その頃、KとTは大学の体育館で次の大会に向けて、体操競技の練習を行っていた。来る日も来る日も練習の毎日だ。顧問監督のDとともに、最高の演技を追求していく。以前の大会の優勝で気をよくしたKは完全に波に乗っていた。Tは「どうやらスランプを乗り越えた」と確信した。今や恋人となった美大生のHと引き合わせて良かったと思えた。
D:「今や日本の強みとなった『ゆか』。旋回や倒立などはタンブリングとはまた違った練習が必要になる。旋回は円馬などで体の使い方を確認しながら、倒立は壁倒立などでまっすぐな姿勢を意識しながら、それぞれ練習してみよう。これらの練習はゆかだけでなく、あん馬や鉄棒にもつながる基礎能力を向上させてくれる」
そう言って、次々とゆかの試技をしていくKがいた。この時、Kは完全にこの前の大会の個人総合の優勝で乗っていた。だが、アスリートにとって、こういう時が一番怖い。油断大敵。心に隙があってはならない。
K(V.O.):「繊細さと力強さが共存する『あん馬』。移動の練習では、移動することにとらわれて旋回の質が下がらないように気をつけよう。まずは大きく移動するのではなく、手を前や後ろに少しずつずらしていくようにして取り組んでみよう」
D:「また交差の練習では、単にあん馬をまたぐ動きにならないよう、脚を高く振り上げることを意識しよう」
あん馬の練習もそつなくこなすK。順調に来ている。苦しい練習と、それが成果となって現れたことで、Kには余裕すら漂っていた。まさに王者の風格。
K(V.O.):「伝統的に日本の得意種目『平行棒』」
T:「慣れないうちは、マットを平行棒の高さまで積んで、低い位置で練習してみよう。アニキはそれができているな」
D:「例えばひねり倒立の練習などは、はじめは平行棒の間にマットを積んでその上でやってみるといいだろう。終末技の宙返りの練習でも、平行棒の片側にマットを積み、その上に背落ちする練習などを行い、宙返りに入る姿勢を身に着けよう」
平行棒は若干苦手種目だが、その弱点強化に取り組んできた。
T:「体操競技はロシアや中国が伝統的に強国だよ」
K:「分かってるさ。どちらも手強い」
そう言うと、Kは平行棒の練習を一時中断して、脇に来て、水分補給のためにスポーツドリンクを口にする。ふっと緊張感が解け、精神が弛緩する。緊張と弛緩が交互に訪れ、程よい状態で仕上がっていた。ますます登り調子になるK。
だが、そんなKを警戒している顧問監督のD。なかなか口に出せないが、油断は禁物だった。
D:「Kよ。油断は禁物だぞ」
K:「分かってますよ。次の大会こそ、本命だってこと」
D:「その浮ついた心が命取りにならないとも限らないぞ」
K:「分かってますって」
Kは口ではそう言うものの、心は完全に上の空だった。どこに死角があるか分からないスポーツの世界。魔物が潜んでいるかもしれない危険な状態であると知ったのはその直後のことだった。