研究評価について
日本の大学で認証評価が始まっていることは、読者諸氏も見聞きしているかも知れない。大学は大学たり得ているかの認証評価を文部科学省の認証機関から受けなければ運営補助金がもらえない仕組みになったのである。国立大学の法人化とセットになった「大学改革」なのだ。認証機関は大学基準協会、大学評価・学位授与機構、などが行うことになっている。(どちらで受けてもよいのだが)たいていの国立大学は大学評価・学位授与機構で認証を受け(こっちの方が厳しいという)、私学の4年制大学は基準協会で受けるのが一般的になっている。大学の設置目的に合わせた教育・研究が行われているかを評価基準に照らして行うのだが、この評価について書いておこう。
認証評価は大学の経済状態等についても評価されるが、教員にもっとも身近で関連が深いのは、教育評価と研究評価である。現在、名古屋大学でも来年の認証評価に向けて資料の準備が急がれており、各部局で大わらわといったところである。教育評価は、大学や部局の教育目標に合う教育が行われているかが問われる。そのために学部の教育目標の設定、卒業生のアンケートなど様々な準備をして来ているが、このことに関わっては、大方は執行部の責任で教員個人への影響は直接的ではない。しかし、研究評価はそうではないようである。教育評価基準の作成段階で上記の認証機関で作業したことがあり教育評価の項目等は承知していた(そのために準備もした)が、研究評価の項目には疎かった。最近研究評価の項目を知り、問題があるという印象を強く持ったわけである。
今回は最初なので、研究業績等の個人レベルでの言及はないが(早晩、個人レベルになることは間違いなかろう)、各部局で、SS、S、A、...というように個人の研究業績をカテゴリー化し、それぞれのカテゴリーの人数が部局の研究評価とされている。評価の優れるカテゴリーの研究者が少ない部局や大学にはそのうちペナルティ(予算の傾斜配分という形で、最終的には存続が困難になる)ということであろう。今回の研究評価のそれぞれのカテゴリーの基準には問題があり、Sのカテゴリーでも学会での賞、nature, scienceなどの論文数が多い研究者がどれだけいるか、などというものである。理学部や医学部の研究者には適用可能かも知れないが、人文系の研究者や理学部、医学部でも該当しにくい分野の存在に配慮された項目ではない。
教育評価の指標は、それぞれの大学や部局が教育の目標を立てて(すなわち、それを価値基準として)、それに対してどれだけ実現しているかで行うことになったのだが、研究評価にはそのような議論はなかったように見える。
評価とは何らかの価値に物差を当てる行為であるが、そもそも学術研究の価値とは、研究者の研究の価値とは何かの議論があったようには思えない(あったのかも知れないが、見えない)。優れた学術研究とは、次世代に文化としての情報を伝達することができることに価値基準があるとされねばならないと僕は考えるのだ。果たして短時間に測定・評価できるのだろうかと考え込むのが普通で、とんでもなく難しい問題なのである。物差を数値で表したいという願望はブント心理学誕生時の問題と類似しており、分からないでもないが、賞の数やnature, scienceなど著名商業誌の論文の数で充当するというのは如何にも浅薄である。こういう発想が充満する分野では偽造データ問題などが出てくるのだ。学会の賞など、やたらたくさん出す研究分野と、そのようなものは、はしたないと見なす研究分野では意味合いが異なる。
インパクト・ファクターが高いとされるnature, scienceなどの論文でも引用されないもの、すなわち学術的に影響の少ないものはたくさんある。引用数が多いのが決め手というのも信頼性には疑問がないわけではない(仲間内での引用で数は増やせる)。Nature論文1本よりもインパクト・ファクター5分の1の学会誌でも4~5本書いている人の方が、学術的には優れると僕は思う。今回の評価は、過去5年間の業績に限ってのことなので、10年かかって、その後とてつもなく優れた学術貢献があるようなもの(過去のノーベル賞でもこの種の事実はある)は、評価されないことになる。文系では20年くらい勉強して始めて先生のレベルに古文書が読め、次の世代につなぐというようなことがあると思うのだが、このような研究者を評価しないのは間違っていると言えよう。
大学の教員という仕事は、好きで始めた研究分野で生計が立てられるのだから、一生懸命に研究するのは当たり前で、そうでない人が少数存在するからと言って、短兵急に事を運ぶのはいかがなものかという思いがある。だから、研究評価は止めろ、と言っても、もう遅い段階にあるのが実情である。しかし、声の大きい理系の一握りの研究者のすることに文系の研究者ももう少し対峙して議論をする必要があるとは思う。これらは、現在の社会状況、特に政治状況と類似している印象が強い。
では、どうすれば、現時点で妥当な研究評価がつくれるのかである。僕は次善の策としては、peer評価だと考えている。研究分野の事情に明るい人にカテゴリー分類をしてもらうのである。学会での論文、発表での質疑などから、自ずからあの人は偉いという評価は出来上がってくるものである。
心理学の分野でも数は少ないがNatureに論文のある人がいるが、仲間内ではその人よりも論文など滅多に書かない人の方が学術的には優れると看做される場合もある。
Peer評価では学閥やグループでの依怙贔屓が起きるので妥当性は低い、という声が聞こえそうだが、そんなレベルの人に評価を委ねない、と言うしかない。データをねつ造する研究者がいるのに何を言っているのかと攻められそうであるが、研究者の性善説を疑われると、やはり研究業績の評価など止めるのがよかろうということになる。
僕自身は、少数の研究もしないで禄を食んでいる研究者を排除できるという研究評価のメリットよりも、無駄飯かも知れないがそれらを内包できる大学社会であるべきだと思う。文明社会の文化とはそう言うものではないのか。学術研究に、社会の役に立つことを価値基準におくのも、問題が多いことは歴史が証明している。余剰生産物の創成が文明を生んだように、余剰かもしれない頭脳活動を抱え込むのが文化国家なのではないのかい、と開き直ってみたくもなる。
今回は長い文章になったが、結論を言うと、すでに研究者評価は始まっているので、当てがわれそうな物差に対応し、対峙できる知識を積んでおかないと大変な時代がくるかもしれませんよ、ということである。ちょっと疲れたなあ。
認証評価は大学の経済状態等についても評価されるが、教員にもっとも身近で関連が深いのは、教育評価と研究評価である。現在、名古屋大学でも来年の認証評価に向けて資料の準備が急がれており、各部局で大わらわといったところである。教育評価は、大学や部局の教育目標に合う教育が行われているかが問われる。そのために学部の教育目標の設定、卒業生のアンケートなど様々な準備をして来ているが、このことに関わっては、大方は執行部の責任で教員個人への影響は直接的ではない。しかし、研究評価はそうではないようである。教育評価基準の作成段階で上記の認証機関で作業したことがあり教育評価の項目等は承知していた(そのために準備もした)が、研究評価の項目には疎かった。最近研究評価の項目を知り、問題があるという印象を強く持ったわけである。
今回は最初なので、研究業績等の個人レベルでの言及はないが(早晩、個人レベルになることは間違いなかろう)、各部局で、SS、S、A、...というように個人の研究業績をカテゴリー化し、それぞれのカテゴリーの人数が部局の研究評価とされている。評価の優れるカテゴリーの研究者が少ない部局や大学にはそのうちペナルティ(予算の傾斜配分という形で、最終的には存続が困難になる)ということであろう。今回の研究評価のそれぞれのカテゴリーの基準には問題があり、Sのカテゴリーでも学会での賞、nature, scienceなどの論文数が多い研究者がどれだけいるか、などというものである。理学部や医学部の研究者には適用可能かも知れないが、人文系の研究者や理学部、医学部でも該当しにくい分野の存在に配慮された項目ではない。
教育評価の指標は、それぞれの大学や部局が教育の目標を立てて(すなわち、それを価値基準として)、それに対してどれだけ実現しているかで行うことになったのだが、研究評価にはそのような議論はなかったように見える。
評価とは何らかの価値に物差を当てる行為であるが、そもそも学術研究の価値とは、研究者の研究の価値とは何かの議論があったようには思えない(あったのかも知れないが、見えない)。優れた学術研究とは、次世代に文化としての情報を伝達することができることに価値基準があるとされねばならないと僕は考えるのだ。果たして短時間に測定・評価できるのだろうかと考え込むのが普通で、とんでもなく難しい問題なのである。物差を数値で表したいという願望はブント心理学誕生時の問題と類似しており、分からないでもないが、賞の数やnature, scienceなど著名商業誌の論文の数で充当するというのは如何にも浅薄である。こういう発想が充満する分野では偽造データ問題などが出てくるのだ。学会の賞など、やたらたくさん出す研究分野と、そのようなものは、はしたないと見なす研究分野では意味合いが異なる。
インパクト・ファクターが高いとされるnature, scienceなどの論文でも引用されないもの、すなわち学術的に影響の少ないものはたくさんある。引用数が多いのが決め手というのも信頼性には疑問がないわけではない(仲間内での引用で数は増やせる)。Nature論文1本よりもインパクト・ファクター5分の1の学会誌でも4~5本書いている人の方が、学術的には優れると僕は思う。今回の評価は、過去5年間の業績に限ってのことなので、10年かかって、その後とてつもなく優れた学術貢献があるようなもの(過去のノーベル賞でもこの種の事実はある)は、評価されないことになる。文系では20年くらい勉強して始めて先生のレベルに古文書が読め、次の世代につなぐというようなことがあると思うのだが、このような研究者を評価しないのは間違っていると言えよう。
大学の教員という仕事は、好きで始めた研究分野で生計が立てられるのだから、一生懸命に研究するのは当たり前で、そうでない人が少数存在するからと言って、短兵急に事を運ぶのはいかがなものかという思いがある。だから、研究評価は止めろ、と言っても、もう遅い段階にあるのが実情である。しかし、声の大きい理系の一握りの研究者のすることに文系の研究者ももう少し対峙して議論をする必要があるとは思う。これらは、現在の社会状況、特に政治状況と類似している印象が強い。
では、どうすれば、現時点で妥当な研究評価がつくれるのかである。僕は次善の策としては、peer評価だと考えている。研究分野の事情に明るい人にカテゴリー分類をしてもらうのである。学会での論文、発表での質疑などから、自ずからあの人は偉いという評価は出来上がってくるものである。
心理学の分野でも数は少ないがNatureに論文のある人がいるが、仲間内ではその人よりも論文など滅多に書かない人の方が学術的には優れると看做される場合もある。
Peer評価では学閥やグループでの依怙贔屓が起きるので妥当性は低い、という声が聞こえそうだが、そんなレベルの人に評価を委ねない、と言うしかない。データをねつ造する研究者がいるのに何を言っているのかと攻められそうであるが、研究者の性善説を疑われると、やはり研究業績の評価など止めるのがよかろうということになる。
僕自身は、少数の研究もしないで禄を食んでいる研究者を排除できるという研究評価のメリットよりも、無駄飯かも知れないがそれらを内包できる大学社会であるべきだと思う。文明社会の文化とはそう言うものではないのか。学術研究に、社会の役に立つことを価値基準におくのも、問題が多いことは歴史が証明している。余剰生産物の創成が文明を生んだように、余剰かもしれない頭脳活動を抱え込むのが文化国家なのではないのかい、と開き直ってみたくもなる。
今回は長い文章になったが、結論を言うと、すでに研究者評価は始まっているので、当てがわれそうな物差に対応し、対峙できる知識を積んでおかないと大変な時代がくるかもしれませんよ、ということである。ちょっと疲れたなあ。