極東のロスチャイルドと阿片戦争 その1 | mariaのブログ

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ププッと笑えるようなブログから始めましたが、政治社会問題も書き始めました。たまにパロディも書いています。


今回は阿片戦争についてご紹介します。
阿片戦争、アロー戦争、共に土星と天王星90°の時期になります。
占星術の詳細は「トランジット占星術で経済不況の時期を見る」ということで、次の次くらいにご紹介したいと思います。

今回は、一般的に知られている基本情報と、アヘン王サッスーン財閥について書かれた『中国のアヘン戦争とイギリスのユダヤ人』を翻訳してみます。

次回は2つの資料の予定です。
古銭に関する雑誌だと思うのですが、『The Shekel, vol. 41, no. 4, 2008』に極東のロスチャイルドとしてデビッドサスーンが紹介されています。
もう一つの資料は『サタンのシナゴーグ』という本です。


ウィキペディア
阿片戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
阿片戦争(アヘンせんそう、中: 第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。

イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。

なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。


イギリス商人と書かれていますが、正確にはイギリス人ではありません。
ロスチャイルドが統治するイギリス政府に代わって、独占的にアヘン貿易をしていた、デイビッド・サースーンというイラクのユダヤ人です。



Wikipedia
First Opium War
https://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War
1841年1月7日、チュンピの第二次戦闘中に東インド会社の汽船ネメシス(右の背景)が中国の戦没者を破壊する
The East India Company steamship Nemesis (right background) destroying Chinese war junks during the Second Battle of Chuenpi, 7 January 1841<br />
出典:Wikimedia Commons
File:E. Duncan(1843).jpgによると、中国の戦争中の戦利品を破壊する
東インド会社の鉄蒸気船ネメシスは、中尉W・H・ホールが指揮していた。
1841年1月7日、カリオペ、ラーン、スターリングがアンソンズベイで中国の戦没者を破壊した。
1843年5月30日
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Destroying_Chinese_war_junks,_by_E._Duncan_(1843).jpg



Wikipedia
Nemesis (1839)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nemesis_(1839)
中国人は彼女を「悪魔の船」と呼んだ。
Nemesis
出典:Wikimedia Commons
File:HEIC Nemesis.jpg
ネメシス
1844年
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HEIC_Nemesis.jpg



Wikipedia
Battle of Chuenpi(チュンピの戦い)
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Chuenpi
チュンピの最初の戦い[2]は、1839年11月3日、第一アヘン戦争の間に、中国の広東省のHumen海峡(Bogue)の入り口でイギリスと中国の船の間で戦われた海戦でした。イギリスのフリゲート艦HMS HyacinthとHMS Volageが敵対的であると認めた中国の船に発砲したとき、戦いは始まった。



Wikipedia
Second Battle of Chuenpi(第二次チュンピの戦い)
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Battle_of_Chuenpi
チュンピの第二次戦闘[a]は、広東省の珠江デルタでイギリス軍と中国軍の間で行われた。1841年1月7日、第一次アヘン戦争中の中国。




Wikipedia
East India Company(東インド会社)
https://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company

(中略)

当初はムガルインドと東インド諸島(海南東南アジア)と、そして後に清中国と、インド洋地域で貿易するために結成されました。
同社は、インド亜大陸の大部分を支配し、東南アジアの一部を植民地化し、清中国との戦争の後に香港を植民地化した。

(中略)

起源
1588年にスペインのアルマダが敗北した直後、捕獲されたスペインとポルトガルの船が貨物を積んでいたため、英国の航海者は富を求めて世界中を旅することができました。
ロンドン商人はエリザベス女王にインド洋への航海許可を求める請願書を提出した。
目的は極東貿易のスペインとポルトガルの独占に決定的な打撃を与えることでした。

(中略)

貿易独占
Cossimbazarの東インド会社の工場の背面図
会社の役員たちが享受した繁栄により、彼らはイギリスに戻り、広大な土地と企業を設立し、政治的権力を得ることができました。同社は英国議会にロビーを設けた。野心的な商人やインドで民間商社を設立しようとしていた元同僚(社名ではInterlopersと呼ばれていた)からの圧力を受けて、1694年に規制緩和行為が可決されました。

これにより、議会の行為によって特に禁止されている場合を除き、イギリスの会社がインドと取引することが可能になり、それによってほぼ100年間有効であった憲章が無効になります。

1698年に可決された行為により、新しい「パラレル」東インド会社(正式には東インドへの英国会社取引)が200万ポンドの州担保の補償の下で浮上した。

古い会社の強力な株主はすぐに新しい懸念で総額315,000ポンドを引き受け、そして新しい組織を支配した。 両社はしばらくの間、イギリスとインドの両方で、貿易の大部分を占めるために互いに闘っていた。

実際には、元の会社が測定可能な競争に直面することはほとんどないことがすぐに明らかになりました。

1708年、両社と州が関与する3者間の契約により、東インド諸島への新しいイギリス商人商会の合憲と契約が、Godolphinの第1代Sidney Godolphinによって授与されました。

この取り決めのもとで、合併後の会社は、今後3年間の独占特権と引き換えに、総額3,200,000ポンドの資金を財務省に貸与し、その後、状況が見直されることになっていた。 合併された会社は、東インドへのイギリスの商人の商社の統一会社となりました。

(中略)

東インド会社陸軍と海軍
1世紀半の間、EICは警備員として数百人の兵士を使用していました。大規模な拡大は1750年以降、3000人の正規兵があったときに起こりました。1763年までに、それは26,000を持っていました。1778年までに、それは67,000を持っていました。それは主にインド軍を募集し、ヨーロッパの線に沿ってそれらを訓練しました。[51]

東インド会社の軍事部隊はすぐに民間の武装勢力へと発展し、その当初の目的は警備隊としてではなく、地政学的権力と拡大の道具として使用された。このため、EICはインド亜大陸で最も強力な軍事力となりました。

(中略)

議会の行為を規制する
東インド会社法1773

1773年の規制法(後に1773年の東インド会社法として知られる)により、英国議会は一連の行政上および経済上の改革を課した。
これは明らかに議会の主権と会社に対する最終的な支配を確立しました。

同法は、同社の政治的機能を認め、「王冠の主体による主権の獲得は王冠のためであり、それ自体ではない」ことを明確に立証した。

議会の東インドのロビーと会社の株主からの強い抵抗にもかかわらず、この法律は可決しました。それは実質的な政府統制を導入し、イギリス領インドが正式に王冠の統制下にあることを可能にしたが、2年間で40,000ポンドで会社にリースバックした。

同法の最も重要な規定の下で、5人の委員で構成される統治理事会がカルカッタに設立されました。議会によって推薦され、政府の利益を代表する3人のメンバーは、常に、2人の会社のメンバーを支持します。


(中略)

1835年イギリス教育法
1835年のインド評議会によるイギリス教育法は、東インド会社からの資金をインドの教育と文学に使うために再割り当てしました。

1835年のイギリス教育法はインド評議会の立法法であり、当時イギリスの総督であったウィリアム・ベンティンク卿が1835年に東インド会社が英国の議会から要求した資金の再配分を決定しました。

インドの教育と文学について。 以前は、彼らはイスラム教徒とヒンズー教徒の教育の伝統と母国語で学んだ言語(サンスクリット語とペルシャ語)での文学の出版を支持していませんでした。

それ以降、彼らは英語を指導言語として西洋のカリキュラムを教える施設を支援することになっていました。

行政の言語として、そして高等法院(ペルシャ語に代わる)としての英語を促進する他の措置と一緒になって、これは最終的に英語がインドの言語のうちの1つになることにつながりました。


Flag of the British East India Company, 1801–1858. <br />
出典:Wikimedia Commons
英国東インド会社(1801).svgのFile:Flag
イギリス東インド会社の旗、1801年 - 1858年。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flag_of_the_British_East_India_Company_(1801).svg



Coat of arms of the East India Company circa 1700's.<br />
出典:Wikimedia Commons
東インドCompany.svgのFile:Coatの国章
東インド会社の1700年代前後の国章
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Coat_of_arms_of_the_East_India_Company.svg



貿易をして儲けて、金を貸して儲けて、軍隊まで持っている。それもかなりの大軍勢。
というところが、テンプル騎士団にそっくり!!

貿易もしていたし、銀行の仕組みも作った。
テンプル騎士団がなぜ大軍勢なのか?
入団のハードルが低かったそうですからね。

テンプル騎士団 (集英社新書) 新書
出版社: 集英社 (2018/7/13)
佐藤 賢一 (著)
P77
当時のキリスト教徒にとって、破門は最大の恐怖だった。

この破門を下されるような呪わしい輩が、ましてや信仰の戦士たるテンプル騎士団になれるわけがない。

もっともな話だが、これまた司教の許しを受けて、破門が解かれればよいと、やはり救済措置が設けられていた。

のみならず、1140年に作られたフランス語会則の十二条には、「破門された騎士たちの集まりがあることを知るにいたれば、そこに向かえと我々は命じる。その境涯に甘んずることを望まず、騎士団に加わり海外の支部に行きたいと欲するものがいたならば、単に今この時の益のためのみならず、その者たちの魂の永遠の救済のために、躊躇するべきではないからである」とある。

仏法の「いわんや悪人をや」の理屈ではないが、破門された者こそ積極的に勧誘せよというのである。




  反日勢力無力化ブログ
イギリスによる中国植民地支配の実態
2015/08/14
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-282.html?sp



Wikipedia
David Sassoon
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Sassoon
David Sassoon<br />
出典:Wikimedia commons
File:David Sassoon.jpg
1901-1906 jaより:ユダヤ人百科事典。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:David_Sassoon.jpg



A busy stacking room in the opium factory at Patna, India.<br />
出典:Wikimedia commons
インドのパトナのアヘン工場の忙しい積み重ね室。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_busy_stacking_room_in_the_opium_factory_at_Patna,_India._L_Wellcome_V0019154.jpg



Internet Archive
The Chinese Opium Wars And British Jews
中国のアヘン戦争とイギリスのユダヤ人
https://archive.org/details/TheChineseOpiumWarsAndBritishJews?q=Opium+war++%C2%A0+Freemason
by Cincinnatus
発行日1940
トピック 中国のアヘン戦争、ユダヤ人の資本主義
コレクション オープンソース
言語 英語
戦争!戦争!戦争!第4章「中国のアヘン戦争とイギリス系ユダヤ人」

長文で文字数オーバーになりそうなので、原文無しで日本語に翻訳してご紹介しますが、一部、Google先生が面白い翻訳をされたので、原文と日本語に翻訳したものを並べます。

P22
PDF1

(中略)

「今日のイングランドで最も影響力のあるユダヤ人の家族であり、ロイヤルファミリーの最後の3世代と親密な数少ない家族の1つである有名なSassoonファミリーは、アヘン戦争で彼らの富と権力を確立しました。

"* * * Davi'd Sassoonはラグファクトリーと銀行設立から始めました、しかし彼はすぐにアヘンの機会を認めました...

巧妙な操縦は、インドの商人がアヘン取引の独占を追求することができる最も貴重な賞を彼に得ました。」* * *





P23
PDF2
「ダビデの息子たちは明るかった。
エリアスは、中国海に出た最初のサスーンでした。
彼はイギリスの貿易業者に中国へのすべてのアヘンのインドそして近東を成長させることができる権利を与えたアヘン戦争の後に早くも1844年に渡って行きました。
この薬を40万人の顧客に販売したEliasは、大成功を収めました。」
American Mercury、1940年1月、p。 61。



Wikipedia
Elias David Sassoon
https://en.wikipedia.org/wiki/Elias_David_Sassoon
バグダッドで生まれたインドの商人兼銀行家、エリアス・デビッド・サスーン(1820年3月27日 - 1880年3月21日)は、インドと極東の貿易に携わるイラク人 - インドの慈善家ユダヤ人ビジネスマン、デビッド・サースーンの次男であった。カルカッタ、上海、広州、香港。彼の事業はアヘン貿易の独占を含み、横浜、長崎、そして日本の他の都市にまで及んだ。



P23の続き
PDF2
Sir Edward Sassoon, the second baronet (Albert Abdullah's son, born in Bombay in 1856) married Baron Gustave de Rothschild's daughter. He resided in London and became a major in the Duke of Cambridge's Hussars Yeomanry; his daughter Sybil married the fifth Marquis of Cholmondely; King Edward VII considered him a friend; and the burghers of Hythe sent him into the House of Commons."
Ibid. p. 63.

2人目の男爵(1856年にボンベイ生まれ)となったエドワード・サソン卿は、ギュスターヴ・ド・ロスチャイルド男爵の娘と結婚しました。彼はロンドンに住んでいて、ケンブリッジのHussars Yeomanry公爵の少佐になりました。彼の娘Sybilは第5代Chormondely侯爵と結婚した。エドワード7世王は彼を友人と見なした。そしてハイフの強盗は彼を下院に送り込んだ。」
同書p。 63。



Wikipedia
Edward Sassoon
https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Sassoon
Sir Edward Albert Sassoon、第2男爵(1856年6月20日 - 1912年5月24日)はイギリスの 実業家そして政治家だった。

Wikipedia
Aline Caroline de Rothschild
https://en.wikipedia.org/wiki/Aline_Caroline_de_Rothschild
ロスチャイルド家の CécileAnspachとGustave de Rothschild男爵のフランスの 社交界の娘であった。




the burghers of Hythe <br />


the burghers of Hythe (ハイフの強盗)
市民による選挙によって選ばれたということかな?
ただ、市民を表わす「burghers」、ただの市民ではないのかも・・・


Wikipedia
Burgher
https://en.wikipedia.org/wiki/Burgher
中世の、近世ヨーロッパの町民の称号、および市職員を引き出すことができる社会階級
イギリス北部のバグの住人、Burgess(title)



Wikipedia
Burgh
https://en.wikipedia.org/wiki/Burgh


Wikipedia
Royal burgh
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_burgh
イギリス人のバグは、外国貿易の独占権を獲得しました。



Wikipediaで「Burgh」を検索し、日本語に翻訳したページに、「デイビッド1世王が最初の高貴な巣窟を造った」という文章が気になりました。
高貴な巣窟!?
巣窟というのは、盗賊・悪党などが集まって隠れ住む場所のことです。
google先生が翻訳された「高貴な巣窟」とは、「Royal burgh」のことらしい。


それで、「ハイフの強盗は彼を下院に送り込んだ。」と翻訳されたのでしょうか?


普通に翻訳すると、「Royal burgh」は(スコットランドの)「勅許自治都市」ということなのでしょうが、「高貴な巣窟」とも言えるのでしょうか?google先生!

因みに、Google翻訳で「Royal burgh」と入力すると、「ロイヤルバーグ」と訳されました。

強盗」とか「巣窟」なんて言葉に翻訳されると、悪いことをしている富裕層が集まる場所みたいに思えますねぇ。しかもスコットランド。スコットランドと言えば、1736年に3番目のグランド・ロッジがコットランドに設立されています。


Royal burgh<br />


ウィキペディア
勅許自治都市

勅許自治都市(英語:Royal burgh)とは、設立前後にスコットランド国王からの勅許によって、自治権を認められたスコットランドの自治都市の一種である。

(中略)

自治都市には個別の階級があったが、勅許自治都市は元が王家の土地であること、そして勅許が許した様々な特権によって、外国貿易を独占し利益を上げた。



Wikipedia
Hythe (UK Parliament constituency)
ハイフ(英国議会選挙区)
https://en.wikipedia.org/wiki/Hythe_(UK_Parliament_constituency)



英国ニュースダイジェスト
フリーメイソン300年の歴史
http://www.news-digest.co.uk/news/features/16429-celebrating-300-years-of-freemasonry.html
1930年ごろの建設中のフリーメイソンズ・ホールの写真があります。



Freemasons’ Hall in Great Queen Street, London, England.<br />
出典:Wikimedoa Commons
File:Freemasons.hall.london.arp.750pix.jpg
イギリス、ロンドン、グレートクイーンストリートのフリーメーソンホール。
ホールはイギリスのユナイテッドグランドロッジの本部であり、ロンドン地域のロッジの集会所です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Freemasons.hall.london.arp.750pix.jpg



イルミナティカードを思い出してしまった。
イルミナティカードのうちの1枚が、銀座・和光の時計台だと噂されているのですが、オリンピックも近いので気になります・・・

  カレイドスコープ
銀座・和光の時計台?ロンドンのビッグベン?
Thu.2012.08.02
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1466.html

セレンディピティ
謎に迫る!! イルミナティカードが予言した未来7つ
https://serendipity-japan.com/illuminati-card-6567.html



銀座と言えば、「関東大震災記念塔」がありますよね。「記念塔」ですよ!!慰霊碑ではなく。

この名前の付け方が、日本人の感覚ではないなぁと思うのですが、どうでしょう?
昭和八年九月一日に、朝日新聞社が建てています。

イギリスでは、ダブリン市にジャガイモ飢饉追悼記念像があるらしい。
ワシントンDCには、共産主義の犠牲者追悼記念碑もあるそうですね。
慰霊碑ではなく。

中国の諺で、「雌鳥が鳴くと国が亡ぶ」と言われていますよね。
現地に行って写真を撮ってきてあるので、また別の機会にご紹介しますね。
Bronze statue commemorating the 10th anniversary of the Great Kanto Earthquake<br />
関東大震災十周年記念
震災共同基金會建立
後援東京朝日新聞社
昭和八年九月一日
西望作


  この国は少し変だ!よーめんのブログ(日本こそ一党単独極右軍事政権でなければならない)
雌鳥が鳴くと国が亡ぶ
2007-02-08
https://youmenipip.exblog.jp/4553561/

「雌鶏歌えば国滅ぶ」を今一度考える-古代中国の揺るがない歴史
https://www.heeday.com/human/man-woman/




(ο´ω`ο)ゝ
スコットランドから銀座の話題へ話が脱線してしまいましたが、P23の続きです。
PDF2
「アヘンの大貿易の時代であった。インドと近東のケシ畑は金色の収穫をもたらし、イギリスの船は中国の遠い港に甘い香りのする製品を運んだ。デビッド・サースーンは裕福で力強いものだった」上海市:売り出し中の都市、p。 275。

「巨大なSassoonの大部分は、実際、アヘン取引で製造されていました。彼らはインドから上海に貴重な薬を出荷し、何百万ポンドもの通貨を払い落としていました。 Sassoonsは上海から多くのお金を引き出していた;もしSir Victorがそのお金をすべて和解に戻すのであれば、彼の動きには報復的な正義のある尺度があった。」同書
ps。 274-275。

「1931年に上海に上陸したとき、ビクター卿が自分の腰ポケットにどれだけのお金を持っているかは誰にもわからなかった。ある人は8,500万人、他の人は300人を言った。

彼が買いました。 彼は上海で、お金で買えるものとお金で買えるものをすべて買った。

* * *彼はSilas Aaron Hardoonの広大なNanking Roadの所持品を引き継ぎました。 * * *彼は彼の家族の以前の設立であるE. D. Sassoon T1 Co.、銀行家、商人、産業主義者で司会を受け入れました。 彼は長江ファイナンスカンパニーとiRust International Investmentを支配していた。」同上、277頁。

Sassoonの血統はデビッド王に遡ります、そして「サー・ビクターは上海の白人の上司でした」と1940年1月の「アメリカの水星(アメリカの雑誌)」が言います。





P24
PDF3
このSir Victor Sassoonは最近eclatでアメリカに到着し、一連の好戦的な挑戦を日本に出し、同時にアメリカを極東の利益を守ることに失敗することのないプログラムに参加させたいという強い願望を示した。 私たちの平和と中国のそれを危険にさらす。 1940年2月2日のニューヨークの太陽は、特にSassoon家族とSir Victor Sassoonについての興味深い説明を与えます:

「* *この老舗の会社は、国際政治の渦巻きに深く関わっており、何世紀にもわたって世界中を行き来しています。オリエントJからサンフランシスコに到着したSir Victor Sassoon氏は、日本を絶対に寒くさせ、そして日本の全てのビジネスマンがそれを知っています。」彼は貿易協定の無効化とアメリカの輸入への日本の依存について話していました。

「19世紀の大部分の間に、Sassoonsは主に綿、ジュート、織物およびシェラックでインドで莫大な財産を築きました。1929年に、インドの政治不安は何世紀にもわたって、家族がしたようにベースを移しましたトレドでは、ヴェネツィア、サロニカ、コンスタンチノープル、エルサレム、サフェド、バグダッドなどで、銀貨で大きく手っ取り早い取引を行って、不動産に分岐し、現在では極東で最も裕福な白人として知られています。 、製粉所、織物、ホテル、埠頭、酒輸入会社、ランドリー、バス路線、ナイトクラブ。」

上海での最近の市選挙で、日本が統治理事会への加盟を拡大しようとしたとき、上海で巨大な不動産保有を保有していた「不思議な」個人は、持ち株を1,200の構成部分に分割してクーデターを起こした。

このようにして、英国議会の優位性が高まります。
これを達成するのに十分な上海の不動産をSir Victor Sassoonが所有していた以外に誰もいませんでした。


Wikipedia
Victor Sassoon
https://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Sassoon
サー・エリスビクターサスーン、第3准男爵、GBE(1881年12月20日- 1961年8月13日)は、富裕層からのビジネスマンやホテル経営者だったBaghdadiユダヤ人 サスーンの商人や銀行家族。


  チャーリーチャップリンイメージバンク
ビクターサスーン
https://photo.charliechaplin.com/people/380
チャールズ・チャップリンとビクター・サスーン卿の写真が販売されている?


団塊の世代のつぶやき
★朝から晩までデュープスだらけ
2019年02月01日
https://blog.goo.ne.jp/dankaidamyutaka/e/6dd1ee5463a95b4e19264278a2a23493
【デュープス】百田尚樹「米国の赤狩りによってチャップリンもスイスに 逃げた。当時、やり過ぎだという話も出たが後にヴェノナ文書が出てきてデュープスだったことが分かった」




P24の続き
PDF3
極東問題に関する介入主義者の講演が最近復活したことを考えて、彼らの本の中でBoake CarterとThomas Healyの言葉を考えてみましょう。 17〜28、

トーマス・ヒーリー博士は、老人の外交学校の優れた学者、教師、学部長で、首都のジョージタウン大学で有名です。

「彼らは自分たちにとってより有利な条件でより多くの貿易を要求するだけでなく、悪質な密輸品貿易さえも要求した。
このようにして私達は歴史的物語の中で最も険しい物語 - 1839年のアヘン戦争 - に至ります
それは西洋世界が最初にその意思と欲望を中国に強制し、そして彼女の前立つ形の上に、それらの「神聖な」条約の権利を抽出しました。

「ピューアメリカ人は、アヘンは常に中国人と同盟関係にあるが、実際には中国がその使用がイギリス政府とインドのその代理人によって大量に強制されるまでほとんどあるいは全くアヘンを使わなかったことを理解している。





P25
PDF4
「インドのアヘンの成長と売却はイギリス政府の独占であり、それはイギリスの財務省に利益の黄金の流れを注ぎ込んだ。無防備な中国人がより多くのインドのアヘンを吸収するように作られれば、イギリスのエージェントはさらに大きな利益を予見した。この薬の変性の性質を理解して、激しく抗議し、輸入、販売および使用を禁止しようとしました。

イギリス人は禁止を無視し、その結果中国政府は必死でカントン倉庫に保管されていた大量のイギリスのアヘンを押収した。すぐにイギリスのイギリス海軍が行動を起こし、アヘン戦争が始まった。

「憤慨の叫び声が極東での最近の出来事を覆って空気を借りている。泣き声の大部分はロンドンとワシントンによって行われている。

* * *イギリス政府による宣戦布告はありませんでした。中国人の悪者がイギリスの名声、財産、旗を誇示していることを除けば、公衆に公式な説明はなかった。
* * *

「1842年に南京条約を制定し、アヘン戦争を終結させ、英国は21,000,000ドルの補償金を支払うことを余儀なくされた。そのうち6,000,000ドルは、破壊されたアヘンの払い戻しであった。後者の意志。

「英国が直接、そして間接的に中国の人々の希望に反して上海の大港に自らを設立するための「神聖な」条約の権利を獲得したのは、アヘン戦争での中国の開拓を通してのみだった。

「最も重要な点は、南京条約がアヘンの不法輸入の激しい差し迫った原因に決して触れなかったという事実である!中国は戦争の代償を払わされたが、致命的な雑草の違法輸入は衰えずに流れ続けた。何百万人もの中国人の道徳的および物理的崩壊、そしてイギリス政府の大きな経済的利益に。

「この戦争はイギリス人の手紙を含む歴史家の大部分を苛立たせた。ジャスティン・マッカーシーはこう宣言した:

簡潔に言うと、私たちが中国戦争で戦った原則は、政府の抗議にもかかわらず、英国が外国人に独特の貿易を強いる権利であり、そうしたすべての世論であった。

国民の イギリスの偉大な政治家、グラッドストーンは次のように宣言した。

'その起源の中でより不当な戦争、この国を恒久的な不名誉で覆うためにさらに計算された戦争、私は知らないし読んでいない。イギリスの国旗は悪名高いトラフィックを保護するために掲げられています。





P26
PDF5
そして、それが今や中国の沿岸で吊り上げられているのを除いて、吊り上げられたことがないのであれば、我々はその視力から恐怖で跳ね返るべきである。

* * "多くのアメリカの貿易業者はアヘンの交通に有益な役割を果たしました。アメリカの商人のグループは正式にイギリス、フランスとオランダを海軍デモで援助するように議会に嘆願しました。しかし、他の中国の港は「開かれる」べきであると強く主張し、そこでの彼らの貿易は保護されました!

「これは、米国がイギリスやその他の西側諸国との軍事協力を正式に要請したことが、極東の共通の目的として偽装されたものを達成するために提案された最初の機会ではなかった。

同じ命題がここ数カ月の間に再びなされた、そして疑いの余地はないが再びなされるであろう。

"商人の嘆願書は1840年3月の議会で議論されました。

私が中国との最初の条約を交渉した直後に、Caleb Cushingは次のように宣言しました。 中国の海で、個々にそして集合的に、イギリスの作戦を特徴づけてきたすべての法律、人間および神の高次違反。 ..

私は、彼女がその不道徳な企業で米国から援助や表彰を受けるという考えがイギリスでもはや楽しまれることはないだろうと確信しています。

「このように中国は西欧世界の貿易に「開かれた」。

そのため、上海や他の中国の港湾に居住し取引する「権利」が得られました。 このように極東での英米軍事協力の最初の提案は米国によって断られた。」

「最初のアヘン戦争はさらに多くの戦争につながった。1857 - 58年に、イギリスは再び交戦国の1つだった。

今回は彼女はフランスの援助を受けた。 この戦争は、第二次アヘン戦争またはアロー戦争として知られていました。」* *

「また、最初のアヘン戦争のように、アメリカとイギリスで、アメリカをイギリスとフランスの軍事演劇に参加させようという強い意欲が高まった。」

私たち自身の公式文書からの引用を促進して、我々が中国人との別の口論の妥協、平和的解決をしたとき、イギリス人が大いに失望したことを示した。 イギリスは密かに彼らが中国に対して計画していた戦争で米国の援助を望んでいました。」

(ニューヨークタイムズ紙によると、米国が英国政府との事前の合意なしにパナイ号事件を解決したとき、ロンドンは非常に苛立ち、失望していたことを私たちはここで思い出しています。)





P27
PDF6
「米国政府は、英国政府に対し、中国の領土への遠征は議会の同意なしには行うことができないと正式に答えた。

米国と中国との関係が戦争に頼ることを保証しなかったこと。

これらの忠告を連合国に伝える際に、中国の米国大臣リードは公式に彼らがそうであったように彼らの悔しさと狼狽を報告しました

「領土の取得でさえも、我々の側で最も贅沢な協力の期待に励まされた。 * * *

そして、イギリスは彼らの価値のない喧嘩にアメリカを巻き込むことができなかったことに特にいらいらしていた。

どうして東洋にいるのか、p。 28。

「我々のフィリピンの買収におけるイギリスの役割に関するここでの一言は、ベミスが「アメリカ外交の歴史の中で最大の過ち」と呼んでいるものの全体像を得るために必要である。

「イギリスはドイツがフィリピン諸島を占領するのではないかと非常に心配していた。イギリスが世界のあらゆる地域で強いライバルとなっていたので、これがイギリスが最後に望んだことだった。

「さらに、イギリスは極東に物理的な場所をとるように米国に望んでいた。
中国を西側貿易に開放するというイギリスの政策を支持するかもしれないところ。

これは主にイギリスの貿易でした。

もしイギリスが我々を増大する貿易関係だけでなく実際の領土に操縦させることができれば

極東では、英国が極東出資を維持するのを助けるために英国がアメリカの協力を得ることははるかに容易であろう。

これはドイツや他の人々によってますます脅かされていました。
同書p。 61。


「……同時に、イギリスはボーア戦争を戦った。

1899-1902から。それによって彼女は南アフリカの大部分を併合した。 Boersを支持したイギリスとドイツの間で戦争は狭く避けられた。ボーア戦争は世界中でほぼ普遍的に非難された。

アメリカ以外は、イギリスはこの友好的な寛容を、スペインとの私たちの戦争を文明に対する犯罪と見なさなかった世界でほぼ唯一の国であることによって相反しました。
同書p。 68。

同じ考察と同じ理由でイギリスはフィリピンの併合を支持した。

「それが驚くべきことであるが、それでもなお、イベントの30年後の1928年までに、アメリカ人がヘイのメモがどのように準備されたかを学ぶことができたのは事実である。

最近発表された文書は、これらのノートが実質的に氏アルフレッドE.ヒッピー(以前は中国税関と関連していた英国の主題)のドラフトに従ったことを示しています。





P28
PDF7
彼は極東事件に関するヘイの機密顧問、W. W.ロックヒルを通して働いた。同じ2人の紳士が1900年以降のメモの作成に尽力したため、中国の領土および行政組織を保護することが示唆されました。」

(ヘイと呼ばれたのは、ジョン・ヘイ(John H.ay)米国務長官およびAnglophileの義理の父であり、徴兵法案の共著者であるジェームズ・ワズワース議員である。)

「この事件は、アメリカ人全体として知られていなかった二つのことを強調している:第一に、アメリカの政策と思われるものを確立するためのイギリスのイニシアチブ、第二に、アメリカ国民に多くの事実を知らせることの失敗(珍しくない)イベントから数年後。」同書ps。 77−78。

、、 * *私たちの部隊は、上院や議会、あるいはアメリカの人々に提出されたことがない国際協定の権限のもとに中国に留置されてきました。

* *議会が問題を提起しなかったかもしれないし、私たちの米軍のための一般的な歳入を特別なコメントなしで可決したにもかかわらず、彼らはそこに置かれ、大部分は総裁の行政府の口述を通してそこに続けられた。 87ページ。

同盟国がドイツの潜水艦戦争で激しい圧力を受けたとき、日本はイギリス(1917年2月)、フランス(1917年3月)、そして後にイタリアから秘密協定を得た。 終戦後の日本は、山東と現在の日本の「義務」である特定のドイツの島々に対する主張をしています。

「理解できる範囲の理由で、連合国はこれらの協定を米国から慎重に隠したが、ヨーロッパの地図の一般的な再構成(?)に関して秘密の協定を公然と説明した。

連合軍は中国を彼らの側で戦争に参加させるための道具として私たちを使うことを愚かに意図していたので、彼らはおそらく私たちを前もって当惑させないことが最善だと考えた

ある中国の同盟国の領土の一部をもう一方の日本の同盟国に与えるための取り決めがすでになされているという知識をもって...

「1917年4月に、アメリカはヨーロッパの紛争で連合国に加わりました。* *我々が恐ろしい戦争に入ったすぐ後に、我々は中国共和国を説得しました。
同書 ps。 105-106。

このように、イギリス人 - ユダヤ人の外交政策を我々のイギリス人政治家と同一視することは新しいことではないことがわかります。

アメリカの人々が当時を理解していたというわけではありません。つまり、今日のことを理解しています。イギリスがアヘン戦争に勝利し、ボーアを撃退し、極東の政策を実行し、第二次世界大戦を戦ったのです。

実は、私たちはイギリスユダヤ人の栗を火から引き抜いていたのです。


私たちの誤解した「政治家」はある種のものを疑ったに違いありませんが、
議会と国民から真実を隠そうとする彼らの努力から明らかである。





P29
参照:カーターとヒーリーによる、なぜ東洋を怠るのか。グリスウォルド著 『アメリカの極東政策』、ベミスによる 『アメリカ連合の外交史』、フォスターによる 『東洋のアメリカ外交』。

次の戦争での宣伝:Sidney Rogerson著、イギリス政府の後援によりイギリスで出版され、著名な軍事専門家のCaptain Liddell Hartによる編集。

イングランドがこの戦争に勝利し、米国を巻き込むことができる方法についての説明が含まれています。彼は言う:

「**私たちの参加を彼女(アメリカ)に説得するのは、はるかに困難になるでしょう。

それはアメリカへの明確な脅威、さらには脅威を必要とするでしょう。そして、それは共和国が再び外部の口論に武器を取る前に、宣伝によって裕福な市民に持ち帰られることを望むでしょう。

日本が関与していたならば、その位置は当然に容易になるであろうし、そしてこの可能性があり、そしておそらくさらなるADOなしでアメリカを連れて来るでしょう。
(ADOなし・・・面倒なし?)

いずれにしても、第二次世界大戦中に彼らがアメリカをドイツに巻き込むことを成功させたように、これを達成することは私達の宣伝派の自然で明らかな目的であろう。
(148ページ)

アムステルダムの政府高官、Frazier Huntを引用して、有名な特派員は言います:

「私たちは忙しい私たちの友人の犠牲者です」と彼は私に言いました、「イギリスは裏口を通してアメリカを戦争に引きずり込むこと以外に何も望みません。

連合軍がアメリカを巻き込むことができるならば

極東日本に対しては、中国で日本をチェックし、ドイツに加わることを決心した場合に備えて彼女と戦う責任を連合国から取り除きます。

日本がオランダ領東インド諸島のファンに苦い侵略を計画しているという考えをアメリカに与えることは炎上する可能性がある。」







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