ダイヤと学ぶフランス史~フランソワ1世の時代~ | あき@旅するトリコニコ会

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1515年、ルイ12世が崩御。ルイには男子がいなかったため甥のフランソワが国王に即位しました。即位するとフランソワはイタリアに出兵。同年マリニャーノの戦いで神聖同盟側に与したスイス傭兵隊を粉砕し教皇レオ10世と和平を結びました(詳細は「ダイヤと学ぶイタリア史~カンブレー同盟戦争(後編・補足)~」を参照。)。なおこの時に「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチと出会い、彼をフランスに迎え入れ賓客として遇しました。フランスでダ・ヴィンチは亡くなるまで生活しました。

1519年、隣国神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が崩御し孫にあたるスペイン国王カルロス1世が皇帝になりました(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)。これにより東西をハプスブルク家に支配されるというフランスにとっては望ましくない結果となりました。1520年末、フランソワは神聖ローマ帝国を攻撃すべく軍を動かしますがカールと同盟を結んでいるイングランド国王が神聖ローマ帝国を攻撃するならウチはフランス攻撃するよ?と脅していたことでなかなか開戦に踏み切れませんでした。

一方のカール5世でしたが国内で巻き起こっていたルターによる宗教改革の問題で手一杯でしたが同じく槍玉に上げられていた教皇と接近し両者は同盟を締結。教皇はルターを破門とし追い打ちとしてカールはルターを帝国から追放としました(ルターは支持者のザクセン選帝侯フリードリヒ3世のもとに匿われ、そこで聖書のドイツ語訳を行っている)。

 

1521年6月、皇帝軍はフランスに侵攻し第三次イタリア戦争が勃発。この攻撃はフランス軍によって撃退し10月、ヴァランシエンヌで国王軍と皇帝軍が対峙。戦闘が行われ不利と判断しカールは撤退を開始。それを見たフランス軍指揮官ブルボン公シャルル3世はフランソワに追撃しようと進言しますが謀略かもしれないと思ったフランソワは攻撃を躊躇。やっと追撃を命じた時には大雨が降りはじめており火砲が使用できなくなり皇帝軍の撤退を完了させてしまいました。11月、教皇とイングランドはカール側に立ち参戦。支援をうけた皇帝軍はミラノを攻撃。太守ロートレック伯爵率いる守備隊はミラノから脱出。ロートレック伯は1522年4月、ビゴッカの戦いに敗れたことでフランスはロンバルディアから追い出されました。

7月にはイングランド軍が大陸に上陸しフランス北西部を荒らしまわりましたが主力はイタリア戦線に回していたことと軍資金不足で有効な反撃ができません。焦ったフランソワはブルボン公の所領を没収するという暴挙を働くと激怒したシャルルはフランソワを見限りカールに接近しました。1523年、ヴェネツィア共和国の元首アントニオ・グリマーニが没しアンドレア・グリッティが新元首に就任。グリッティはカールと講和しヴェネツィア共和国は戦争から脱落しフランスの同盟国はいなくなりました。東と南からは神聖ローマ帝国、北はイングランド王国、西はスペイン王国からの攻撃をうけるという四面楚歌の状態に追い込まれたフランスでしたがフランソワはまだ諦めていませんでした。1524年10月、自ら率いる4万の兵を率いロンバルディアに侵入。ジェノヴァでスペイン軍を降伏に追い込みレオ10世に代わり教皇となったクレメンス7世と極秘裏に和平条約を結び戦争から脱落させました。1525年2月、国王軍は帝国軍守備隊がいたパヴィアを包囲。守備隊は頑強に抵抗したためフランス軍は兵糧攻めに変更。そこに帝国軍の後詰部隊が到来しフランス軍陣地を奇襲攻撃、守備隊も討って出たことでフランス軍は総崩れとなり1万の損害を出し敗走。フランソワも捕虜となってしまう大敗でした(このパヴィアの戦いは騎士(騎兵)の時代の終焉であり火砲が戦場の主役となる時代となった戦いでもある)

 

国王が捕虜となったフランスでは摂政ルイーズ・ド・サヴォィア(フランソワの母親)が態勢を立て直させイングランドをアルトワで撃退。皇帝軍の攻撃を少しでも緩めようとオスマン帝国に使者を派遣。スルタンのスレイマン1世は色好い返事を送っておりスレイマンはカールにフランソワを解放しなければ神聖ローマ帝国を攻撃するぞと脅迫。カールはこれに屈しなかったためスレイマンは大軍を首都ウィーンに派遣し第一次ウィーン包囲が始まることになります。

フランソワはスペインで捕虜生活を送っていましたが1526年1月、マドリードでカルロス(カール)との間に講和条約が締結。フランソワはロンバルディア、フランドル、アルトワに対する権利を放棄・ブルゴーニュを神聖ローマ帝国に割譲、2人の息子を人質としてスペインに送る、ブルボン公に没収した土地を返すことを取り決めたものでした。これによりフランソワは解放されフランスに帰還。ですがフランソワはこんな条約を守る気はさらさら無く帝国の拡大を恐れる教皇と同盟しコニャック同盟戦争を起こしました。再びイタリアを舞台にヨーロッパ諸国が参加する戦争が起こります(1527年5月、皇帝軍の傭兵隊がローマを略奪したことでローマは壊滅。フィレンツェからローマに移ったルネサンス時代の終焉につながりその文化はヨーロッパ諸国に波及した)が1530年、戦争は再びカールの勝利に終わりました。戦争で勝てないと悟ったフランソワは帝国内部に巣食うプロテスタントを支援したり「敵の敵は味方」としてオスマン帝国と友好関係を築くなど終始打倒カール5世で動いていましたがそれは果たせず1547年に53歳で崩御しました。

なおフランソワは「アメリカ」の由来となるアメリゴ・ヴェスプッチの航海の援助を行ったりジャック・カルティエ(「カナダ」の命名者)を北米探検を行わせフランス領カナダ(現在のケベック州)の基礎を築いた君主でもありました。