふうにも取れる。そうすると、1人の人間がいろんな思いをぶつぶつと呟いていることになり、孤独と不条理さが増してくる

 また、ベケットは舞台について「田舎道、1本の木、夕暮れ」とト書きしてますが、今回は抽象的なセットで、それは割と良かった。舞台の下手にカーブのついたオブジェがあってそれが1本の木を表していました。上手にはスロープがついた円形の台とその上方に円環が浮いているんだけど、その意味がちょっと分からなかったな。

 

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 いきなり愚痴ですが、今回はセンターブロック10番台の席だったんだけど最悪でした。オーチャードホール1階は8列目までフラットで9列目から段差有りなんだけど、段差ったって “有って無いような” すごく低いものでほぼフラットと言っていい。9列目以降でも運が悪いと最悪です。今回はその「運が悪い」席で、前方に背の高い男性や外国人が4、5人散らばって座っていて、彼らの頭がステージ前端の上からポコポコと飛び出て視界を遮っているのです。その位置にダンサーが来ると膝から下がもう見えない😩 バレエ公演で脚が見えないって、それ踊りの3割は見えてないことですよね(男性たちが悪いわけではないです)。NBSさんには、もうここでバレエ公演を絶対に打たないでほしいっ❗️ Kバレエを観る人たち、よくこの劇場で我慢できてるなと思います。私はKバレエはいつも上階で観ますよ。

 

 

「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」永久メイ/チョン・ミンチョル

 そういうわけで、初っ端のこの作品は「見えない~、あ、また見えない~」でとってもフラストレーションがたまり、半分くらいしか集中できなかったです😢 怪我降板したキム・キミンに代わって抜擢されたミンチョルは初めて知るダンサーで、若いペア(永久さん25歳とミンチョル21歳)によるパフォーマンスになりましたね。永久さんはキレとしなやかさのある端正な踊りだった。ミンチョルは甘いマスクで長身で身体プロポーションも良く、日本でも人気急上昇するでしょう。基本通りにきっちりこなしていたとう感じで、年齢を考えると将来がすごく楽しみです。アントルラッセで伸ばした後ろ脚が綺麗。ジャンプの後の着地も足が決まるしね。サポートも無難でしたが、フィッシュダイブは2回とも縮こまっちゃってショボかったのは残念で、ベテランとの差を痛感しました。

 

「ア・シングル・マン」エドワード・ワトソン

 ここからは気を取り直し、視界はあきらめてパフォーマンスに集中しました。なんといっても大好きなエドのソロだし👍 彼のために昨年創られた新作ですから。これは2009年にトム・フォード監督による、とても切ない映画版がありました。「イギリス人の大学教授ジョージはゲイで、長年恋人だったジムを交通事故で失い、深い悲しみに襲われ自殺を考えるが、男子学生ケニーが彼に興味を示して近づいてくる。ケニーはジョージの気持ちを察し、自殺をそれとなく阻止する。ジョージは死ぬのを思いとどまり、悲しみを乗り越えようとジムとの思い出を噛み締める中、心臓発作で亡くなる」という物語でした。ジョージ役のコリン・ファースがたまらなく良くて、亡くなった恋人ジム役がマシュー・グードでこれまた素敵で……。今回のダンス作品は、フルヴァージョンからのシーンの切り取りではなく今回のためにアレンジしたものらしい。失った恋人を思い、腕に抱きしめ、そこに何もないことにおののき、暖かさを感じることでむしろ孤独を感じ……。どうしようもない喪失感と絶望を身体で見せるエド、胸が締め付けられました😭

 

「マノン」高田茜/ウィリアム・ブレイスウェル

 この2人は「マノン」でペアを組むのは初めてなのかもだけど、奔放なマノンと彼女に翻弄されるデ・グリューというそれぞれの役柄はピッタリだと思った。茜さんのマノンは一見可憐で無垢に見えながらもコケティッシュな雰囲気があり、少し作り込んだ感じのダンスが、マノンの無意識な計算高さを感じさせるし、最初の印象を覆す面白さがある。ウィリーは世の中のこと分かっていないナイーヴな青年そのもので小悪魔的なマノンに(振り回されているとも気づかず)メロメロになっている、可愛いほどに純粋な青年に見えました。2人のからみ、特にリフトには、高揚感や気持ちのほとばしりを表す勢いはなかったけど、踊り慣れたペアではないことを考えれば多少は慎重になるでしょうね。2人の全幕を観たいと思いました。

 

「ジゼル」マリアネラ・ヌニェス/ユーゴ・マルシャン

 2年前のパリオペラ座「ジゼル」公演でネラさまがゲストで呼ばれユーゴと2回踊ったんですよね。その再現を今回観られたわけす。ネラさまのジゼルはもう絶品で、空気の中で揺れるようなダンスからは儚さと神聖さとが混じって伝わってくる。ジゼルのエッセンスが空中に水滴のように舞っているような、不思議な存在感があった。足先もだけど指先のゆるりとした伸ばし方が精霊っぽく、アルブレヒトを見つめる目は穏やかで、ネラさま特有の暖かさは抑えているようだった。ユーゴは大柄な身体をよくコントロールしていて精神的なもろさを繊細に見せていたと思う。ジゼルを追う姿は弱々しく、腕に抱いた時の愛おしむような感じに胸が詰まった。ただ、この切り取られたシーンだけではユーゴのアルブレヒトは表現しきれていない感じで、ちょっともったいなかったような。

 

「椅子」ディアナ・ヴィシニョーワ/ジル・ロマン

 イヨネスコの1952年の戯曲「椅子」を元にした作品です。イヨネスコは「(wikiより→)平凡な日常を滑稽に描きつつ、人間の孤独や存在の無意味さを描き出す」不条理演劇作家です。戯曲の内容は「愛し合って生きてきた老夫婦が “人生の意味” を発見したので発表するということで人々を招くことにする。2人はゲスト用の椅子を並べるがゲストは1人も現れない。2人は思い出を話し始めるが、やがて “人生はこれ以上のものにはならない” と言って海に身を投げる」というもの。ジルの、思い出を集め、紡ぎ、妻と分け合おうとする動きに哀愁が感じられ、ヴィシは若いぶんジルをいたわるような包容力を感じさせる。最後2人が手をつないで去っていく時ヴィシは名残惜しそうに後ろ(自分たちが生活していた部屋)を振り返るんだけど、それが、まだ50歳前で艶やかさも十分なヴィシだと、もっと生きたいという渇望が感じられ、暗闇に消えていく姿が切なかった😢

 

「ボーダーランズ」高田茜/エドワード・ワトソン

 今回いちばん楽しみにしていたのが、エドが踊るこのマクレガー作品です。人体の動きの限界に挑むような関節の使い方が驚異的で、その無機質な中に時々クネッとした動きが入ると人間味が現れて、とても面白い。エドのエッジの効いたキレッキレのダンスが今も健在で爽快でした。まぁ、彼はマクレガーダンサーだから良いのは分かっていたのだけど、茜さんが素晴らしかった🎊 今までも茜さんのコンテを観るたびにコンテも良い!と思ってはいましたが、マクレガーがこんなに合うとは。もちろんウィリアムと踊った「マノン」も茜さんの良さが溢れていて、そうした物語バレエも良いんだけど、甘さを封印したコンテも良いのですね。雰囲気は違うけどサラのような路線でいけそう。今回ワトソンと踊れたことはとてもラッキーだったと思うし、この後マクレガー作品を踊る時は是非カルヴィンかシセンズとお願いしたいな。

 

「ロミオとジュリエット」永久メイ/チョン・ミンチョル

 ラヴロフスキー振付版です。若さそのものを出すシーンなので2人にぴったり。永久さんのジュリエットは恋を知った喜びを全身で表していて、特に上半身の大きな動きから高揚感がよく現れていた。ミンチョルも初々しさが前面に出ていて、恋に恋してしまうロミオらしかった。疾走感あるダンスがジュリエットに対する恋心の興奮となって伝わってくる。スピード感を出す必要があるシーンだとサポートはそのぶん緩くなって、永久さん受ける時きちんとポジションに収まらなかったり流れてしまったりでしたが、ま、ミンチョル美しいからいいかと思った。

 

「ダンス組曲」ユーゴ・マルシャン

 近年マチアスの完璧なのを観ているので、ユーゴのは果たしてどうなのだろう?と少し心配だったけど、ユーゴが踊るとこんな感じになるのねという、何か新鮮な感動を覚えました。純粋に音楽に昇華されていくのではなく、翳りや迷いや内省を感じさせる踊りで、時々外に向けて、そうした内面のわだかまりを発散し、自分を解放しリセットするような感じを受けたりする。音楽に乗りながら自然に、というより、意識して自分を無にしていくような感じかな、良い意味での彼なりの「色」が付いていた。チェロ奏者との心を通わせるようなやりとりもとても良かったです。

 

「眠れる森の美女」マリアネラ・ヌニェス/ウィリアム・ブレイスウェル

 ネラさまのオーロラ、もうキラッキラでしたね😊 バリエーションでの腕の動かし方の優雅なこと。ずっと昔に読んだ都さんのインタヴューで「あそこはウェディングヴェールを揺らしているような気持ちで腕を動かしている」というのがあって、いつもそれを思い出しながら見ています。幸福感に浸っている瞬間ですね。ウィリーの王子はネラさまに引っ張られるような感じでエレガンス味を出していました。マネージュやジャンプもやりすぎて下品になることを避け、控えめと言っていいくらいのダンス。それこそロイヤルが大事にする「王子のノーブルさの表現」なんだと思う。プログラムのトリに相応しい2人のパフォーマンスでした🎉

 

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作 ジョージ・バーナード・ショー

演出 ドミニク・クック

イメルダ・スタウントン/ベッシー・カーター

 

 

 1893年に書かれ、検閲を受け、売春について語られていることから上演が禁止され、初演は1902年@ロンドンまで待たねばならなかった戯曲です。アイルランドの劇作家でノーベル文学賞を受賞したバーナード・ショーは、人の生きざまの理想と現実とを見つめる風刺に満ちた戯曲作品が多い(ような気がする)。彼個人は進歩主義者/穏健な社会主義者という政治的姿勢で、イギリスの労働党の前身であるフェビアン協会の会員でもありました。今回観た作品は、資本家や上流階級に搾取される労働階級や女性の生き方と社会構造の関係を問うものになっている。

 

 ネタバレあらすじ→19世紀末ヴィクトリア朝時代のイギリス。大学を優秀な成績で卒業し進歩的な思想を持つ女性ヴィヴィ(ベッシー・カーター)は、母ウォレン夫人(イメルダ・スタウントン)と久しぶりに会う。ヴィヴィは寄宿学校や大学寮や下宿などで生活してきたため2人は疎遠だったのだ。そしてヴィヴィはこのとき初めて母の生い立ちを知る。貧困の中で育った母は生活のために身を売る商売を始め、それで稼いだお金で娘ヴィヴィを育て上げた。ヴィヴィはそんな逞しい母を理解し感謝する。しかし、母は裕福になった今も、知り合いの貴族から資金援助を受けてヨーロッパ各地で売春宿を経営しており、その儲けで派手な生活ができてることを喜んでいることも知る。ヴィヴィは途端に激しい嫌悪を覚え、母からの金銭的援助を一切拒否し、ロンドンで自活することにする。そこを訪ねてきた母と激しく言い争い、ヴィヴィは母を拒絶し、母娘関係は決裂する。終わり。

 

 登場人物は他に、ウォレン夫人の売春宿経営に資金を提供しているクロフツ卿、金欠で甲斐性無しのフランク、その父ガードナー牧師(ヴィヴィはウォレン夫人とガードナー牧師の子だった😓)、無政府主義者の芸術家ブレイドがいる。4人の男たちはそれぞれ社会的立場を象徴する存在だけど物語の中では背景にすぎなくなっている。でも実際には2人の女性の「背景」を映し出す鏡であり、ショーらしい皮肉が効いていると思いました。

 

 舞台は花壇の庭から、殺風景な空間へ、そして最後はヴィヴィが働く無機質なオフィスの一室になる。シーン転換になると、ヴィクトリア朝時代の下着を身につけた、様々な年齢の名も無き女性たちがワラワラと出てきて舞台セットをチェンジします。彼女たちは売春婦(資本家に搾取される「持たざる」女たち)なのでしょう。彼女たちの批判のこもった視線だけの演技が凄いスパイスになっていました。最後、ヴィヴィはオフィスから母を追い出しデスクに向かって仕事を始めると、その女たちが出てきてヴィヴィがいるデスクを囲みじーっと彼女を見つめるところで幕で、ちょっと恐怖を感じさせる幕切れでした😰

 

 本作は、資本主義社会における資本家と労働者、搾取する側とされる側の構造と、そこにある倫理や道徳との矛盾(ここでは売春をしてお金を稼ぐこと、売春宿を経営してお金を稼ぐこと)を激しく突いてくる。テーマは普遍的なもので、特に本作においてショーは「売春は道徳心の無さではなく経済的必要性によって生まれる “社会的な問題” なのだ」と訴えているのだそうです。ヴィヴィは、生きるためにその職業を選ぶしかなかった母を理解するけど、やがて拝金主義となり売春宿の経営者として搾取する立場になった母を糾弾する。そうなった母を受け入れられないヴィヴィの気持ちは、私は十分に分かります。

 

 ウォレン夫人は社会的抑圧の犠牲者ではあるけど、金持ちの助けを借りて(自分がしてきたのと同じことを女性にさせるビジネスをする側に回り)優雅な生活をしており、その自分の生き方を正当化している。ヴィヴィが「十分暮らせるのになぜ売春宿経営を続けるの?」と聞くと母は「刺激がないと生きていけないから」と答え、贅沢な生活を送れることを嬉々として語る。さらには、娘に自分と同じ価値観を押し付けようとし、それをヴィヴィが跳ねのけ母と決別しようとすると「私が年を取ったら誰が面倒を見てくれるの? 老後の母を見るのは娘としての務めでしょう!」と言うのにはちょっと引きました😓

 

 でも「自分は人生を選べなかった。貯蓄できるほどの仕事は当時の女性にはなかった。できるのは男を喜ばせることだけ」と言う母にヴィヴィが「境遇と環境のせいにするのね」と言うのは厳しすぎると思うし、そもそも時代によって人が取れる行動の範囲や種類は違うし。実際のところ答えの出ない問題を提示していて、観る人によって感想は違うでしょう。結局は、そうした社会構造になっている資本主義体制の中で、自分はどうありたいか、どう生きていこうか、ということだなと思いました。

 

 イメルダ・スタウントンベッシー・カーターの会話の応酬に惹きつけられました。ショーの戯曲は1人が一度に喋る会話量が時に膨大なのが特徴だけど、それが「セリフ」ではなく日常の「会話」としてちゃんと胸に響いてくるのです👏 2人は実際の母娘なのだけど、それを差し引いても、圧倒的な迫真の演技でした。

 

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音楽 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

振付 ルドルフ・ヌレエフ

ドロテ・ジルベール/ギヨーム・ディオップ/ビアンカ・スクダモア/アントワーヌ・キルシェール/エロイーズ・ブルドン/ロクサーヌ・ストヤノフ/ジェレミー=ルー・ケール/アントニオ・コンフォルテ/トマ・ドキール/イネス・マッキントッシュ

 

 パリ・オペラ座のヌレエフ版「くるみ割り人形」はエリザベット・モーランとローラン・イレールが踊った1989年の映像(スタジオ撮影)がVHSで出てまして、私はそれを持っています。DVDやBDにはなってない…と思う。それを観た当時は何か居心地の悪さを覚えたんだけど(デカ頭人間たちが押し迫ってくるとこが怖くて悪夢を見たほどトラウマに😱)、いろいろ深い意味があることが今は分かり、これはこれで面白いのかも。で、今回シネマで観たら1989年版とは変わっている箇所がちょこちょこありました。まぁ、いずれにしても子どもと一緒に楽しめる作品ではないような……💦

 

 ヌレエフ版は思春期にあるクララの深層心理に入り込み、その年齢の子たちにありがちな、大人社会に対する不審や恐怖、兄弟や友達から受ける疎外感や孤独感、そして理想化した異性(=ドロッセルマイヤー)への憧憬/初恋願望などが描かれているようです。

 その表現としてクララは2つの夢を続けざまに見る。最初の夢はクララの表層的な憧れで、ネズミたちを倒したくるみ割り人形が王子(ドロッセルマイヤーが若返った姿になっている)として現れ、彼と喜びのデュエットを踊る。

 続いて見る夢はクララの意識のさらに奥深いところから湧き出たようなもので、現実のクララの周りにいる人たちが別キャラになって恐怖を煽ったり未知の世界に誘ったりし、それを見るクララの横にはドロッセルマイヤー王子が寄り添っていて(例えばデカ頭軍団に迫られると「怖がる必要はないんだよ」と優しく言ってくれたりする)最後は再び彼と幸福に満ちた踊りで夢が終わる。

 夢から覚めたクララがドロッセルマイヤーを探して外に出てくると、彼は身を隠して、でも満足そうにクララを見ます。これは彼が仕掛けた「魔法」どおりにクララが大人に成長したことを見届けて満足……ということなんでしょうか?

 

 クララを踊ったドロテは大人になりかけの純粋さと不安と苛立ちをよく見せていたと思う。クララを踊るにはベテランすぎるのでは?と思ったけど、成熟さを封印し、思春期にある可憐な少女としての感情を自然に出していると感じました👍 1幕でゲストたちに余興を見せるところではコロンビーヌとしての人形踊りが上手かったし、もらったくるみ割り人形への愛着表現も可愛かった。ダンスには持ち前のエレガンス味があり、GPDDでのバリエーションなどを見るとミリ単位の正確さでとても丁寧に踊っているのがわかる。コーダでのピルエットの変則的な足捌きもきちっとこなしていましたね。

 

 ギヨームはドロッセルマイヤーの「初老の紳士」という設定には少し無理があると感じたけど王子は完璧だったと思います✨ マイルドな笑顔が美しいのも王子にぴったり、敢えていえば色っぽさが薄味かな。ダンスはしなやかさが全身から漂い、その長い手脚を持て余しているふうにも見えず、ややこしいステップを難なく優雅にこなしている。GPDDのアダージオの最後、アラベスクで上げた片脚にドロテが横向きに乗って身体を預けるという難技は綺麗に決まったけどちょっとサポートが大変そうで、欲を言えばあと1、2秒ポーズしていて欲しかったかも。コーダでのマネージュは大きく空中で伸びる脚が美しかった。

 

 クララの姉役のスクダモアは1幕での人形振りでムーア人を踊ったけど、もう少しキレや強ささがあるといいかな。弟役のキルシェールは悪くはないけど身長があと5cmあればなあと思う。2人が踊ったスペインは普通でした。

 ストヤノフケールが踊ったアラビアが、音楽が通常よりスローなこともあってか、しなやかでネットリした踊りになっていて、とてもなまめかしく神秘的でした👏 ちなみにアラビアは飽食や虚栄(食事をもらった子どもたちがお皿に自分の姿を映して満足してた)といった大人の醜さを見せているのだろうか?

 中国は、1989年版では辮髪&ナマズ髭&最後は両手の人差し指を立てたチョップスティックポーズというコテコテのステレオタイプ造形でしたが😔 そこはポリコレに配慮した無難なヴィジュアルになってましたね。ダンスも見ていて楽しかった。

 ところで、デカ頭の被り物キャラってヨーロッパのカーニバルなどで時々眼にする仮装オブジェが思い浮かんだんだけど(もともとスペインあたりの宗教的祭礼から発したものらしくて、女性や子どもを怖がらせるものだったみたい)、私自身もあれは不気味に感じます。クララもそれを観たことがあって威圧的で怖い存在として潜在意識にあり、それが自分の周りの大人たちのイメージと重なって出てきたのかなと思っていますが、どうなんでしょう。

 

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時蔵/菊五郎/彌十郎/玉太郎/萬太郎/権十郎/彦三郎/橘太郎

 

 1月の怒涛の歌舞伎鑑賞も、この国立劇場版でひと区切りです😮‍💨 これ、18年ぶりの通し上演なんですね。前回の2008年は新橋演舞場で、尾上=萬壽(当時は時蔵)、岩藤=團十郎(当時は海老蔵)など。それ以前も割と断続的にやっていて、1997年@歌舞伎座では尾上=玉さま、お初=18代目勘三郎(当時は勘九郎)、岩藤=仁左さま(当時は孝夫)だったんですよ~。それ観たのはサスガに忘却の彼方ですが、2008年のは断片的に記憶が蘇ったりして懐かしかった。

 

 謀反を企んでいる御殿仕えの岩藤=彌十郎は、大姫(玉太郎)に目をかけられている部下の尾上=時蔵に嫉妬して陰湿ないじめや悪事を働き尾上は苦にして自害、尾上に忠義を尽くす召使いお初=八代目菊五郎がその仇を討つという、3人の女性のドラマです。

 今回は4つの幕が上演され、それぞれの幕での個人的な見どころとして、序幕では岩藤が(武芸の心得のない)尾上に剣術の試合を吹っ掛け、尾上の代わりに立ったお初が岩藤たちをやっつける(←大詰での仇討ちの伏線ね)。2幕では岩藤が尾上を草履で激しく打ち、尾上は黙したまま無念さを飲み込む。3幕では死を決意した尾上と胸騒ぎがして主人を気遣うお初とのやりとり。大詰ではお初が岩藤を討ち取るところです。

 

 グッと耐え忍ぶ悲劇の/薄幸の女性がニンに合っている時蔵、今回の尾上も初役とは思えない演技でした🎊 終始控えめな佇まいからは人前で感情や意見を発してはならないという、いじらしいほどの謙虚さが見える。岩藤に草履で何度も叩かれじっと耐える姿に悲劇の陰が覆い被さっていく、そこにはある種の美しさすら感じられます。岩藤のこの折檻を「ありがたいこと」とまで言ってしまう尾上には何かモヤモヤするけど、忍耐し続け、証拠の草履を胸にしまって歩き、花道でふっと立ち止まるまでの無言の動きからは “何か” を決心したのが見える。セリフがなくても、ちょっとした首や頭、腕や手の動き、そして目線の動かし方で諸々の感情と言葉が伝わってくるんですね。恨みや無念を抑え、ただただ悲しみに襲われて絶望の淵に立ってからの自害。それでもお初に対しては、彼女の気持ちに感謝の涙を心で流しながらも、主人として凛として応対する時蔵が泣かせます🥺

 

 八代目菊五郎のお初は、健気なほどに主人思いで忠実で、真っ直ぐな気性、且つ聡明で芯が強い女性です。8菊五郎は立役もやるからなのか、こういう竹を割ったような女性はハマり役。尾上の部屋で、主人を気遣い甲斐甲斐しく世話を焼く姿がいじらしい。控えめに振る舞いながらもさりげなく「忠臣蔵」の話をもちだして「高師直にいじめられて刃傷に及んだ塩谷判官」の行為を早まったことだと言い、尾上の気持ちを落ち着かせる気配りを見せるところに説得力がある。でも結局は尾上が自害したことで主人の無念を晴らすべく、きっちり仕事を成し遂げる(仇を討つ)8菊五郎、声も表情も変わっていて、スキッと痛快でした。

 

 彌十郎の岩藤がこれまた出色のスーパー・パワハラお局でした。威厳と貫禄たっぷりだし、あの体躯、あのお顔、あの声(お役によっては、それが愛嬌になってくるから不思議な役者さんですが)で、いびられいじめられたら言い訳も反論もできませんな😅 お家横領を企む悪党仲間(権十郎)と目配せしてニヤッと笑みを浮かべるお顔の不遜さときたら……! しかも、あんなに酷いパワハラしながらも、セリフ回しや所作から、貫禄と威厳はもちろん、地位や身分などにおいて上格であることがちゃんと伝わってくる。最後、お初に斬られる直前まで憎たらしさはパワーダウンせず、まことに気持ち良い悪役でした。

 

 応援している若手の1人の玉太郎くんは赤姫(大姫)で、良いんだけどね……私は彼の立役を観たいのですよ。昨年は浅草歌舞伎に出たのに今年は外れてしまってとても残念だった。あと、私が観た日は大向こうさんがいなかったんだけど、劇中何度も形を決める場面があり、そこに声が全くかからないのが寂しかったです。

 ところで、3月歌舞伎座でこの後日譚である「加賀見山再岩藤(通称=骨寄せの岩藤)」が上演されますが(岩藤の亡霊が復活して復讐を企てる)、8菊五郎と彌十郎はそちらにも出てほしかったな。今回、岩藤は殺されるとき傘を持っているんだけど、「骨寄せの岩藤」では、亡霊岩藤が宙乗りで消えていくとき傘をさしています。傘は今回から繋がってる岩藤のアトリビュートなんですねー。

 

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 團十郎が(ある意味)プロデュースする演舞場1月の歌舞伎公演、昼の部は「口上」も入れると全4演目、どれも見応えがあり、とても良かったです🎊

 

「操り三番叟」右團次/九團次

 右團次が操り人形として踊るのだけど、実際に人形が踊っているように見せる所作が見事。後見(操り師)は九團次で、箱から人形右團次を取り出し、実際にはない糸をほぐしたりする仕草を見せ、あや板を舞台の上に放ると(上にいる人形遣いと人形が糸で繋がったことになるので)いよいよ人形が動き出す。時にゆったり時にキレ良くさまざまな形を見せていく右團次。人形だから足音を立てないように動くの結構たいへんだと思うけど、とても軽やかです。途中で、糸が絡まってクルクルクルクルと回り出したり、糸が切れてバッタンとうつ伏せで倒れたり。そのたびに後見が(エアで)結び直したり衣装を整えたりする。2人の息の合ったパートナーシップも楽しめました👏

 

 

「鳴神」福之助/廣松/新造/新十郎

 久しぶりの「鳴神」やっぱり凄く面白い~😊(そもそも荒事が好きなので)。福之助は昨年11月に体調不良で休演してから情報が途絶えていたので気になっていたのだけど、今月めでたく舞台復帰で安心しました。それも、なんと初役で鳴神上人って、すごいです。福之助もインタヴューで「まさか兄の橋之助より先にやらせていただけるとは思ってなかったのでうれしい」と言っていて、そうだよね。

 新春浅草歌舞伎の顔ぶれが昨年度大幅に変わった時、福之助はその新キャストに入れてもらえず、無念を隠しきれないようでした。今年も入れなかったのか……と私は残念に思っていたんだけど、もしかしたらすでに團十郎に声を掛けられていたのかも。とにかくも、こんな大役をやらせてもらえて、浅草に出なくて良かったねと思ってしまう😅 鳴神上人は芝翫ももちろん勤めているから、その意味でも福之助には大きな一歩ですね。

 

 そして、その福之助の鳴神上人、期待通りに良かったです🎉(初役だから大目にみての感想ですよ)。隈取がよく映え押し出しも立派。セリフも太くて力強く、柱巻きや不動の見得の形も綺麗。雲の絶間姫の話に引き込まれどんどん前のめりになっていく表情が小学生のような好奇心で輝いていた。なので、姫の誘惑に堕ちるところは色に迷ったというより可愛いとも言える “うぶ” さが感じられました。破戒した後は大きさや荒々しさがもっと出るといいかなとは思ったけど、豪快な六法まで力が途切れることなくて、ホント胸熱でしたよ。福之助には荒事どんどんやってほしいです。

 

 廣松の雲の絶間姫が、これまた初役なのに大変良かったです🎉 雀右衛門に指導を受けたのね、納得。まずピッと張ったような美しさで知的な雰囲気がある。それゆえか色気は少し薄味だけど、鳴神上人を堕としていくところでは艶かしさを出していたし、なおかつ失わない気品や強い意志が感じられ、魅力的でした。上人に「夫婦になろう」と言われてからの、自分に夢中な上人の手綱を握っていくやり取りが微笑ましかった。あと、2人の所化(新蔵/新十郎)の掛け合いは息が合っており、ベテランの味でした。

 

 

「熊谷陣屋」團十郎/雀右衛門/扇雀/虎之介/男女蔵/市蔵

 10年ぶりとなる團十郎の熊谷が予想以上に良くて感動しました🎊 ちゃんと時代物の直実になっていた😅 本作は九代目團十郎が型として完成させた作品。團十郎は「前回初めて勤めた時は父がもう他界していたので、吉右衛門のおじさまに教わりに行った。おじさまは “九代目團十郎から初代吉右衛門に伝わったものを私が教わり、それを今度はあなたに教えるのだから、これは恩返しだ” と快く教えてくださった」と。涙です🥹

 

 花道の出での陰影を帯びた佇まい、妻が陣屋に来ていることを知り一瞬見せる怒りのような困惑を抑えた表情、とても良いです。そのあとも重厚で骨太な芝居。熱くなってると思える時もあったりするけど、やりすぎ一歩手前で抑えている感じで、セリフには威厳が溢れている。物語るところにも気持ちがこもっていた。首実検に臨む時の、覚悟がうかがえる凄い気迫、義経の「……相違ない」のところで「自分は間違っていなかった」と安堵しスッと身を引くところまで、息するの忘れるほど見入りましたよ。花道での芝居も良かった。「16年はひと昔……」のセリフは泣きすぎず、陣太鼓の音に笠で頭を覆って走り去る姿が余韻を残しました。熊谷の揺れ動く心や内に秘めた妻子への情愛、藤の方や義経への敬意など、心情の繊細な変化をよく出していたと思う。

 

 雀右衛門の相模扇雀の藤の方、それぞれの手堅い演技が團十郎を支えている。虎之介の義経が気品を見せており、やはり初役で勤めた男女蔵の弥陀六も第一歩として良かったです。男女蔵と虎之介も含め、團十郎は鷹之資と福之助に鳴神上人、廣松に雲の絶間姫というそれぞれ大役を今回は任せています。「これまで父や先輩から預かる立場だった私が、彼らに渡す側になった。伝統というのはそうやって人から人へ預けて託して紡いでいくもの。歌舞伎はそのような “継承” が見られる時間だと思う」と言えるようになったんですね🥲

 

 

「仕初口上」團十郎/齊入/九團次/廣松/蔦之助/かなめ

 初代團十郎が創始し、今日まで市川團十郎家に伝わる「にらみ」を披露する、正月恒例の一幕です。本舞台の幕が開く前、花道から金の頭の獅子舞(九團次/廣松)が登場。客席降りして、頭を噛んであげようとするんだけど、お客さんそれ知らないのか、獅子頭をナデナデしていて可笑しかった😅 そのあと花道にお多福(蔦之助)ひょっとこ(かなめ)が登場して踊りを見せ、獅子舞2頭も加わって「おめでとうござりまする」と目出たさを煽ったところで、いよいよ幕が開きます。緋毛氈に座る團十郎後見は齊入。祝祭感あふれる見事な「にらみ」でした。1年間無病息災でいられますように🙏

 

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作 三島由紀夫

演出 宮本亞門

成宮寛貴/加藤雅也/三浦涼介/東出昌大/大鶴佐助/首藤康之

 

 面白かった! 戯曲自体が観念的で難しいのだけど、その難しさも含めて面白かった。登場人物は女性6人で、今回の舞台ではそれを男性6人が演じる。オールメールでの「サド侯爵夫人」といえば、私は直近だと2011年に蜷川さん演出版を観ていて、東山紀之、生田斗真、平幹二朗、木場勝己、大石継太、岡田正というキャストだったけど舞台作品としてはちょっとアレでして😓 今回の亞門さん演出版はその3倍くらい見応えありました。演出と演技が光っていたし、衣装や舞台美術や照明も良かった🎉

 

 貴族であり小説家のサド侯爵(1740~1814)は、ブルジョワ階級出身貴族の娘ルネと結婚するも、外ではさまざまな人と肉体的快楽にふけって虐待や乱行などを繰り返し、逃避行、逮捕、投獄、脱獄、再収監などを繰り返した人物です。

 戯曲ではサド侯爵自身は登場せず、6人の女性それぞれに三島は役割を与えている(「=」で示しました)。そのうち実在したのは、サドの妻ルネ=貞淑ルネの母モントルイユ夫人=法・社会・道徳ルネの妹アンヌ=無邪気さと無節操。そして三島が創造した人物は、サン・フォン伯爵夫人=肉欲シミアーヌ男爵夫人=神家政婦シャルロット=民衆です。

 1幕1772年、2幕1778年、3幕1790年(フランス革命勃発から9カ月後)という3つの時期の出来事を見せることで、19年間の彼女たち(主としてルネ)の変化を物語る。彼女たちが会う場所は常に、パリのモントルイユ夫人邸のサロンです。

 

 ネタバレ簡単あらすじ→1772年、サド侯爵は性的乱行と娼婦虐待の罪で告訴され逃亡生活を送っている。モントルイユ夫人(加藤雅也)は娘婿サドの無罪を勝ち取るべく、性的に奔放なサン・フォン夫人(東出昌大)と敬虔なクリスチャンのシミアーヌ夫人(大鶴佐助)を呼び、サドを助ける手助けを頼む。その一方で娘ルネ(成宮寛貴)には離婚を勧めるがルネは断る。ルネの妹アンヌ(三浦涼介)が現れ、逃亡中のサドと会い性的関係を持ったこと(ルネもそれを知っている)を話す。驚愕したモントルイユ夫人はサドを見放すことにする。1778年、モントルイユ夫人の策略によりサドは牢獄に繋がれる。ルネは母を糾弾し、サドとの絆や彼への貞淑を一層強固にする。1790年、フランス革命の混乱に乗じてサドは釈放となるが、ルネは修道院に入ることを決意する。サドが邸宅に戻って来たと知らされるとルネは「二度と会うことはありません」と家政婦(首藤康之)に伝えてもらう。おわり。

 

 ルネは夫サドに尽くし貞淑を守り離婚はしないと頑なに意思を通してきたけど、夫が自由の身になったというのに心変わりして二度とあの人には会わないと決心した、その理由が私には不可解です🤔 サドが超越性を失ってしまったから? ある意味で共犯者だった自分をサドが独自に構築した(概念としての)牢獄に閉じ込めてしまったから?

 今回の舞台では、この最後の部分がとても意表を突く見せ方だった。モノローグを終えたルネは後ろ向きになって純白のドレスを脱ぎ、全裸になって(後ろ向きのままですよ😅)舞台の奥に向かって歩いて行き……幕です。この亞門さんの解釈、「貞淑」という衣装を脱ぎ捨て真っさらな自分になり神の前で答えを待つということなのか? とにかくとても美しいシーンでした✨

 

 新古典主義的な円柱が数本、舞台に弧を描くように立っている。その内側に舞台をぐるりとドーナツ状に囲む廊下があり、中央に空いた円形部分は一段低い舞台になっている。役者はドーナツ状廊下を歩いたり円形部分に入ったりして演技する。上方にはそれと対を成すように円形の空洞が見える。

 三島は「6人の女性が惑星の運行のように交差しつつ廻転してゆかねばならない」と言っているので、ドーナツ状廊下は惑星の軌道をモチーフにしたのかな。上方の円形の空洞(=天空にあるブラックホール?)にいるのがサドなのだろうか。ルネが最後のモノローグをすると、そこから光が射してルネを包み込むように照らし、何かとても神聖な空気を感じました✨

 

 女性たちを男性が演じることで人間の持つ多様性や本質みたいなのが浮き彫りになる。異常と正常が交差したり混じったりする。そもそも、皆さんドレス姿ではあるけど髪型は女性風に作ってはおらず、セリフも女言葉は強調しない。無理に「女」としての作り演技をしていないのが非常に良いです👍

 ルネを演じた成宮寛貴は芯のある女性の内面をセリフで見せ貞淑さの裏にある複雑なヒダを感じさせる良い演技でした。モントルイユ夫人の加藤雅也が威厳と同時に外面を気にする凡人性をうまく見せていたし、サン・フォン夫人の東出昌大は反社会的な言動で快楽を肯定するけど暗い悲劇的末路を予感させる雰囲気があった。アンヌの三浦涼介が自由奔放な小悪魔味を見事に演じていたと思う。シミアーヌ夫人の大鶴佐助の落ち着いたセリフ回しに(そういう役柄とはいえ)何故かホッとしたりね。

 

 各登場人物のモノローグ風な語りになると三島の言葉の美しさに改めて感動します。そのレトリック、形容詞の使い方、言葉がキラキラと光を発しているような文章……。そういうシーンになると周りの照明が少し落ち、モノローグしている人物にライトがボワ~と当たる演出も効果的でした。

 

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「女暫」

七之助/芝翫/巳之助/新悟/亀蔵/歌昇/廣太郎/精四郎/吉之丞/錦之助/笑也/松江/芝のぶ/友右衛門/桂三/勘太郎/寿猿/幸四郎

 祝祭感がありユーモラスで、何よりも、圧倒的な様式美に溢れていて、好きな演目です。流れは歌舞伎十八番の「暫」とほぼ同じで、強い主人公(ここでは女性)が、いじめられている善人たちを助けて悪人たちをやっつけるという、単純で可笑しみ溢れる展開。巴御前の七之助鬘や衣裳に負けない大きさを見せ、劇場内に響き渡る声には張りがあり、立派な強者だった。玉さまより柔らかさが控えめに感じられたのは、七之助の声質が硬質なためキリッとした味があり、そのぶん強さが際立つのだろうか。

 

 蒲冠者範頼の芝翫の押出が立派で、女鯰の新悟轟坊震斎の巳之助のやりとりがいい感じ。花道の口まで出た新悟が七之助に「中村屋の姉さんじゃないですか」と声をかけると七之助が「おや、大和屋の新悟姉(あねぇ)」と応えるやりとりは、舞台と現実とのボーダーがなくなって面白い。個人的には、奴(やっこ)たちに向かって巴御前が息をふぅ~っと吹きかけると奴たちが奴凧のようにフワフワと舞って散らされていくところが好きだな😊

 巴御前が本舞台に上がるときに、善人の清水冠者義高(錦之助)たちが立ち上がり舞台を上手→下手と並んでゆっくり歩いていくところもいい。特に意味のない動きだけど、それぞれの衣装が綺麗なのでファッションショーみたいです。そして、巴御前が太刀を一振りして範頼の家来たちの首を撫で斬ると、家来たちが赤い布で頭を覆って隠し、黒衣さんが首をゴロンゴロンと地面に転がすところも、歌舞伎(荒事)っぽくてすごく好き~😆

 

 芝のぶが太刀下という、珍しくも立役で出ていて、声も良くすっきりした美青年でしたね。芝のぶをぜひ幹部に昇進させてほしいと思います。腹出しのトップ成田五郎が亀蔵というのは意外だったけど、艶のある美声を太く聞かせてた。でも亀蔵は、よくいえば器用な役者さんということになるけど、言い換えれば都合よく使われている便利な役者さんと思えてしまい、気の毒です😔 今回みたいにニンでないお役もそこそこ勤めてしまうと、亀蔵の当たり役というのが無いまま、ただ使い勝手の良い役者さんで終わってしまうよ。私は亀蔵ってスッキリした二枚目の役柄が合うと思うんですが。

 最後、花道を引っ込む時に七之助が「太刀が重くて持てないから誰か手伝って~」と言うと、幸四郎が舞台番で登場して華を添える。で、七之助に六法のお手本を見せるのですが、この舞台番が、本家「暫」の役者である團十郎だったら面白いなと思ってしまった。もちろん今月は演舞場に出ているので問題外ですが。

 

 

「女殺油地獄」

隼人/米吉/歌六/梅花/宗之助/高麗蔵/錦吾/橘三郎/錦之助/笑也/廣太郎/吉之丞/精四郎/松之助/東蔵

 今月の歌舞伎座のお目当ては隼人の与兵衛です。南座での初演は観てないので、果たしてどうなんだろうと思っていましたが、いや~、良いっ❗️ 期待を超える良さでした🎉 仁左さまのご指導を受け、細部にわたってなぞる感じではあったけど(最初はそれで正しいわけですが)、特に2幕後半からはもう隼人の与兵衛になっていましたね。 

 

 1幕での喧嘩騒ぎシーン、仲間内や恋敵の前では虚勢を張りまくり、来合わせた伯父(錦吾)に叱られてビクビクし、聴衆の前ではイキがって見せ……上っ面だけの軽薄な与兵衛。ここでの隼人はその見せ方にちょっと難儀しているようではあった💦 意外と難しいのかも。心配してくれるお吉(米吉)のお説教を面倒くさそうに聞き流すところで、お吉にに対して恋心は抱いてないというのをちゃんと見せていて、そこは良かったな。

 お吉の旦那(錦之助)が現れて与兵衛を邪険に扱うところは、錦之助と隼人という実の父子のやりとり。隼人はインタヴューで「僕の家柄的には、大きな役をいただけることは決して当たり前ではありません」と言ってたけど、錦之助は自分を乗り越えていく息子をどんなに頼もしく思っているか、想像すると心が熱くなりました🥹 

 

 2幕、家での与兵衛はトンデモDV倅なんですが、1幕は少し「演技している」感があったのに対し、ここでの放蕩息子ぶりからは役に乗ってきた(自然になった)ように思えた。セリフ回しに仁左さま味がにじみます。妹(宗之助)が、与兵衛に頼まれた嘘芝居をバラすところで、膨れっ面で柱に寄りかかっているところが絵になるし、義父(歌六)説教に飽きて借金の計算を始めるふてくされた表情が可愛かったりする。実母(梅花)に勘当され意地を張って家を飛び出したものの、花道でフッと家を振り返ったときの寂しげな表情にキュンとさせられクズ男だけど憎めない……と思わせるところも上手く演じていた。

 

 いよいよ殺しの3幕。借金を今夜中に返さなくてはならず、すがる思いで尋ねたお吉(米吉)の家。「いっそ、不義になって貸してくだされ……」では、咄嗟に思いついた嘘芝居とはいえ、しなだれ掛かる身体と流し目が色っぽかった。鐘の音を聞いて時間が刻々と過ぎていくことを悟って呆然とし、観念し、絶望の底で目に入った(いざとなったら自害するつもりで持ってきていた)脇差に誘われるように「お吉を殺して金を奪う」ことを思いつく(ホント短絡的なヤツだな😮‍💨)。そこまでの心理の変化を顔の表情で見せていく。脇差をこわごわと手に取る震える指先にまで神経が届いていた。

 お吉にしてみれば、世話好きな優しさがアダになった悲劇ですよね。与兵衛は恋心は抱いていないという設定でもあり、米吉の演技も色っぽさを極力抑えているように見えました。与兵衛に頼まれ(彼が脇差を手にしたとも知らずに)油を手桶に汲み入れる時の、米吉のコロコロと転がるような明るい声が却って哀しかった😢

 

 殺し場面は陰惨だけど様式美もたっぷりです。隼人が米吉の襟を掴んで脇差を振りかざし、米吉がグイ~ンと海老反りになった絵柄の美しいこと✨ 倒れた樽から油がこぼれるピチャピチャという音が不気味に響く。与兵衛は、油まみれで逃げ惑うお吉を追いかけるうちに殺しに快感を覚え、隼人の目に恍惚とした妖気が宿り口元にうっすらと笑みが浮かんでいく、その凄みと色っぽさが混じった表情が強烈。殺しを楽しむようになっていく心の変化を与兵衛になりきって見せていた。盗んだ金を懐に入れ花道を走るのだけど脚に力が入らなくてフラつくその身体は、恐怖と狂気で染まっていました。ハァ~〜面白かった🎊

 

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 歌舞伎座の昼の部1演目めは「當午歳歌舞伎賑」ということで、正月公演に相応しい曽我ものも入ったお目出度い舞踊3題。いつもどおり舞踊の感想はパスですが(「きれい~、たのしい~」で終わってしまうので😅)、ちょっと思ったことをコメントします。

 

 3つめの「木挽の闇争(こびきのだんまり)」は曽我兄弟ゆかりの人たちが登場し巻物を巡ってダンマリの優雅な所作を見せるものですが、同世代の役者さんが多い中で歌昇の工藤祐経が意外にもハマっていて立派でした。個人的には、身長がもうちょっとほしいと思ってしまう🙇‍♀️ 曽我五郎の巳之助十郎の隼人のコンビがまた美しくて良かったわ~。

 ところで巳之助と勘九郎を見ながら思ったのは、次の襲名は巳之助→八十助なのか、勘九郎→勘三郎なのかってこと。1、2年以内にどちらかの襲名がありそうな気配ですが。

 

 

「蜘蛛絲梓弦」

尾上右近/巳之助/隼人/門之助/笑三郎/笑也/吉之丞/精四郎

 早替りの趣向を取り入れた変化舞踊。通常は6役だけど、令和8年と末広がりとを掛けて8役に挑戦したそうです。源頼光(門之助)が病に伏しているところに、女郎蜘蛛の精(尾上右近)がさまざまな姿に化けてやって来て翻弄・呪い殺そうとするも、最後に正体を見破られて四天王(巳之助/隼人/吉之丞/精四郎)に退治される

 右近は、女童/薬売り/番頭新造/太鼓持/座頭/傾城/女郎蜘蛛の精/平井保昌の8役を、テンポよく入れ替わる。二重の奥からコロンと出て来たりセリからポーンと飛び出したり欄間抜けで現れたり、黒御簾ダイブや仏倒れもあり、そして、ほんのちょっとだけど宙乗りまで見せてくれるという、大奮闘です。どのお役にも、華やかに舞うその姿に熱血右近っぽさが溢れてたし、投げる糸も綺麗なラインを描いていた(客席に向かって投げるというサービスも)🎊

 でもさすがに押戻しの平井安昌まで演るのは無理があったような😓 その前のお役女郎蜘蛛の精が手下たちに囲まれている間にセリで引っ込み、入れ替わった替え玉が上がってくるんだけど、ずっと顔を隠したままなのが不自然💦 その間に右近は顔と拵えを荒事風にして花道から登場し女郎蜘蛛の精と戦うんだけど、女郎蜘蛛の精は最後まで顔を見せられないから見得をかっこよく決められないのね💦 でも、右近のこの平井安昌が意外にも(というのは、私の中で右近=女方のイメージの方が強いので。実際、新造や傾城がいちばんしっくりきたし)絵になる姿と荒っぽさがあって良かったんですけどね👏

 

 四天王のうち巳之助隼人が出ずっぱりで華を添えていて、これも良い配役だったな。女郎蜘蛛の精に騙されてなかなか捕まえられない2人が客席に向かって「面目ござりません」って頭下げて笑いを取ったりね😅

 それにしても、昼の部はこれが打ち出しでも良いんじゃないかって思ってしまった。最初に舞踊3題を観てけっこうたっぷりな気分になったところに、さらにこの濃いめの舞踊劇を1時間余り観て、もうお腹いっぱい状態。このあとさらに1時間半の「実盛物語」があるんだと思うとちょっと疲れを感じてしまった。

 

 

「源平布引滝/実盛物語」

勘九郎/松緑/橘三郎/梅花/新悟/守田緒兜/七之助

 そんなことを思いながら見始めたわけですが、いや、実に後味の良い一幕でございました~😆 勘九郎の実盛、持ち味として颯爽と凛々しく、且つ、そこに年を経て身に付いたとも言える品格と華やかさが加わり、良い実盛でした。物語るところはセリフのキレやメリハリが効いていて耳に心地よい。太郎吉と接するところではその眼差しが優しくて、「そちが大人になったら仇として私を討たせてあげるぞ」(←大意)というセリフに高潔さが溢れていました。馬上姿もよく映え(扇をかざしてた?)、花道での、イヤイヤをする馬とのやりとりでは愛嬌もちょっと見せていた🎉

 

 小万(七之助)を生き返らせようとする場面で、九郎助(橘三郎)が井戸に向かって「小万や~い!」と呼びかける。これは、井戸は冥界と繋がっているという民間信仰に基づいた演出だそうで、とても好きなシーンです。何やってるか分かりづらいので最近ここをカットるす上演もあって残念に思ってたんですよね。今回、井戸の作りがお粗末だったのはちょっと😓なんだけど、ともかくも、こういう古い型は残してほしいです。

 瀬尾は松緑で堂々とした敵役、後半に親の情を吐露するところに松緑らしさが溢れていて涙です。その最期では、平馬返りはしなくて普通に後ろに倒れてました。確かにあれはアクロバティックでリスキーな動きだから仕方ないけど……😔 過去に観た亀鶴さんの平馬返りがとても綺麗だったの、今も記憶に残ってます。

 

 そして、この「実盛物語」は「義賢最期」と通しでぜひ観たいと思うのですよ。「義賢最期」=木曽義賢の館に小万が父九郎助と息子太郎吉を伴って訪ねて来る。義賢は自ら持っていた源氏の白旗を小万に託し、懐妊中の妻葵御前を九郎助に預け、平家の討手と戦って壮絶な最期を遂げる……というお話から、今回の「実盛物語」に続く(=九郎助は身重の葵御前を伴って家に帰りつき、小万は平家に追われ琵琶湖に飛び込んだところを実盛に助けられるも、彼女が持っている源氏の白旗が敵方に奪われそうになったので実盛は小万の腕を水中に切り落とし、小万は死亡。実は小万は瀬尾が捨てた子で、九郎助が彼女を拾い娘として育てたことが明かされる)わけで、お話が直接に繋がってるのね。義賢は仁左さまの当たり役、これは是非とも隼人に継承してほしいな🙏

 

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脚本 ボブ・ゲイル

作曲/作詞 アラン・シルヴェストリ/グレン・バラード

演出 ジョン・ランド

立崇なおと/阿久津陽一郎/斎藤洋一郎/海沼千明/酒井康樹

 

 

 ずーっと「観たい~」と思っていたミュージカル、ようやく観ました。同名映画は1985年にPART1が公開され、世界的な大ヒット。同年の全世界における最高興行収入を記録したそうです。89年にPART2、90年にPART3が製作されました。

 ミュージカルの方はその PART1を原作にして制作され、2020年にイギリス マンチェスターで初演(短期トライアル公演)。翌2021年にロンドン ウェストエンドに移って開幕、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作ミュージカル賞ほかを獲得。現在もロングラン中ですが、今年4月で閉幕することが発表されています。

 

 ロンドン公演の評判は知っていたので、ロンドンへ観劇遠征するたびに「観よう!」と思ったのだけど、観劇候補の上位にはなかなか入らず「次の機会に……」と後回しにしてきました。そしたら劇団四季での上演が決まり、それならばと、日本で観ることに。そう決めた後にロンドン公演の閉幕が発表されたんで、観そこなわずに済んでホッとした〜。この劇団四季の公演も、希望の席がなかなか取れず今になってしまった。ちなみに劇団四季での初演(=日本での初演)の2025年は、映画PART1公開から40周年に当たるんですね。

 

 前置きが長くなりましたが、そんなわけで「観たい、観たい、観なくては!」という気持ちがつのり過ぎ、期待がMAXになってしまっていまして……💦 その期待を超えるのはサスガに無理だったようで、ミュージカルとして、まあ、普通に面白かったです😅

 ストーリーは(もちろん)ほぼ原作映画どおりで、歌とダンスで肉付けしてある。さすがにテロリスト云々のシーンは変えてあり、スケートボードでの追跡シーンはなかったし、ドクの愛犬アインシュタインも出てこなかったですが。

 

 テーマは「夢を追うことの素晴らしさ」だそうですが、むしろ舞台版の肝は、客席までを含めた劇場空間を最大限に使った舞台美術かな。つまり、タイムマシンである車デロリアンで現代(1985年)と過去(1955年)をタイムトラベルするシーンをどう見せるかで、確かに、装置、映像、照明、音響が一体となったスペクタクルな演出だった🎉

 開演前に客席に入ると、正面のスクリーンや左右の壁に、デロリアン内部に施されたコンピュータの回線を思わせるプロジェクションマッピングがされていて、私たち観客もデロリアンの中に居るような感覚になるのですね。芝居が始まるとマッピングは消えるんだけど、デロリアンがタイムトラベルをする時は客席内が再びそのマッピングで包まれ、私たちもそれに乗って時空をトラベルしている気分になる。車がスピードを上げて走っていく様子も、背景に映す映像をうまく使い、とてもリアルに見せていました。

 でも、そうしたビジュアルイフェクトは「ハリー・ポッターと呪いの子」を観ちゃってると、あまり驚きはないんですよね😓 プログラムを読んだら、その「ハリポタと呪いの子」でイリュージョンとマジックを担当したスタッフが本作でも特殊効果のスーパーバイザーとして加わり、さまざまなイリュージョンを考案してると分かり、ナルホドと納得。

 2幕の冒頭で「ドクが2026年の夢を見ていた」という設定での歌とダンスがあるんだけど、そこは映画「2001年宇宙の旅」や「スター・ウォーズ」を思わせるSFチックな舞台美術で楽しかったな。

 

 終盤、マーティが1955年から1985年の現代に戻ってくると、「過去」でマーティが自分の父母の高校時代の事件に関わったことで「未来」(=現代のマーティの家族)に変化が起こっている。すなわち父が、学生時代の夢だったSF作家になっていたというのは原作映画どおりなんだけど、最新作「バック・トゥ・ザ・フューチャー4」を出版したばかりで「多分売れないだろう」と冗談を言うんだけど、客席から何の笑いも起こらなくて、あー、そんなものかとちょっと淋しくなりました😑

 で、そこに、ドクがデロリアンに乗って現れマーティを誘って未来へ向かうんだけど、向かう先は「2026年1月8日の午後1時30分」=私が観劇した日と開演時間です。つまり、過去からマーティとドクがここに現れてミュージカルが始まる=現実と舞台とのボーダーが無くなるという、上手い作り。そして、2人を乗せたデロリアンが空中に浮かんで客席上空まで飛んできて、上空で上下一回転した後Uターンして舞台奥に飛んでいくところで、幕。見事な幕切れでしたー🎊 役者さんたちの演技と歌と踊りは言わずもがなで、クセのないちょっと優等生っぽいところが劇団四季らしいかな。

 

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