ダイヤと学ぶフランス史~ナポレオンの飛躍~ | あき@旅するトリコニコ会

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共和暦2年テルミドール9日(1794年7月27日)、反ロベスピエール派の一味がクーデターを敢行。クーデターは成功しロベスピエールらをギロチン台に送りました。彼らは月名にちなみテルミドール派とよばれました。

テルミドール派の中心人物はポール・バラス(1755~1829)、ジャン=ランベール・タリアン(1762~1830)、ジョゼフ・フーシェ(1759~1820)らでナポレオンもバラスの配下としてクーデターに関わりました。政府は5人の総裁によって運営されることになりました(総裁政府)。


1795年、ジャコバン憲法を修正した1795年憲法を発布。二院制(500人院・下院と元老院・上院)、信教の自由、報道の自由、職業選択の自由がうたわれました。ただ男子普通選挙は廃止され一定の納税をしている者にのみ選挙権を与える制限選挙となりました。

1795年10月5日、王党派がパリで暴動を起こしました(ヴァンデミエールの反乱)。国内軍司令官は前述のバラスが務めていましたが反乱鎮圧の困難を悟った彼はかつてクーデターに協力したナポレオンを副将に任命。ナポレオンは広場に集う暴徒に対し大砲を持ってきて散弾を彼らに撃ち込むという前代未聞の方法で暴動を鎮圧させました。ナポレオンはこの功によりイタリア方面軍司令官に任命されました。


1796年3月2日、27歳のナポレオンは新妻ジョゼフィーヌをパリに残しイタリア方面軍に赴任。ですが配下の将軍達はコルシカ訛りのひどい成り上がり者を快く思っておらず兵士達の軍服はボロボロで靴を履いていない者もいたといわれます。ですがナポレオンはイタリアを支配するオーストリアと戦い連戦連勝。翌年にはオーストリアの首都ウィーンに迫りました。オーストリア宮廷は敗北を認めカンポ・フォルミオ条約を締結。ナポレオンは北部イタリアを獲得しフランスの衛星国家としました。

ナポレオンがなぜ勝てたのか?それはナポレオンの先進的な軍事思想(ナポレオンの戦法はスピードによる速攻)がオーストリアの将軍に付いていけなかったのと兵士の軍服はボロボロでも士気が高かったからだと思います。彼らは愛国心が強く革命を輸出しようと意気盛んでまだまだ傭兵を主力とした他国軍を圧倒できたのです。

フランスに凱旋したナポレオンは英国とインドを分断すべく1798年5月19日、エジプトに遠征を開始。途中マルタ騎士団を降伏に追い込んだナポレオンはネルソン率いる英国艦隊をかわしオスマン帝国統治下のエジプトに上陸(その後エジプトでフランス艦隊を捕捉したネルソンはアブゥキール海戦でフランス艦隊を壊滅に追い込んだ)。フランス軍はエジプトを牛耳るマムルークを撃破しエジプトを掌握。しかしエジプトの民衆は容易には従わずエジプトの次に標的にしたシリアで英国の支援をうけたオスマン帝国軍に大苦戦した末に撤退。このままではナポレオンもエジプトの大地に散るかと思われましたが本国がオーストリアなどの攻勢をうけ(第二次対仏大同盟)総裁政府は大バッシングをうけていました。これを知ったナポレオンは単身フランスに帰還。パリに舞い戻ったナポレオンはブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)を起こし総裁政府を打倒しました。