その崖から飛び降りて勇気を示すべし | Q1999=Q-IIIの奮闘記

その崖から飛び降りて勇気を示すべし

 今日も復職プログラムを受けました。

 色々作業をしましたが、あまり実りに繋がっている感じが今一つしないのがずっと引っ掛かっています。

 これで上手く復職出来るのか、正直に言いますとかなり不安な部分が有りますね。

 まあでも、今の所復職プログラムは全部受けられています。

 それだけで先ずは良いとしましょうか。

 何とか稼いで行かないと、お袋共々干上がってしまいます。

 もう何ヶ月も大赤字でやっています。

 貯金が尽きてしまうかもしれない状態になりつつ有ります。

 今はまだ大丈夫ですが、何分入って来るお金が無いので、それをどうにかしないといけません。

 その為に職場復帰を果たそうとしているのですが、はっきり言って今の職場が本当に私の天職だとは言えません。

 本当は私もやりたい事が幾つも有るのにそれが叶っていないだけです。

 夢の為に、全て捨て切ってしまう事も出来ない臆病者なのです。

 それが私の最大の弱点になります。

 本気で取り組むのならば仕事なんか辞めて生活保護でも貰いつつ創作活動を続けて行けば良いのです。

 でもそれが出来ない意気地なしなのです。

 ただ私は、私の進路に関してもっと戦うべきだったと今ならば思います。

 親も教師も皆私が芸術系の大学に進む事を反対し、そして挙句の果てにはボコボコに殴られる始末となりました。

 結果私は第一に学びたかった事を学習出来ないまま大学へ進みました。

 それがどれだけ贅沢な事を言っているのかは分かっています。

 でも私だって、美大に行きたかったんです。

 それを殴ってまで止めるってどういう神経しているのでしょうか。

 思えば私の人生には常に親の干渉が有りました。

 高校を決める際も、第一志望とされている高校にはとても手が届かないと分かっていたのです。

 それなのに、お袋が気に入ってしまって、そこ以外認めないモードに入ってしまいました。

 まあその時も担任の教師が私をかなり酷い評価していましてね、何か学力的にかなりレベルの低い高校ばかり勧めて来ました。

 それには私もムカッとしましたが、でも自分の実力を遥かに超えた高校を無理に受ける必要も無かったと思います。

 私はただ、東京から離れたかっただけなのです。

 別にあの高校に通いたい訳では無いのです。

 勿論その高校に行ければそれはそれで私の求める世界に近付けたと思います。

 でもそれは私の願いでは無く、お袋の願望の押し付けでした。

 落ちた時、お袋にこの世の物では無いみたいな扱いを受け、その時決まっていた第二志望校に逃げたと言われました。

 親父は親父でヒステリーを起こし、もう私は家にいたくないという思いばかり強まりました。

 第二志望校は、何故そこを選んだかと言うと、地元から少し離れている事と、それと芸術に力を入れている高校だったからでした。

 それでも一応面目は保たれるレベルの高校だったと思います。

 私の場合親父がエリートなのです。

 その顔に泥を塗らないようにだけ気を付けろと言われて育ちました。

 そういう意味では一応の進学校系コースに入れたので親父もそんな怒り散らかすような事はしませんでした。

 親父は私が通う事になったその学校を予備校だと表現していましたね。

 でも私はそこで一番楽しく創作活動が出来ました。

 色々妨害は入りましたし、クラスメイト達の大半は大嫌いでしたが、それでも私の中で一つ大事な人生の一頁となっています。

 ただ、高校も所詮大学進学までの通過点と捉えられている以上、私に押し付けられたのは勉強をしろという日々でしたが、私も徐々にそれに反抗するようになって行きました。

 勉強では得意不得意の差が大きく出てしまい、特に数学は中々着いて行くのに必死でした。

 それも親父は歎いていましたね。

 しかしながら文系科目は私もそれなりの評価を得られるようになります。

 特に小論文がとても高く評価されていました。

 ですが私がやりたい事は、結局高校までは公に出来ましたがそれ以降先は無かったのです。

 私は進路相談が本当に嫌でした。

 その頃には勉強に対するモチベーションも駄々下がりで、何もしたくないと言うのが本音でした。

 それは進路相談の度に、私から美大と言う選択肢を取り除こうとする両親と教師の為でした。

 もう何もしたくないという無気力に陥り、テスト勉強をする際も大きく影響が出ました。

 きっと親父もお袋も私を或る程度のエリート街道を進ませたかったのだと思います。

 大学受験時、私はセンター試験まで結構頑張っていました。

 それは芸術が許されないならば学んでみたい事が或る大学で叶う事を知ったからです。

 そこが国立大学だったので、もうセンター試験で只管頑張りました。

 でも結局そこの大学には行けない事になります。

 足切りも見事に回避し善戦したセンター試験の結果をぶら下げ二次試験を受けましたがそれで轟沈したのです。

 そして、私は結局母校の大学に通う事となりました。

 はっきり言ってレベルは高く無かったです。

 でも私が学びたい事を好きに研究する事を許されましたし、何より教授達の事は好きでした。

 それに裏技を使い芸大に潜り込む事にも成功しています。

 でもそこで下らない問題が発生しましてね。

 先輩からの圧倒的なパワハラを受けたり、普通に人間としてやってはならないだろう事を言われたりやられたりしました。

 何より大学のシステム上、金持ちばかりが優遇される仕組みになっているような気がしました。

 ボンボンの皆は、何回留年しようが構わないようでしてね。

 それと真面目に学生やっていた私に集る連中が出て来た事もまた腹立たしかったです。

 しかもそいつが漫研の部長にまでなりましてね。

 何か舐めてますよ。

 そういう事を繰り返している内に、私は大学自体は好きでも学生達は好きでは無いという事態に落ち着く事となります。

 大学生なんだから遊んでいる奴が出て来るのは或る意味当然です。

 それが分からない訳では無いつもりです。

 でも遊ぶならば遊ぶで最後まで責任を持って遊べば良いのに、いざとなると真面目にやっている学生の力を頼ろうだなんてふざけんじゃないよって話でした。

 結局私はその大学でもそこで学びたかった事を学べない事態になります。

 それが病気の発症及び休学です。

 休学中にサークルからも籍を抜かれ、休学を明けて帰って来た時は本当に悲惨でした。

 結局私はやりたい事を殆ど出来ないで来ました。

 その八つ当たりのように今執筆活動をやっていますが、私は過去にもっと戦ってそれで死んでしまえば良かったと思っています。

 はっきり言ってそれは後悔です。

 親父に殴られてもお袋に歎かれても担任教師に笑われても、それでも私は美大に行くべきでした。

 いや、行こうとして試験を受けるだけで良かったのです。

 それで落ちれば私も私で色々思う所が変わったでしょう。

 でも受験する事すら許されなかった。

 その理不尽さとは戦うべきでした。

 結果私は空を見上げては言い訳を繰り返す大人になってしまった。

 やりたい事は有ります。

 でもそれが出来ません。

 絶望的です。

 ここまで零落れるともう這い上がる事も出来ないでしょう。

 一生シュレッダー処理や清掃作業をし続ける事となるのが見えています。

 悲しい人生でしたね。

 誰か一人で良い、味方が欲しかったです。