理想的な死は、合意や妥協で作り上げていくものなのかも | 看取り看護師めぐ〜死ぬとは最期まで生きること

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誰にとっても100点満点な理想的な死に方なんてあると思いますか?

「あなたにとって理想的な死に方はどんなものですか?」

この質問をするとたいがい「ぴんぴんころりがいい」とか「ぽっくり逝きたい」といった答えが返ってきます。
要するに、苦しまず、家族に迷惑をかけず、スムーズかつ安楽に死にたいということでしょうか。


この気持ち、すっごくよくわかります。
私も最後は苦しみたくなどありません。


でも、遺される側の視点に立った時、こうした死に方は理想的だと言えるでしょうか?



例えば、年齢は40歳の男性、商社に勤める働き盛り、奥さんと小学3生生の女の子と保育園に通う男の子がいます。朝起きてこないので、奥さんが部屋に行くと、男性は息をしておらず、冷たくなっていました。死因は心筋梗塞でした。


たしかに死に方はぽっくりですが、この状況で遺された奥さん、または夫の立場であってもこの死を理想的であると思えるでしょうか?


昨日まで医者いらずで、すこぶる元気に生活していた親やパートナーが、ある日突然亡くなってしまったら、亡くなった人は苦しまなかったと頭ではわかっていてもきっと納得がいかないのではないでしょうか。



誰の視点で理想的な死を考えるのかで、その中身は変わってくるのです。
死にゆく者にとっての理想的な死、遺される家族の理想的な死は必ずしも同じではありません。


また家族間、家族と医療者との間でも理想的な死は変わってきます。



このように考えると、死に直面するすべての関係者にとって、「理想的な死」というのを実現するのはかなり難しいといえます。


死にゆくもの、家族、医療者、介護職、それぞれが考える良い死を念頭に関わり合いを続け、交渉しあい、合意や妥協点を模索していく必要があります。


いいかえれば、理想的な死とは、お互いのかかわりあいという共同作業の過程のなかで積み上げられていくものなのかもしれません。