情けないって?
4月も終わりに近づきブログを書かなければという強迫観念に駆られている。しばらく自分の生活行動にまつわる愚痴のようなことばかり書いてきた気がするので、四季、自然の美しさなどを書きたいと思いつつも材料に見あたらない。
今朝は5時前に起き出したので、久しぶりにゆっくりした気持ちで散歩が可能となった。門を開けるとウグイスの鳴き声がしたり、もう消滅したかと案じていたレンゲ草のピンクの花が、高速道路用に買い取られて区切られて放置された田んぼの部分に結構な量咲いているのを見つけたりした。やはり余裕を持って周囲を見渡さねばイカンのだと再確認したことである。道端の畑には昨日辺りの仕事であろう、トマトやキュウリが植わっており、僕も早くせねばと気が焦る。こんな内容を書きついでいきたいが、昨日の新聞を読み返して気に入らない記事が心に残り、それを書かねば余裕を持つなどとは叶わないので、話をそちらに移すことにする。
「記者有論」と題するコラムが掲載されていた。書いているのは社会部の記者である。タイトルは「大学教育の質-外圧を受ける前に自ら動け」という1000字ほどの記事である。とうとう、大学はこんなことまで言われるようになったのか。情けない、という書き出しで、中教審が今夏に答申として出す予定と聞いている「学習時間の増加・確保をして学習の質を上げよう。すべての大学に学生に学習時間の把握を調査する」に関わって、「まるで義務教育だ、情けない」という。「2人に1人が大学に入る時代なのに授業が学生本意に変わっていないのはないか、しっかりしろ」という論調である。
しっかりしろと言いたいのは僕の方で、「こんないい加減な記事を書くな,しっかりしろ」である。
この種の話でいつも気になるのは、大学とはどのような大学を指すのかを明らかにしないことである。今では500を超える大学がある中でどのレベルの大学を言うのか、どのレベルの大学生を指して学習時間が足りないというのか明確でない。したがって、意味のない漠とした内容となる。記者が想定している大学と読者の想定する大学が一致しなければコミュニケーションは成立しない(認知スキーマの不一致、想定類似性から生じるミスコミュニケーションの典型である)。大学人に反省という気持ちを起こさせることにはつながらない。社会部の素人が何を言っていると無視されるのがオチであろう。ただ、こういう記事を鵜呑みにする人たちが、大学にのみ責任を押しつけ、このような教育状況を招いたことに自らも責任が及ぶことを気づかないままになることを恐れる。
記事には、大学には大学自治の原則がある、補助金の額を減額される意向などの言及があるが、これらはもっぱら国立大学法人や古い大規模大学にあてはまるだけである。おそらく300大学ほどの小規模大学では、自治などもとよりないし補助金の額など経営者が気にするほどの額ではない。記者が指摘するような学習時間少ない学生がいるのは弱小大学である。偏差値が70近辺の学生から構成される基幹大学と40前後の学生も混じる弱小大学を一括りにするのは乱暴すぎるというものである。そんな低い偏差値の大学など不要というのであれば、その原因である大学設置基準の大綱化こそ問題にすべきであろう。
基幹大学の学生の学習時間は決して少なくない。とくに医系・理系の学生や院生の学習時間は気の毒なほど長いという実態を記者は知らないようである(おそらく文系の学部を出て記者になり、自分が想定する、自分が学んだ頃の大学とのギャップに愕然として、この記事を書くに及んだのだろう)。
決して高い偏差値の大学とは言い難い大学では、嘆かわしいほど基礎学力の学生がいて、学習習慣がない学生が過半数を占めることは事実で、記者がまるで義務教育だという指摘が当てはまる大学も少なくない。入学時の調査でも自宅での予復習の習慣があるというのはわずかな割合でしかない。しかし、学習習慣は義務教育で修得すべきもので、義務教育に携わる者、そして高校教育がその責めを追われてしかるべきであろう。
入学時に学習習慣がない18歳の人間に大学でそれを身に付けさせよ、授業のやり方で何とかせよというのは、過酷すぎる要求であることは発達心理学を学ばずとも分かるはずである。
別な要因も指摘しておかねばなるまい。大学生の余暇時間の過ごし方である。学生は学習をしない時間に遊び呆けているわけではない。義務教育がしっかり身についていない学生達の大半はアルバイトに忙しいのである。全部とは言わないが授業料を補填しているのである。学生の偏差値を横軸に、保護者の収入を縦軸に取れば、綺麗な1次関数直線となるはずである。
現在の日本の大学では、授業料を心配しないで学業に専念できる生活環境は整備されていない。給付型の奨学金を準備してそれでも学習時間が少なすぎると歎くのなら了解できるのだが、消費税の増加案がままならないようでは、言い出せる話ではない。記者はこのような実態を念頭には置いていないように思える。
税金がかからず簡単にできる話は、大学センター入試を止めて、高校卒資格試験に変えることである。そうすれば相応の学力やその修得の基礎となった学習習慣は構築されることにつながり、大学での教育は進捗すると考えるからである。
もう疲れたので、この辺りで終わることにするが、要は500を超えるまでになっている大学の学生(同一年齢群の半数以上の数)を一括りにした記事は、その母集団の学力及び知能分散が大きすぎ、対象とされる大学が不明確で得るところがないということである。
物事を改善する提言には、焦点を絞りそして広い視野で捉えるようにせねばと言うことであります。
今朝は5時前に起き出したので、久しぶりにゆっくりした気持ちで散歩が可能となった。門を開けるとウグイスの鳴き声がしたり、もう消滅したかと案じていたレンゲ草のピンクの花が、高速道路用に買い取られて区切られて放置された田んぼの部分に結構な量咲いているのを見つけたりした。やはり余裕を持って周囲を見渡さねばイカンのだと再確認したことである。道端の畑には昨日辺りの仕事であろう、トマトやキュウリが植わっており、僕も早くせねばと気が焦る。こんな内容を書きついでいきたいが、昨日の新聞を読み返して気に入らない記事が心に残り、それを書かねば余裕を持つなどとは叶わないので、話をそちらに移すことにする。
「記者有論」と題するコラムが掲載されていた。書いているのは社会部の記者である。タイトルは「大学教育の質-外圧を受ける前に自ら動け」という1000字ほどの記事である。とうとう、大学はこんなことまで言われるようになったのか。情けない、という書き出しで、中教審が今夏に答申として出す予定と聞いている「学習時間の増加・確保をして学習の質を上げよう。すべての大学に学生に学習時間の把握を調査する」に関わって、「まるで義務教育だ、情けない」という。「2人に1人が大学に入る時代なのに授業が学生本意に変わっていないのはないか、しっかりしろ」という論調である。
しっかりしろと言いたいのは僕の方で、「こんないい加減な記事を書くな,しっかりしろ」である。
この種の話でいつも気になるのは、大学とはどのような大学を指すのかを明らかにしないことである。今では500を超える大学がある中でどのレベルの大学を言うのか、どのレベルの大学生を指して学習時間が足りないというのか明確でない。したがって、意味のない漠とした内容となる。記者が想定している大学と読者の想定する大学が一致しなければコミュニケーションは成立しない(認知スキーマの不一致、想定類似性から生じるミスコミュニケーションの典型である)。大学人に反省という気持ちを起こさせることにはつながらない。社会部の素人が何を言っていると無視されるのがオチであろう。ただ、こういう記事を鵜呑みにする人たちが、大学にのみ責任を押しつけ、このような教育状況を招いたことに自らも責任が及ぶことを気づかないままになることを恐れる。
記事には、大学には大学自治の原則がある、補助金の額を減額される意向などの言及があるが、これらはもっぱら国立大学法人や古い大規模大学にあてはまるだけである。おそらく300大学ほどの小規模大学では、自治などもとよりないし補助金の額など経営者が気にするほどの額ではない。記者が指摘するような学習時間少ない学生がいるのは弱小大学である。偏差値が70近辺の学生から構成される基幹大学と40前後の学生も混じる弱小大学を一括りにするのは乱暴すぎるというものである。そんな低い偏差値の大学など不要というのであれば、その原因である大学設置基準の大綱化こそ問題にすべきであろう。
基幹大学の学生の学習時間は決して少なくない。とくに医系・理系の学生や院生の学習時間は気の毒なほど長いという実態を記者は知らないようである(おそらく文系の学部を出て記者になり、自分が想定する、自分が学んだ頃の大学とのギャップに愕然として、この記事を書くに及んだのだろう)。
決して高い偏差値の大学とは言い難い大学では、嘆かわしいほど基礎学力の学生がいて、学習習慣がない学生が過半数を占めることは事実で、記者がまるで義務教育だという指摘が当てはまる大学も少なくない。入学時の調査でも自宅での予復習の習慣があるというのはわずかな割合でしかない。しかし、学習習慣は義務教育で修得すべきもので、義務教育に携わる者、そして高校教育がその責めを追われてしかるべきであろう。
入学時に学習習慣がない18歳の人間に大学でそれを身に付けさせよ、授業のやり方で何とかせよというのは、過酷すぎる要求であることは発達心理学を学ばずとも分かるはずである。
別な要因も指摘しておかねばなるまい。大学生の余暇時間の過ごし方である。学生は学習をしない時間に遊び呆けているわけではない。義務教育がしっかり身についていない学生達の大半はアルバイトに忙しいのである。全部とは言わないが授業料を補填しているのである。学生の偏差値を横軸に、保護者の収入を縦軸に取れば、綺麗な1次関数直線となるはずである。
現在の日本の大学では、授業料を心配しないで学業に専念できる生活環境は整備されていない。給付型の奨学金を準備してそれでも学習時間が少なすぎると歎くのなら了解できるのだが、消費税の増加案がままならないようでは、言い出せる話ではない。記者はこのような実態を念頭には置いていないように思える。
税金がかからず簡単にできる話は、大学センター入試を止めて、高校卒資格試験に変えることである。そうすれば相応の学力やその修得の基礎となった学習習慣は構築されることにつながり、大学での教育は進捗すると考えるからである。
もう疲れたので、この辺りで終わることにするが、要は500を超えるまでになっている大学の学生(同一年齢群の半数以上の数)を一括りにした記事は、その母集団の学力及び知能分散が大きすぎ、対象とされる大学が不明確で得るところがないということである。
物事を改善する提言には、焦点を絞りそして広い視野で捉えるようにせねばと言うことであります。