大学の教員とは(12/24) | はったブログ

大学の教員とは(12/24)

 先週の土曜日に、来年度入学予定の高校生を相手に短い講演をした。入学前の高校生を相手に大学に入るまでの準備教育ということである。もちろん、このような企画は昔にはなかった。する必要がなかったわけで、大学に入学してくる若者は自分の力で新しい環境へ自力で取り組める能力があったのだが、最近はないことの反映である。これだけ情報がどこからでも探せる時代であり、高校生でも盛んに情報検索をしているのだから、そんなものは不要という指摘も可能であるが、「学生を選抜して入れてやる」時代から「学生に選択して頂いて、入学して頂く」時代になったのだから、このような企画をせねばならないのです。もちろん、学生を選抜して入学させる大学では、必要のない企画であることは自明であります。
 入学前の準備教育の真の目的は、半年も前に大学入学が決まってしまい、遊びほうけてしまっては困るので何とかせねば、とか入学前に新しい環境に馴染ませて(友人もできそうな気にさせて)、大学に入学しようとしている高校生の心変わりを防ぎたいなどの受け入れ側の思惑もある。
 先日の朝日新聞の社説に「新設大学では無責任に社会人になれそうにもない若者を卒業させて社会に放出している」という類の記事があった。無責任にという言葉には、現在の大学の実態、そしてこのような結果をもたらしてしまった文教政策の進め方にメディアは責任が皆無であるかのようで、記者の表現には呆れた。だが、世間では大学が最終的な責任を取れということのようである。私の勤める大学でも何か取り組まないとすまないというのが現状で、入学前教育をしなければならないのである。
 ともかく、僕は教育開発支援センター長ということになっているので、我が部署が企画し、実施したのである。2回大学に来てもらう計画の第1日目が先週の土曜日であった。企画の詳細は企業秘密の部分もあるので(よその大学には取られたくない、特注の企画がある、知りたい人は、誰か知り合いを入学させて下さい)触れないことにする。僕はそこでの短い講演のために、「大学とは何か」、「大学の教員とは何か」などなど少し勉強した。せっかくなので、「大学の教員とは何か」の部分だけ紹介しようというのがこのコラムの目的である。どうも最近は前置きが長い(教師と老人と坊さんが話の長いベストスリーということだから当然だけどネ)。
 ドイツをはじめとするヨーロッパの大学を除いて、大学教員には具体的な資格規定がないことが多い。我が国でも高校までは教員資格の規定があり検定があるが、大学ではない。そのような場合に大学の教員はどのような仕組みで選ばれるのかの問題である。一応、大学でも、教授は学位があるか一定の研究業績があり教育歴が××年、云々のおぼろげなものがそれぞれの大学内規にあるが、客観的基準ではないので、規制緩和の時代風潮から企業人や官僚などが大学教員になっている(教育はともかく、研究指導は無理な人が多いと聞く)。
 大学は教育と研究をすることが目的で、研究という部分だけがそれ以下の学校にはない。以下と書いたがどの国の高等教育システムでも大学が頂点になっている。そこで、研究ができる人を判断する目安は何かが重要になる。
 研究とは、「未知のことを探ることをする行為である」。「存在しないものを作り出す行為を指すものと定義できる」と講演では話した。しかし、その行為は興味関心が一致する仲間内で了解される手続きを踏んでいることが求められる、とも話した。仲間内とは学会と考えるのが至当であり、自分の行った研究が学会誌に掲載されることで仲間内からその研究は妥当であると承認されるのである。したがって、学会誌に論文が掲載されることが研究している人、できる人の通行証なのである。(我が大学ではみんな大丈夫だと、よく知らないままに言ってしまったので、間違っていたら入学後に謝るしかない)。
 読者に若い研究者が多いと想定して書くのだけれども、世間が大学は無責任に一人前でない若者を社会に放出している、などの指摘がそのうち蔓延し始める可能性が高い。そんなところに税金を配分するなと言い出す頃には、大学は大学の教員足るべき人で成り立っているか、カリキュラムは大学教育たり得ているか、という点に矛先が向けられる可能性がある。大学教員とは何かを規定されるときには教育に熱心です、だけではなく研究できていますが問われることだろう。一日二日で学会誌論文は創れない。準備に怠りなくということである。

 もう師走も残すところを10日ほどになりました。月一回のペースでコラムを書くこととしばらく大学教員でありたいので、研究をしているか、の評価規準では今年は合格!ということにして(自分の力だけでないことは了解していますヨ)、新年を迎えたいと思います。読者の皆さんも来年がよい年でありますように。