ダイヤと学ぶお家騒動~稲生の戦い~ | あき@旅するトリコニコ会

あき@旅するトリコニコ会

良かったら見ていってください(^-^)

旅行と歴史が趣味です。ねそべりのにこと善子を連れて色々な所を旅する会、旅するよしにこ会主宰。

他には野球観戦(ベイスターズ推し)、2.5次元ラブライバー、ミルキアン(そらまる推し)です。


戦国の覇王にして本能寺の変で非業の死を遂げてしまった織田信長。ですが信長登場までの織田家は尾張の守護代の分家という弱小豪族でした。
織田家(「おだ」ではなく「おた」と読んでいた説がある)の故郷は越前国織田荘(現在の福井県越前町)にある織田剣神社の神官だったといわれています。室町時代に越前守護となった斯波家の配下に組み込まれ兼任していた尾張国の守護代に任命されると一族挙げて移住しました。織田家はいくつかの流派に分かれますが信長はその中の弾正忠家に属し父信秀の代に貿易港の津島(現在の愛知県津島市)を掌握し莫大な利益を上げ本家をも凌ぐ力をつけ北では美濃の斎藤道三(和睦条件として濃姫を信長と結婚させた)や東では三河の松平家やその背後にいた駿河の今川義元と戦いました。
しかし天文20年(1551)に信秀は急死。嫡男の信長が家督を継承しました。信長は尾張下四郡の守護代の信友を滅ぼし那古屋城(のちの名古屋城)から清洲城に移転。しかし彼はうつけ者(バカ者、愚か者)の評判で守役の平手政秀が切腹した(抗議の意味をこめた諫死とされる)事件が起こると家臣達は信長様より弟の信勝(信行とされるが誤り)様の方がいいんじゃね?と考えるようになり周辺でも前回触れた長良川の戦いで舅の斎藤道三が戦死。鳴海城(現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町にあった城)を守将・山口教継が今川方に離反、本家も斎藤義龍と手を組み信長はピンチに陥りました。

家老の林秀貞(通勝)と通具(みちとも)兄弟と信勝家臣の柴田勝家は信勝擁立に動き居城末森城(現在の名古屋市千種区城山町にあった城)周辺に砦を築くなど対抗姿勢を見せると信長は家臣の佐久間盛重(桶狭間の戦いでは丸根砦を守るも松平元康(徳川家康)の攻撃をうけ戦死)に名塚(現在の名古屋市西区名塚町)に砦を築くよう指示。
弘治2年(1556)、築城が終わると信長は700の兵を率い出陣。林・柴田が率いる兵1700と稲生(現在の名古屋市西区稲生町)の地で対峙。緒戦は猛将柴田勝家隊の攻撃で佐々孫介(佐々成政の兄)が戦死するなど苦戦するが織田信房(織田姓を名乗っているが織田一族ではなく賜姓)や森可成(森蘭丸、「鬼武蔵」長可の父。元亀元年(1570)、近江宇佐山城攻防戦で浅井・朝倉軍と戦い戦死)の奮戦と信長の一喝に驚いた柴田軍は敗走。次いで林軍に攻めかかると信長自ら奮戦し林軍も敗走し通具が戦死。稲生の戦いは信長軍の勝利に終わりました。

信勝は母の土田御前(信長と信勝は同母兄弟)の嘆願もあり信長は許し秀貞、勝家も謝罪してきたので信長は彼らも許してあげました(秀貞は天正8年(1580)に佐久間信盛と共に追放となるがその理由の1つにこの離反をあげている。信長がよほど根に持っていたのか)。なお信勝はまた謀反を企みますがそれを知った勝家の通報により信勝は病を装った信長の策略により清洲城で殺されました。
その後信長は尾張国統一を果たし桶狭間の戦いでは強敵今川義元を討つ大金星を挙げるとみるみる勢力を拡大。畿内を制圧し元亀4年(1573)に将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼし天下統一まであと一歩としますが天正10年(1582)、本能寺の変で重臣明智光秀の謀反に遭い戦死しました。
織田家は秀吉・家康の台頭により没落するも次男・信雄、弟の長益(有楽斎)の子孫が小藩ながら血脈をつなぎました(他の一族も旗本や改易されるも大名だった者もいた)。