ダイヤと学ぶお家騒動~野村騒動~ | あき@旅するトリコニコ会

あき@旅するトリコニコ会

良かったら見ていってください(^-^)

旅行と歴史が趣味です。ねそべりのにこと善子を連れて色々な所を旅する会、旅するよしにこ会主宰。

他には野球観戦(ベイスターズ推し)、2.5次元ラブライバー、ミルキアン(そらまる推し)です。


伊勢桑名藩(現在の三重県桑名市)は徳川四天王の1人、本多忠勝が初代の藩主です。桑名は港町で交易の要衝として昔から発展していました。
元和3年(1617)、忠勝の子忠政は西国の要衝播磨姫路に転封。山城伏見藩主・松平定勝が後任となりました。寛永12年(1635)、2代藩主定行は伊予松山に転封。弟で美濃大垣藩主の定綱が入りました。

5代(定勝から始まって)藩主の定重の時代、桑名藩では相次いで水害や火災に悩まされており天和元年(1681)の洪水では被害が深刻で藩士の解雇や残った藩士も減俸せざるを得ず、元禄元年(1701)の火災では居城桑名城が被災し天守閣が焼失しました。
この様な中、藩士だけでなく農民も苦しんでおり宝永4年(1707)には桑名城下に押し掛けて窮状を訴えるほど深刻な状態となりました。定重はこれを打開すべく野村増右衛門という男を登用しました。増右衛門は藩士だが低い身分の出身でしたが定重は普段の仕事ぶりを評価し抜擢しました。増右衛門はそれに応え城下町の再建や農地開発、河川の修復に取り組みみるみる地位を上げていき藩政も牛耳るほどになりました。
宝永7年(1710)、増右衛門は資金調達のため江戸に出張。しかしその留守中藩内では定重に野村は公金を横領しそれで贅沢な暮らしをしている、農民を搾取しているなどの訴えが届きました。これは政治から排除された家老達の仕返しという側面もありそれを信じた定重は増右衛門を逮捕。増右衛門は讒言をほとんど論破するも会計上のささいな問題を間違え、揚げ足を取るとばかりにそれを理由に増右衛門は逮捕から4日後に斬首、そればかりか一族も死罪、関係者も処罰されるなど総勢370人も及んだとされています(野村騒動)。増右衛門と親しいからという理由だけで処罰されるなど理由からしてみればあまりに厳しく苛烈なものでした。

この粛清事件はたちまち幕府の耳に入り査察が入りました。幕府は定重にこの事件は天下安寧に悪影響を与えるとし越後高田(現在の新潟県上越市)に転封を命じられました。石高は変わらないが交易の収入を取り上げられ内陸の高田に移されたのは実質減収であり左遷でした(高田藩は越後騒動以来懲罰的な任地と見られていた)。
文政6年(1823)、定重の子孫である陸奥白河藩主・松平定永(父は寛政の改革を主導した松平定信)が故郷桑名藩主に就任。定永は野村騒動で犠牲となった増右衛門ら一族の名誉を回復。増右衛門の死から113年後のことでした。
以後明治維新まで(久松)松平家が桑名藩主として存続。幕末の動乱では京都所司代(京都の治安を担当)を務めた松平定敬が有名です。兄は会津藩主で京都守護職を務めた松平容保で定敬は旧幕府軍の一員として箱館戦争まで戦い抜きました。