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ブルボン王朝末期、フランスでは特権階級である聖職者と貴族が国内の富のほとんどを搾取していました。そして宮廷でもルイ14世以来の対外戦争により財政が悪化。国王ルイ16世(1754~93)は経済学者ジャック・テュルゴー(1727~81)や銀行家ジャック・ネッケル(1732~1804)を登用し改革を試みるも特権階級に課税することができず改革は頓挫しました。1789年5月5日、ルイは約170年振りに三部会を召集し状況を打開しようとはかるもやはり特権階級への課税をめぐって第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)と第三身分(市民)が対立。その後市民達と一部の特権階級が合流し国民議会を組織しました。7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃したのをきっかけにフランス革命が勃発。国民議会は封建的特権の廃止をはじめとし人権宣言の採択、教会財産の国有化、国王家族のパリ移送を押し進めました
1791年6月20日、国王ルイ16世一家が突如パリを脱出。王妃マリー・アントワネット(1755~93)の実家オーストリア公国へ亡命しようとする事件が発生。逃亡を知った議会はすぐ追手を差し向けました。ただこの逃亡計画は杜撰なもので追手はオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)との国境付近の町ヴァレンヌで追い付き国王一家をパリに連れ戻しました。革命が起こっても市民は国王に対する敬意を持っていました。しかしこの事件が知られると市民は失望を持って国王らを見つめていました。
9月3日、国民主権・制限選挙・一院制などを謳った1791年憲法を制定。その1ヶ月後の10月1日、国民議会が解散し立法議会が召集されました。
1792年3月23日、穏健的共和政派のジロンド派内閣が成立。しかしルイが拒否権を乱発(これは憲法に盛り込まれた正当な権利)したことで政治が停滞。次いでオーストリアとの戦争に訴えますが士官のほとんどだった貴族階級の亡命の続出により軍が弱体化。さらに以前からの財政問題も解決できませんでした。
8月10日、パリ市民と民兵がルイのいる宮殿を襲撃。彼らは国王近衛兵やスイス傭兵を虐殺し国王一家をタンプル塔に幽閉しました。これを見た議会は王権の停止及び国民公会の召集を決定。9月21日に国民公会が開催されまず王政の廃止、共和政国家を宣言。そして1793年1月21日、ルイ16世(この頃には国王の権威などなくただ「ルイ・カペー」とよばれていた)をギロチンで処刑。これによりブルボン王朝は一時的に断絶しました
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