→Edit→Tの自分についてこいというジェスチャー
福井県の兄弟であるKとTは約束通り、余暇を見つけて、個展を開いている美大生のもとに来ていた。個展に参加する前、弟のTは機嫌よく、兄のKはどこか落ち着かない様子を見せていた。
弟のTに導かれて、兄のKは個展会場に足を運ぶ。個展会場の入り口でチケットを購入し、中に入った。中には油絵の作品が所狭しと掛けられていて、それを見ただけで完成度の高さが窺い知れる。
作品を次々と鑑賞していき、中盤ぐらいの壁にひときわ大きな作品が掛けられていたところで、Tは足を止め、「あれがこの個展の主催者であるH」と言った。背中越しから見るHは女性的で、芸術家風の服装を身にまとっている。兄のKは久しぶりに男としての感性が羽ばたいた。Hは鑑賞者のお客さまを知識でもてなしている。その油絵のことを説明している。
H:「人は紙と鉛筆があれば、すぐにでも絵を描くことができます。自分の描きたいものを好きなように描いてよいのです。しかし、いざ描き始めようとしても、描きたい気持ちはあるのに何を描いていいのかわからないとか、対象を前にしても肝心の手が動かない、描いたとしても思うように形にならないなど、誰でも最初は躊躇してしまうものです。これもその一つでした」
そして、KとTはHに近づき、Hの説明が一通り終わったところで、声をかける。
T:「Hさん」
その声を聞いて、Hが振り返ると、その容姿を見た兄のKは一瞬ドキッとした。自分の好みの女性だったからだ。
T:「アニキ。こちらが美大生のHさん」
H:「はじめまして。Hです。よろしく」
それを受けて、兄のKは言葉が出てこず、体も硬直していた。
T:「アニキ」
K:「ああ、僕は大学生のK。体操部に所属している」
その後は何だか会話がなかなか成り立たず、重たい沈黙があったが、それを弟のTが滑らかに取り持った。弟のTはもう兄のKの気持ちや想いが分かっていて、ここは始めの仲立ちだけ取り持った後は、後は兄とHを二人きりにさせようと思っていた。
T:「アニキは美術に関する知識はそれほどないですけど、どうしても絵画鑑賞がしたくて…。それで、今日Hさんの作品を。でも、趣味は俺に似て、美術館巡り」
H:「そうなんだ」
T:「アニキ。ミケランジェロは知っているだろ?」
兄のKは緊張気味に軽く咳ばらいをした後、おもむろに言葉を紡いだ。
K:「ミケランジェロはイタリアのルネサンス期の芸術家。ギルランダイオに絵を学び、ドナテッロらの感化を受けて彫刻に入神の技を示した」
H:「あら、よく知っているわね。代表作は『ピエタ』、『モーセ』、『ダヴィデ』、『奴隷』などの大理石像、絵画ではローマのシスティナ礼拝堂の『最後の審判』などの装飾壁画。晩年はローマのサンピエトロ大聖堂のドームなどを設計」
K:「ええ、俺も知っている。また、人生の苦しみと不正への憤りを詩や書簡に書き残した」
それを聞いた HはこのKは自分を遜らせ、謙遜していることを知った。それだけで初対面のつかみを上々だ。無論、そこですでにHはKが大きな器量のある、美術の知識を持っていることも察知した。
H:「じゃ、ゴーギャンやルノワールは?」
K:「名前は聞いたことはある」
それを受けて、十分に今後の会話は弾むだろうと予感した弟のTは自分はお役御免とでも言いたげに、「それじゃ、俺は体操の練習があるから」と言って、その場から去って行った。
H:「ゴーガンは平面的な彩色、太い輪郭線、象徴主義的主題を用い、総合主義を唱えた。晩年はタヒチで描く。一方のルノワールは印象派の一人。風景よりも人物を好んで描き、人物を含む日常生活情景や肖像を華麗な色彩で描いた。『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』、『ボート遊びの昼食』などがある」
K:「そうだね。二人とも、君が将来留学するフランスの後期印象派の画家だ」
それを聞いただけで、HはKが美術の知識と自分の将来を思ってくれていることを嗅ぎ取った。だからこそ、このチャンスを逃してはならないと思い、女性ではありながら、自分から食事に誘った。それだけでも勇気がいるのだが…。そのルノワールではないが。
H:「今度一緒に昼食を?」
K:「いいよ。でも、僕ならその前に今夜あたりデートを」
それを聞いたHは手の早い男だなと思ったが、それでもいいだろうと感じ、この男を信じて、そのデートを快く引き受けた。

・『基本が身につく油絵レッスン』(ナツメ社/山中俊明 著、佐藤和栄 執筆協力)