紅葉の季節に
いつもは決まった道筋を、たいていは顔なじみのおじいさんやおばあさんとすれ違いながらひたすら歩くのだが、たまたま今朝はプールが休館日であり何時もよりも時間が早かったせいで、ややゆっくり目に周りを見渡して歩くこととなった。毎朝だいたい同じ経路なのだ。強迫的に散歩をしているみたいなのは嫌で、同じ経路をひたすら辿ることは止めねばとは思うのだが、毎朝の短い時間帯での散歩は所要時間にバラツキが出るのも困るのでそうなってしまうのだ。
常々強迫的に歩いており周囲には目が向いていないのは事実で、今朝、何気なく散歩道から周りの山々に注意を向けるともう紅葉が真最中である。いわゆる里山と呼ばれる山裾には広葉樹が多く、その種類が多様なせいか、木々の葉が色づく様はいろいろで、眼を凝らすと山の稜線が幾重にも重なっていることに気づかされる。色づいている木々はブナらしい黄色いものから山桜の赤、モミジの深紅など様々で、山肌にそれぞれが自己の存在を主張するかのようで,稜線を鮮明にしている。
歩きながら周囲の草木にも注意を向けるとイチョウは全ての葉がほとんど同じ黄色の色調を示すのに、桜のように葉っぱそれぞれに紅くなる程度が異なるものがあるのに気づく。一枚の葉でも先端と軸の辺りでは色合いに違いのあるものもある。同じ種類の木でも未だ緑のままのものもあればすっかり紅くなり、はらはらと風もないのに葉を落とすものもある。それぞれが生きている土壌の栄養分のためであろうが、個性を示すのである。人間も然りということかな、注意を払わないと見えないことが多いことも。
たいていが緑色に染まっている時期には稜線の重なりはほとんど分からないが、木々が尾根沿いに異なる色合いの紅葉を見せると尾根の重なりが鮮明になる。天王山の方向でも,名前は知らないが亀岡に続くはずの方向(ハイキングで有名なポンポン山のある連なりである)でも、山々は幾重にも連なっていることに気づかされる。尾根が幾重にも連なるさまの見事な美しさに、散歩はゆっくりせねばいけないのだと思うことしきりであった。
山肌が平面ではなく幾重にも重なる様は、雨上がりのときにも観察できる。ずいぶん昔に高槻の家に英国のロビンソン先生が来たとき、雨上がりの朝に家の近辺を一緒に散歩をしたことを思い出す。当時は未だ周囲に緑も多く、せせこましい建て売りが林立するということはなかった。彼は知覚心理学の専門家であるせいか、雨上がりに雲谷(もや)が醸し出す奥行き知覚現象に声を上げ、周囲の里山の尾根の重なりが浮き上がるその美しさに驚嘆していた。イギリスには山がないものなあ、とその頃は思っただけであったが、今朝見る尾根の重なりは確かに美しい。彼とは10歳ほどが違うので、私も自然の表現する美しさを感じ取れるような年齢になったということなのかも知れない。
もっとも、イギリスには山はないと言われるがウェールズにはある(そう言えば、山が有る無しにまつわる映画もあった)。ロビンソン先生の尾根の連なりがもたらす奥行きの深さへの賛美を思い出していると、故障したままのおんぼろ車で小さい子どもを連れて、何の不安を抱くこともせずにウェールズの山岳地帯のブレコン・ビーコンを旅したことへと連想は繋がる。
ロビンソン先生には毎年カレンダーとクリスマスカードを交換して30年どころではない時間が流れた。4年ほど前に訪れた彼の自宅の広い庭のリンゴももう収穫されて、夫人は小さいリンゴから沢山のジャムを作ったことであろう。
今週中にはクリスマスカードの準備をせねばならない。その時節がもう来ているのだ
常々強迫的に歩いており周囲には目が向いていないのは事実で、今朝、何気なく散歩道から周りの山々に注意を向けるともう紅葉が真最中である。いわゆる里山と呼ばれる山裾には広葉樹が多く、その種類が多様なせいか、木々の葉が色づく様はいろいろで、眼を凝らすと山の稜線が幾重にも重なっていることに気づかされる。色づいている木々はブナらしい黄色いものから山桜の赤、モミジの深紅など様々で、山肌にそれぞれが自己の存在を主張するかのようで,稜線を鮮明にしている。
歩きながら周囲の草木にも注意を向けるとイチョウは全ての葉がほとんど同じ黄色の色調を示すのに、桜のように葉っぱそれぞれに紅くなる程度が異なるものがあるのに気づく。一枚の葉でも先端と軸の辺りでは色合いに違いのあるものもある。同じ種類の木でも未だ緑のままのものもあればすっかり紅くなり、はらはらと風もないのに葉を落とすものもある。それぞれが生きている土壌の栄養分のためであろうが、個性を示すのである。人間も然りということかな、注意を払わないと見えないことが多いことも。
たいていが緑色に染まっている時期には稜線の重なりはほとんど分からないが、木々が尾根沿いに異なる色合いの紅葉を見せると尾根の重なりが鮮明になる。天王山の方向でも,名前は知らないが亀岡に続くはずの方向(ハイキングで有名なポンポン山のある連なりである)でも、山々は幾重にも連なっていることに気づかされる。尾根が幾重にも連なるさまの見事な美しさに、散歩はゆっくりせねばいけないのだと思うことしきりであった。
山肌が平面ではなく幾重にも重なる様は、雨上がりのときにも観察できる。ずいぶん昔に高槻の家に英国のロビンソン先生が来たとき、雨上がりの朝に家の近辺を一緒に散歩をしたことを思い出す。当時は未だ周囲に緑も多く、せせこましい建て売りが林立するということはなかった。彼は知覚心理学の専門家であるせいか、雨上がりに雲谷(もや)が醸し出す奥行き知覚現象に声を上げ、周囲の里山の尾根の重なりが浮き上がるその美しさに驚嘆していた。イギリスには山がないものなあ、とその頃は思っただけであったが、今朝見る尾根の重なりは確かに美しい。彼とは10歳ほどが違うので、私も自然の表現する美しさを感じ取れるような年齢になったということなのかも知れない。
もっとも、イギリスには山はないと言われるがウェールズにはある(そう言えば、山が有る無しにまつわる映画もあった)。ロビンソン先生の尾根の連なりがもたらす奥行きの深さへの賛美を思い出していると、故障したままのおんぼろ車で小さい子どもを連れて、何の不安を抱くこともせずにウェールズの山岳地帯のブレコン・ビーコンを旅したことへと連想は繋がる。
ロビンソン先生には毎年カレンダーとクリスマスカードを交換して30年どころではない時間が流れた。4年ほど前に訪れた彼の自宅の広い庭のリンゴももう収穫されて、夫人は小さいリンゴから沢山のジャムを作ったことであろう。
今週中にはクリスマスカードの準備をせねばならない。その時節がもう来ているのだ