ダイヤと学ぶ~叙任権闘争~ | あき@旅するトリコニコ会

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今日9月23日は1122年、ヴォルムス協約を締結した日です。なので今回はこの協約の背景にある叙任権闘争についておはなしします。

キリスト教成立以来、各地に教会や修道院が建設され392年のローマ皇帝テオドシウス1世のキリスト教国教化によりさらに増えていきます。ですが西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパでは設立された教会の聖職者や修道院長を決める権利(これを(聖職)叙任権といいます)はローマ教皇や司教ではなくそこを支配する領主が握っていました。当時のローマ教皇には在地の聖職者を選任する権力はまだありませんでした。

フランク王国崩壊後に生まれた神聖ローマ帝国では皇帝が司教の任命権を手に入れることにより彼らの互選で選ばれる教皇選挙にも影響を及ぼしていました。ですが皇帝の任命という形式は国内で聖職売買や聖職者の堕落という副産物を産むことになり(これはのちの宗教改革でも同じ経緯)ました。教会側としても俗権からの影響を受けないクリュニー修道院やシトー修道院の設立、レオ9世やグレゴリウス7世のような力のある教皇の出現により俗権と対抗できるようになりました。

1076年、教皇グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門としました。当時の破門は社会的死のようなもので大変な罰則でした。皇帝は破門宣告により配下の諸侯が言うことを聞かなくなることを恐れカノッサにいた教皇に直接謝罪に出向く事態となり(カノッサの屈辱)ました(教皇は皇帝を許したものの報復なのか軍勢を差し向けて教皇をローマから追い出した上に対立教皇まで擁立した。グレゴリウス7世はローマに戻れず逃亡先のサレルノで客死した)。

ハインリヒ4世の死後、この叙任権闘争の決着とすべく教皇側と交渉の末、1122年に皇帝ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世の間でヴォルムス協約が締結され聖職者の叙任権は教皇、世俗の権威は皇帝に与えるとし叙任権闘争は一応決着しました(一応、としたのはこの後教皇権が俗権を脅かすようになりこれを打破したのは1303年に起こったアナーニ事件でした)。