心が洗われる・・・という言葉があります。
とてもピュアーな、純粋な心に出会ったときに、その純粋さに、その無垢な心に、自我の自分自身の心が洗われ、感動させられます。
それでは、この純粋な心とは、どんな心なのでしょうか?
それは、自我の視点の思考、感情に巻き込まれていない心なのではないかと、私は感じています。
心とは、思考、感情で構成されています。
ですから、思考、感情抜きでは、心を語ることはできません。
でも、その思考、感情が、自我の視点から起こる時、その思考や感情は、自我に巻き込まれている心です。
その思考、感情が、自我の視点から起こるものでない時、その思考や感情は、自我に巻き込まれていない心です。
真我、純粋意識から、直接、起こってきた純粋な思考、感情です。
その純粋な心に触れる時、自我の私たちは、自ずと、その本質的な、もっとも自然な、自我の視点ではない、全体性である思考、感情の心に癒され、心が洗われていくのだと感じています。
それでは、その純粋な心に、自我の自分自身が成ることが出来れば、どれだけ素晴らしいことでしょうか・・・?
でも、それは、成ることではありません。
本当は、その純粋な心が、本当の自分なんです。
本当の自分である純粋な意識、そして、その現れである純粋な心も、いつも、本当は実現されているのだと思います。
ただ、その純粋な現われとしての心が、純粋でない心、真我、純粋意識を覆い隠す障害としての心を、演じているだけなのだと思います。
その、障害として演じている、自我の視点の心の現れ、その思考、感情に気づきましょう。
その自我の視点の思考、感情に気づく時、自我の視点から価値判断するその思考無しにただ見る時、その偽りの、演者としての分離の思考、感情は、生き延びることはできません。
本物のその気づきの元では、偽物は、消えていくしか無いようです。
これが、本物の唯一実在する純粋意識の気づきの力です。
この気づきの力により、偽物である自我の視点の思考、感情は洗い流されます。
そして、そこに残るのは、いつも変わらずそこに在る純粋意識、気づきです。
そのいつも在る純粋意識、気づきの現れである、純粋意識から直接起こっている思考、感情が、純粋な心です。