但し、本題はその後です。
先日の「柴又帝釈天と矢切の渡し撮影会」に出演した今年の新人モデルさんのプログに、撮影会後の事が写真付きで書かれています。
その写真に写っているモデルさんの屈託のない自然な笑顔が素敵で、正直僕もその中に加わりたかった(笑)、否その時の彼女等を撮りたかった、と嫉妬心みたいなものを感じました。
自然な表情というのは、モデルさんでも撮影会ではなかなか撮れないものです。
柴又アフター3|rinacoism
撮影後❤|堂珍智子の Non Maquillage
↑リンク先は2つにとどめますが、他のモデルさんもブログで採り上げています。
なんか「青春してる!」って感じで羨ましいです(笑)。
お供したかった(←しつこい!)。
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僕は元々スナップ写真を撮るところから、カメラの世界に入りました。
多分多くの写真愛好家もそうだと思います。
スナップ写真は「写真表現の王道」だと思っています。
写真の歴史は「記録写真」から始まりました。
その写真を「芸術性」のある「作品(アート)」として広く認知させたのが、アンリ・カルティエ=ブレッソンです。
スナップ写真の手本となる彼の写真の特徴は、「寸分の無駄のない構図」と「決定的瞬間」です。
彼は元々画家志望だったので、緻密な構図はそれ所以なのでしょう。
同じ頃、当初画家志望だった黒澤明が、映画の世界に入り有名になったのも不思議ですね。
「決定的瞬間 - The Decisive Moment - 」は彼の有名な写真集の題名で、その後この言葉は一般化されました。
母国の仏語の原題は「逃げ去るイメージ - Image à la sauvette - 」であり、彼の撮影に同行した人によると、瞬く間に2、3枚シャッターを切りフィルムを巻き上げる、という早技に驚いたそうです。
また彼は「人物写真(ポートレート)」(特に著名人)においても数々の名作を生み出しました。
彼の作品は次のリンク先で一部見れます。
アンリ・カルティエ=ブレッソン財団
Tete a Tete: Portraits by Henri Cartier-Bresson
最近は肖像権にうるさくなってきたので、スナップ写真を撮りづらくなってきたと言う写真仲間が多いですね。
多くの場合は、肖像権を誤って拡大解釈している人が多いみたいです。
一つの要因として、最近の携帯電話機能で簡単に撮影出来、中身を吟味せずにネットにアップしている人が増えた(しかもデジタルなので簡単にコピーされる)からだと言われています。
しかし、一番の問題は肖像権が法律に明文化されてなく、裁判の判例でプライバシー権の一部として認められているに過ぎず、一般の人には容易に理解するには複雑な現在の日本の法体系にあります。
肖像権は人格権と財産権(パブリシティー権)の2つに分けられます。
人格権については、写された人の人格を傷つけるものか、撮影者は配慮すべきです。
商業ベースに作品をのせなければ財産権は無視出来ます。
余談ですが、プロの写真家にとって悩ましいのが、これに併せて悪名高き「個人情報保護法」が絡んでより複雑になっていることです。
「写真表現」は最高法規の憲法が規定する「表現の自由」であり、肖像権よりも優先されるはずですが、現実はそう簡単ではないでしょう。
肖像権をみだりに拡大解釈してしまうと、ブレッソンの作品の多くは侵害に該当し、見ることが出来なくなってしまいます。
先述したブレッソンの撮影方法を考えれば、被写体となる人物にいちいち承諾を得ようとしたら、「決定的瞬間」があっという間に「逃げ去って」しまいます。
ましては、モデルさんでも難しい、自然な最高の表情を、一般の人が再現出来る訳がありません。
やらせは結局突き詰めるとウソなのです。事実に対してウソに価値はそれ程ありません。
事後承諾という手もありますが、複数の人物が写っている場合、全員は不可能に近いです。
「表現の自由」との兼ね合いを考え、常識(マナー)の範囲で運用され、「写真文化」の衰退に繋がらないように願っています。
つまりは著作権と同じで、細かい事まで厳密に法律を適用して行くと、文化活動の進歩が止まるという事です。
高校の文化祭で演劇をする場合、著作権者に承諾と使用料を支払わなくてはいけない、という事例なんか行き過ぎでしょう?
(上記の写真、(C) Henri Cartier-Bresson / Magnum Photos)
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偉そうな事を言っていますが、僕自身最近はスナップ写真を撮っていません(笑)。
これは2、3年前の写真です。
後ろ姿等、個人が特定できない写真であればいい、というのが最近の潮流(自主規制)みたいです。
それでも一歩後退ですが……。
場所は浅草寺。
この女性は行き交う人並みの中で、この格好でジッと佇んでいて印象的でした。
イメージ(想像)としては、亡くなっている最愛の人(恋人、夫 or 子供等)に話しかけている(又は会話している)女性、というものでした。
天国にいる最愛の人を想像させるために、女性の頭の上の空間を大きく空けました。
正直に言うと、この構図はブレッソンの写真の影響(=真似)を少し意識していました(笑)。
人の写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。
(アンリ・カルティエ=ブレッソン)
写真としての善し悪しは別にして、上の2人の女性に対して僕なりに敬意を払っているつもりですが、如何なものでしょうか?