SILENCE

SILENCE

探求の終わりについて書き留めていけたらいいです。
もう苦しみを終わりにしたい、本当に目覚めたいと思っている方に読んでほしいです。

私の非二元への探求の実践の記録です。
時間のある方は最初から日付順に読むのをお勧めします。

本当の自分を探している方へ


本当の私、真我、純粋意識とは何でしょうか・・・?


私も、わからなくて、ずっと探していました。


自我の私とは、何か別のものだと思っていました。


でも、実際は、こんなに身近に、あたりまえに存在していました。


本当の私を、直接、自分で掴んでみてください。


少しづつでいいですから・・・(‐^▽^‐)



ダイレクトに指し示していると思っている記事です。



テーマ: 今にある      ”今にあるって?”     ←これが、存在の感覚です。


テーマ: 今にある       ”本当のあなたは、存在の感覚”

テーマ: 私は意識です   ”あなたは、意識です”


      補足 テーマ: 私は意識です    ”私という参照点”



存在の感覚とは・・・


テーマ: 探求の終わり    ”私は在る、存在の感覚・・・”

 



探求の道標にと想い、書いてみました。  


 ”自分に戻ること、自分を見つめること、自分に気づくこと・・・”   2019/03/03


 ”力を抜くこと・・・”   2019/03/30

 

 ”あるがまま・・・”    2019/04/15




 ”自我という思考に気づく・・・”    2019/08/04


 ”自由、平和、幸せ・・・”   2019/08/13


 パワースポットと、真我、純粋意識との関係・・・ ”  2019/08/15


 ”気づきの力・・・”    2019/08/18


 ”純粋な気づきと、努力との関係・・・”  2019/08/24

 

 ”自我という対象に気づく・・・”    2019/08/26


 ”目覚めていないという思考、感覚とは・・・”    2019/08/28



 ”私とは誰か?”     2019/09/11


 ”サット(存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)・・・”     2019/09/14



 ”関係性と期待という、自我を縛る二大要因・・・”     2018/09/24


 ”感情、感動を超えて行く・・・”       2019/09/26


 ”輪廻転生や前世と、真我、純粋意識との関係・・・”      2019/10/04


 ”感動を超えて・・・”       2019/10/08


 ”自分の物語に気づく・・・”      2019/10/15


 ”苦しい時、悲しい時、寂しい時の、基本的な姿勢・・・”     2019/10/17 

 

 ”自分を捨てると、自分が純粋になる・・・”      2019/10/26


 ”全てを捨てる・・・”       2019/10/28


 ”楽しむということ・・・”      2019/11/23


 ”もっとも、純粋で、美しいもの・・・”      2020/03/15


 ”人生とは・・・”        2020/03/25


 ”心を、真我、純粋意識に溶け込ませる・・・”       2020/04/13

 

 ”真我、純粋意識への目覚め・・・”         2020/04/28


 ”自我を探究し、自我を見究める・・・”         2020/05/17


本当のあなたが、見つかる助けとなれば、嬉しいです。




 

私にとっての一番の願いは自我を明け渡し、捨てることです。

 

でも、未だにそれは起こって来ません。

 

 

そして、相変わらず起こって来るのは、自我の浄化です。

 

もう、このプロセスは30年近く続いています。

 

とことん、自我を浄化してクリアーに純粋になることが私に課せられた道の様です。

 

まあ、自我が浄化されることとは、結局は、自我が消えることではあるんですが、、、笑

 

 

 

 

追記)

単純に浄化と書いてしまいましたが、浄化には深い気づきと理解が必要です。

その深い気づき、理解が潜在的な心の思考、感情の障害を浮き上がらせてくれます。

 

又、その深い気づき、理解による浄化を引き起こす為には、心の純粋性であるサットヴァ、その姿勢である誠実さ、真摯さ、謙虚さが必要です。

 

地道な努力です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現れの中で、自我の私は、静寂である安らぎを求めます。

 

そこへ帰ろうとします。

 

自我にとって嫌なことや苦しい時は、もちろんですが、興奮や感動と言った現れの後でも、同じ様に安らぎを求める心があります。

 

興奮や感動と言った現れは、すぐに離れて行ってしまいます。

 

そのことを、自我である心が知っているからです。

 

静寂である心の中にしか、本当の安らぎをもたらせてくれる場所がないことを心が知っているからです。

 

 

今、私に起こっている、やっている、やろうとしていることが、ニュースレターSILENCEにそのまま全て書かれていました。

 

参考までに、抜粋してご紹介しておきます。

 

 

 

『アクシャラ・マナ・マーライ』

 

ノチュール師の講話から(5)

 

 

心が働くのを許した瞬間に、時間、空間、努力、気質、心、性格、他者などのすべてが、真空の空間に押し寄せます。

カーラ(時間)、カルマ(行為)、スワバーヴァ(自性)はすべてマーヤが持ち込むものです。

心という長いロープを許すや否や、それで自分の首を吊るすことになります。

心がたちまち「私は行為者だ、享受者だ」という感覚を運んできて、腐敗が始まるからです。

 

 

バガヴァーンは、私達を無知からだけでなく、知識からも救ってくださいました。シャストラ・ヴァーサナとは不要な知識、すなわちアートマ・ヴィデヤーではない知識のことです。

バガヴァーンはこれをマーラリブと呼ばれました。

肥大した心、愚鈍になった心は、ハートに定まることを拒みます。

バガヴァーンがある帰依者に言われました。

「唯一必要なのは、心を鎮めてハートに留まるように訓練することだ。心を内なる静寂に浸しなさい。内なる平安と言う湖に、心を繰り返し浸して、その状態に馴染ませなさい。

すると、心は徐々に自らの本質を悟って、二度とそこを離れなくなる。これが、なすべきサーダナだ」

 

赤ん坊の頃から、心は外に向かうように訓練されます。

「こっちを見てごらん」

「あれを見てごらん」

「これは何だろう?」。

バガヴァーンというグルに出会えた最大の祝福は、注意が内向きになることです。

これがアンタルムカです。

 

*****

 

『ヨーガ・ヴァーシシタ』には「チット(純粋意識)がチッタム(心)を飲み込む」という美しい表現があります。この過程はすべて内側で生じます。内側で、真我が心を美味しそうに飲み込むのです。

ですが、真我に飲み込まれる心には、覚悟が必要です。

バガヴァーンが「腐った果実」と呼ばれた鈍感で活気を欠いた心ではなりません。

ヴェーダーンタのサーダナの目的が、心を浄化して成熟させ、ハートに落ち着かせることへと向けられるのは、そのためです。

鎮まってハートに入る準備ができた心は、沈黙、静寂シャンティの味わいを知っています。

 

*****

 

『ラリタシャストラナム』には、ビシャタントゥという言葉があります。これは、蓮の茎の中を通る髪の毛のように極めて細い筋のことです。

私達は、ハートの中でこのビシャタントゥのように精妙なアハム・スフルティ(「私」という脈動)に気づいて、それを他のすべての想念から区別できねばなりません。

これについては、大変美しい譬え話があります。

ある人が、息子が学んでいるヴェーダ・パターシャラ(ヴェーダの詠唱を学ぶ学校)を訪れました。

数百人の少年が読経する声に耳を傾けていたこの父親は、しばらくすると息子の声を聞き分けられるようになりました。

さらに、息子がどのように読経してるのかに注意を向け続けていると、やがて息子の声だけが聞こえるようになったのです。

ビシャタントゥを選り分ける、とはそういうことです。

 

これと同じで、心は常に想念、感情、イメージで溢れ返っています。

真我を探求するヨーギには、いかなる時にもこの「私ー私ー私」を選り分けて、アハム・ヴリッテイ(「私」と言う想念)を観察することができるのです。

この観察によって、アハム・ヴリッテイがハートに溶け込むと、シャンティ、静寂がそこを支配するようになります。

鈍った心(タモーグナ)や落ち着きを失った心(ラジョーグナ)には、このような探求はできません。

ですから、グナに直接作用する食事を始めとした一連のサーダナはどれもが、心を浄化して準備するためのものなのです。

 

こうして他の想念から選り分けられたアハム・ヴリッティは、もはや想念ではなく、純粋意識として、アハム・スフィルティとして現れます。そして、それを内に保持できるようになることが、バガヴァーンが「ナラム」と呼ばれた吉祥の極みであり、シャンティです。

そこには、感覚や身体的な思いや、行為者や享受者としての思いはありません。

静寂、シャンティだけがあるのです。

 

*****

 

バガヴァーンは心という果実を腐らせることなく、新鮮に保つように詠われました。動き回って汚れた身体を洗い流すように、座っているだけでも世俗の汚れにまみれる心を洗わねばなりません。

ここで、瞑想がとても重要になるのです。

バガヴァーンは、「落胆することなく、退屈することなく、そして喜びをもって、常にこの過程を続けなさい」と言われます。

喜びをもってとは、油断なく見張ると言うことです。

唯一為すべきは、内なる宝を覆っているヴェールを剥ぎ取ることです。

 

 

https://mcusercontent.com/8e888c543be244c5e5fb7ad06/files/705b6db6-c363-f9c6-9260-3dbea149e744/Silence_July_2024.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この現れは、自我にとって辛いことの方が多いです。

 

でも、それは、この自我を捨てる為に用意されていることです。

 

 

そんな現れの中で、たまに、やはり、私は守られているな、導かれているなと感じられる出来事が起こって来ます。

 

そんな現れが、辛いことにも耐えられる自分を作ってくれます。

 

自分に起こっていることを冷静に見つめ、起こっていることの意味を気づかせてくれます。

 

そして、信頼が育って行きます。

 

 

この信頼が、自分を捨て明け渡すことを可能にしてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事からちょうど一ヶ月が経ちました。

 

前回の記事では、非二元の真実を書きました。

 

最も大切な真実です。

 

 

その真実に留まることが出来れば、全ては終わります。

 

でも、それは、現実と呼ばれる現れを否定することではありません。

 

その現れの根底に、真実である決して変わることのない静かな平安、何ものにも侵されることがない幸せがあることを、指し示しているだけです。

 

 

私たちは、その真実に生きていません。

 

ですから、私たちは、現れの現実に生きるしかありません。

 

 

私達は、その現れの自我の生み出す現れである欲望に、常に駆り立てられています。

 

今のままではいけない、もっと成長したい、もっと豊かになりたいと言う思い、願いです。

 

 

この思考が強すぎれば、それは執着となり、苦しみを産んで行きます。

 

でも、この思考である欲望が無ければ、今の自我の状態で停滞してしまいます。

 

 

欲望とは、諸刃の剣です。

 

欲望とは障害そのものであり、そして、その障害から抜け出る道具でもある訳です。

 

 

道具である欲望に巻き込まれず、その欲望の流れに逆らわず乗っかっていることです。

 

でも、最後には、その自我を真実へと導いてくれる、道具である欲望が障害になっていることに気づくことです。

 

 

このことに、完全に気づき、本当に離れた時に、全てが終わります。

 

 

 

 

追記)

最近は、現れの自我の現れの役割に忙しい毎日を送っています。

こんなことでいいのかと、迷いや焦りも生じて来ます。

でも、一見、遠回りに見える、そんな現れの生活が、今の現れの自分には必要なんだと思えています。

そんな何気ない現れが、今の自分を何故か純粋にして行ってくれます。

現れの人生とは、不思議なものです。

決して、自我の自分には予想したり、計算したり出来るものではありません。