穏やかに死ぬために | 看取り看護師めぐ〜死ぬとは最期まで生きること

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こんな記事を見つけました。
『日本はなぜこれほどまでに「病院死」比率が高いのか(ダイヤモンド)』



一部抜粋しながら、私の解釈を入れていきます。




『老衰による細胞劣化が全身で進行していても、高齢者は病名を求め、薬を欲しがる。これまでの医療のメカニズムに、高齢者と医療側がたやすく乗ってしもまう。老衰を「古いもの」「役に立たたないもの」として認めたがらない。新しいモノが「豊かさ」を生み、それを一心に追い求めてきた。老衰を嫌うのはその弊害であるが、自身は気付かない。』

→なにかわからない症状は、怖いから病名を求める、薬を欲しがるというのは良くあります。飲んだ薬の副作用を止める薬をまた出し、芋づる式に薬が増えていったり・・・
ただ医療側も病名をつけないと薬を出せないという保険の関係もあり、ひとりの患者さんにえ、ホントに?っていうくらいたくさんの病名がついています(笑)(いや、笑えないか・・・・)




『患者の刻印を押されれば、手術や薬で手を打ち、また元の状態に戻ることができると願う。その「錯覚」に手を貸す医療側の責任は当然問われる。』

→あきらかに必要ないと思われても、患者さんが求めれば検査や治療を施すこともあります。医者が自分で説明しておいて、「なんであっちを選ぶかな~」なんていうことも。説明の仕方にもよると思うのですが、「助かりたい」「死にたくない」と思っている患者さんには、治療をしないという選択は選べないのはたしかです。





『「死は苦しいもの」という世間の誤解を解くのは医療者の責務でもある。実は、終末期になると脳内麻薬と言われるβエンドルフィンと血中のケトン体が分泌されて、極めて楽な状態で生を閉じることができるのは医療界の常識。
 自然の摂理はうまくできている。枯れるような死である。人工栄養などの延命治療を施すとその放出が止まり、苦しみを味わうことになる。』


→ここまで言い切っていいものかは疑問ですけど(笑)
たしかに死ぬときは痛くありません。
そこに至るまでは、痛みを伴うこともありますが、今は緩和ケアが充実していますので、ほとんどの痛みは緩和できると思われます。ただし、緩和ケア医がいないとうまくいきません。たとえば、急性期の病床で麻薬を使う場合、副作用を恐れて麻薬100mg使うのにもびくびくしていますが、緩和ケア病棟では痛みがとれるまで使うので、その10倍以上を使うこともしばしば。急性期はあやまった誤解から副作用で死なない程度に麻薬を使おうとして、緩和ケア医は死よりも痛くない状態で過ごすことを優先します。




『 栄養補給の胃瘻などの延命治療を「高度な医療技術」としてきた医療者たちではあるが、見直し機運も実は高まりつつある。日本老年医学会が2012年1月に「高度医療の投入は必ずしも最善の選択肢ではない」と、胃瘻の中止を容認したのが好例だ。』

→胃ろうの中止をしたら、経鼻胃管チューブが増えて、患者さんはより苦痛を味わうようになってしまいました。根本から意識改革しないとだめですね。穏やかに死ぬには、博識であるか、もしくはまったく医療に頼らないか。




『最期の段階を迎えた時に、本人は「家族に任せる」と言い淀み、振られた家族は「専門的なことは分からないからお医者さんにお任せします」となる。医師は回復の見込みがなくても、医療を続けることしか教育されていないから、当然、延命措置に走る。』

→「お任せします」 = 延命治療





『 もし、本人が「十分に生きた。治療を止めてほしい」と事前に周囲に話していても、その時に意思疎通ができなければ、家族が正反対の方向に動くこともある。「親の死を自分が決めたくない」という心情からだ。本人よりも、家族の心が優先されてしまう。』


→家族にちゃんと話しておく。できれば書面でがいいですね。






穏やかに死ぬためには、医療者だけががんばっても、患者だけががんばってもだめ。
双方の良好なコミュニケーションが必要です。
でもまずは、自分がどうしたいか、どう生きたいかをしっかり見つめ直してみることをお勧めします。





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