ダイヤと学ぶフランス史~ルイ16世の時代(後編・逃亡そして処刑) | あき@旅するトリコニコ会

あき@旅するトリコニコ会

良かったら見ていってください(^-^)

旅行と歴史が趣味です。ねそべりのにこと善子を連れて色々な所を旅する会、旅するよしにこ会主宰。

他には野球観戦(ベイスターズ推し)、2.5次元ラブライバー、ミルキアン(そらまる推し)です。


1789年10月、パリの民衆による十月行進で国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に移されました。自らの権力や立場が日に日に脅かされる中ですがルイは国王たるもの他の貴族達と同じように国外に逃れるべきではないと思っていました。国民議会で英国のような立憲王政を主張していたミラボーもかつての百年戦争でパリを奪われオルレアンに逃れたフィリップ7世のように地方に割拠しまだ革命の火が及んでいない所から統治すべきと考えていましたがルイは聞く耳を持ちませんでした。しかしミラボーと共に信頼していたラファイエット(ミラボーにとっては政敵でもあった)が背信行為をしてくるに及びルイもパリ脱出を決意しました。

1791年4月2日、ミラボーが急死。純粋な共和派ではない彼の死によって身の危険をますます感じたルイはパリ脱出計画を本格的に進めました。ルイはどこに亡命するか?選択肢としては英国、オーストリア、スペイン、オーストリア領ネーデルラント、イタリアがありました。英国は船を調達するのが困難、スペインは同族が国王ですが距離が遠い、イタリアも距離が遠い。なのでルイが選んだのは王妃マリー・アントワネットの実家オーストリアです。彼女自身もオーストリアに逃れるべきと主張しており兄レオポルト2世もなんとかしてくれるというメリットもありました。

脱出計画は王妃の愛人ともいわれていたスウェーデン貴族アクセル・フォン・フェルセン(彼はパリ脱出まで国王一家が乗る馬車の御者を務めた)が立てました。しかしこの計画は杜撰で決行の延期のうえに逃げるにも関わらずデカい馬車に大荷物というとても命懸けの脱出作戦とはいえませんでした。
それでも1791年6月20日深夜、国王一家はパリを脱出。フランスーオーストリア国境を目指しました。翌朝、侍女が国王一家の逃亡を知り通報。それを知ったラファイエットはパリに戒厳令を敷き捜索隊を組織しました。6月22日、捜索隊は国境近くにあるヴァレンヌという町で追い付きパリに強制送還となりました(ヴァレンヌ逃亡事件)。
パリに連れ戻された国王一家が見たものは軽蔑しきった市民の目でした。革命が起こっても市民はまだ国王に対する敬意の気持ちは持っていました。ですがこの一件により国王はオーストリア軍を引き入れ革命を潰すつもりだったんだと考え失望の気持ちとなりました。

反革命派との戦争が始まる中、1792年8月10日、パリ市民と義勇兵が国王一家がいるテュイルリー宮殿を襲撃しタンプル塔に幽閉(これはオーストリアのレオポルト2世とプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世によるピルニッツ宣言も影響している)。ルイは王権を停止され一介の罪人に転落。家族に会うことも許されず裁判の結果死刑となり1793年1月21日、ルイはギロチンにより処刑されました。斬首は処刑人の技量にとても依存する(日本だと介錯として罪人の首を斬るがこの役を務めるのは剣の腕が立つ者だった。そのような者が家中にいないとよその家中から連れてきてやらせている。介錯の不手際はその家中の名誉に関わった)ため罪人の苦痛を和らげる目的でジョゼフ・ギヨタン博士がギロチンを使うよう提案(ギロチンのような機械は13世紀ごろから存在しておりそれを改良したもの。なおその改良に関わったのはのちにそれで処刑されるルイ16世。ギロチンの由来はギヨティーヌ(ギヨタンの子供、の意)、その英語「ギロティーン」が訛ったもの)し革命中多くの人がこれで処刑されました(それ以後も使われ最後に使われたのが1977年)。
処刑当日は革命広場(現在のコンコルド広場)に2万人の市民が集まる中行われましたが彼の死を涙する者は誰1人いませんでした。彼の遺体は集団墓地に葬られナポレオン戦争後の王政復古の後弟のルイ18世により遺体が掘り起こされ1815年1月21日、歴代国王が眠るサン=ドニ大聖堂に同じく処刑されたマリー・アントワネット(1793年10月16日処刑)、息子ルイ17世(ルイ夫妻処刑後もタンプル塔に幽閉され続け1795年6月8日病死)と共に改葬されました。