で紹介した、グレートブリテン号。
もし人間だったら、その人生が伝記になるであろうこの偉大なる船。
SS グレート・ブリテン は博物館船で、かっては客船で、その当時は先進的なものであった。 この船は 1845 年から 1854 年にかけて、世界で最も長い客船で、 イザムバード・キングダム・ブルネルがグレート・ウェスタン蒸気船会社の ブリストル・ニューヨーク航路のためにデザインしたものである。 他の船には鉄で建造したり、スクリュー推進機を備えたものがあったが グレート・ブリテン は大型洋上船でこのどちらも備えた最初のものであった。 この船は大西洋横断をした最初の鉄の船で、これは 1845 年に遂行され 14 日かかった。
船の長さは 322 フィート (98 m) で、排水量は 3,400 トンである。 船は直接駆動方式の二基のエンジンを駆動し、各エンジンは内腔が 88 インチ (220 cm) で ストロークが 6 フィート (1.8 m) のシリンダーを二基備えていた。 船には二次的な帆の動力が提供されていた。 4 層の甲板は 120 名の乗組員、 360 名の乗客の宿泊施設も提供し、 乗客には船室、食事用サロン、遊歩用サロンが提供されていた。
グレート・ブリテン は 1843 年に進水し、はるかに大きな船であった。 しかしながら、建造が長引き、コストが高くなり、 所有者は資金的に困難となった。 航行エラーから船がダンドラム湾 (Dundrum Bay) で座礁した時、 船を再浮上させるために資金を使い切り、1846 年に廃業を余儀なくされた。 船は 1852 年に売却され修理された。 グレート・ブリテン は 1852 年から 1881 年にかけて、 オーストラリアに何千人もの移民を運び、1881 年に帆船に転換された。 3 年後、船はフォークランド諸島に退役し、 ここで倉庫、検疫船、石炭庫として使用され、 1937 年に穴を開けて沈められた。
1970 年に、サー・ジャック・ヘイワード (Sir Jack Hayward) の現金寄付により、 船を牽引して英国に帰すことができた。 グレート・ブリテン は建造されたブリストルのドライ・ドックに戻され、 今や国内歴史的船隊の 1 部として登録されている。
なんというか、、
船冥利に尽きるといえばよいのか
1843年の進水式の様子。
はじめからものすごい注目を浴びていた船。
1843年!!
江戸時代…
黒船すらまだ来ておらぬ
その黒船といえば。
何この絵ww
船の真ん中に注目すると、何やら丸いやつ。
黒船は、
蒸気外輪フリゲート
でした。
19世紀半ばといえば、世界史が本当の意味で世界史になっていくともいえる時代。
つまり、欧米列強の動きが世界中を巻き込んでいく、そんな時代。
当然日本も例にもれなかったわけです。
で。
その時代の「世界史」の動きとして、特筆するべきは
アヘン戦争(1842〜44)
クリミア戦争(1853〜56)
だと思っています
なんで??
イギリス・フランスが産業革命を経て、工業力などがぶち抜けていく中、それについていけていない国との戦力差がとんでもないことになってしまっていた。
ことを、証明したのがまさにこの戦争たち。
中国はそのときの恨みが現代にまで続くほど、プライドがずたずたに。
ロシアは、近代化しないともうアカーン!!とかじをきるきっかけに。
うちは、世界史のなかでも特に「海戦」に注目することが多いです。
クリミア戦争に英仏参戦のきっかけになったシノープの海戦。
このとき、
オスマン艦隊が木造帆船で構成されていたのに対し黒海艦隊は蒸気船を中心とし、オスマン側の無警戒もあってロシア軍優勢のまま戦闘は一方的に進み、オスマン艦隊はほとんど抵抗することなく撃沈された。さらに、艦艇を港内に停泊させたままであったため、砲撃は市街地にまでおよび港湾施設も徹底的に破壊された。
んですね。
英仏にもんのすごい遅れをとっていたロシア帝国に粉砕されたオスマン帝国。
と考えれば、オスマン帝国は何周遅れ?といったところですが、日本はまだそのコースにすら乗っていない
この後数十年後にメインプレーヤーとして登場するわけですから、まぁ純粋にすごいよね
(順調過ぎて行き着いたのが太平洋戦争…
)
鎌倉時代から続いてるオスマン帝国も間違いなく驚異的ではあるけど。
ちょっと話が長くなってしまいましたが、何が言いたいかというと、この時代における技術革新というのは、一国の運命を左右するものだった、ということ。
いつもそうだと言われればそうなのですが、特にこの時代は顕著かなぁと思います
ちょっと長くなりすぎたので、続きます