現れの中で、自我の私は、静寂である安らぎを求めます。
そこへ帰ろうとします。
自我にとって嫌なことや苦しい時は、もちろんですが、興奮や感動と言った現れの後でも、同じ様に安らぎを求める心があります。
興奮や感動と言った現れは、すぐに離れて行ってしまいます。
そのことを、自我である心が知っているからです。
静寂である心の中にしか、本当の安らぎをもたらせてくれる場所がないことを心が知っているからです。
今、私に起こっている、やっている、やろうとしていることが、ニュースレターSILENCEにそのまま全て書かれていました。
参考までに、抜粋してご紹介しておきます。
『アクシャラ・マナ・マーライ』
ノチュール師の講話から(5)
心が働くのを許した瞬間に、時間、空間、努力、気質、心、性格、他者などのすべてが、真空の空間に押し寄せます。
カーラ(時間)、カルマ(行為)、スワバーヴァ(自性)はすべてマーヤが持ち込むものです。
心という長いロープを許すや否や、それで自分の首を吊るすことになります。
心がたちまち「私は行為者だ、享受者だ」という感覚を運んできて、腐敗が始まるからです。
バガヴァーンは、私達を無知からだけでなく、知識からも救ってくださいました。シャストラ・ヴァーサナとは不要な知識、すなわちアートマ・ヴィデヤーではない知識のことです。
バガヴァーンはこれをマーラリブと呼ばれました。
肥大した心、愚鈍になった心は、ハートに定まることを拒みます。
バガヴァーンがある帰依者に言われました。
「唯一必要なのは、心を鎮めてハートに留まるように訓練することだ。心を内なる静寂に浸しなさい。内なる平安と言う湖に、心を繰り返し浸して、その状態に馴染ませなさい。
すると、心は徐々に自らの本質を悟って、二度とそこを離れなくなる。これが、なすべきサーダナだ」
赤ん坊の頃から、心は外に向かうように訓練されます。
「こっちを見てごらん」
「あれを見てごらん」
「これは何だろう?」。
バガヴァーンというグルに出会えた最大の祝福は、注意が内向きになることです。
これがアンタルムカです。
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『ヨーガ・ヴァーシシタ』には「チット(純粋意識)がチッタム(心)を飲み込む」という美しい表現があります。この過程はすべて内側で生じます。内側で、真我が心を美味しそうに飲み込むのです。
ですが、真我に飲み込まれる心には、覚悟が必要です。
バガヴァーンが「腐った果実」と呼ばれた鈍感で活気を欠いた心ではなりません。
ヴェーダーンタのサーダナの目的が、心を浄化して成熟させ、ハートに落ち着かせることへと向けられるのは、そのためです。
鎮まってハートに入る準備ができた心は、沈黙、静寂シャンティの味わいを知っています。
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『ラリタシャストラナム』には、ビシャタントゥという言葉があります。これは、蓮の茎の中を通る髪の毛のように極めて細い筋のことです。
私達は、ハートの中でこのビシャタントゥのように精妙なアハム・スフルティ(「私」という脈動)に気づいて、それを他のすべての想念から区別できねばなりません。
これについては、大変美しい譬え話があります。
ある人が、息子が学んでいるヴェーダ・パターシャラ(ヴェーダの詠唱を学ぶ学校)を訪れました。
数百人の少年が読経する声に耳を傾けていたこの父親は、しばらくすると息子の声を聞き分けられるようになりました。
さらに、息子がどのように読経してるのかに注意を向け続けていると、やがて息子の声だけが聞こえるようになったのです。
ビシャタントゥを選り分ける、とはそういうことです。
これと同じで、心は常に想念、感情、イメージで溢れ返っています。
真我を探求するヨーギには、いかなる時にもこの「私ー私ー私」を選り分けて、アハム・ヴリッテイ(「私」と言う想念)を観察することができるのです。
この観察によって、アハム・ヴリッテイがハートに溶け込むと、シャンティ、静寂がそこを支配するようになります。
鈍った心(タモーグナ)や落ち着きを失った心(ラジョーグナ)には、このような探求はできません。
ですから、グナに直接作用する食事を始めとした一連のサーダナはどれもが、心を浄化して準備するためのものなのです。
こうして他の想念から選り分けられたアハム・ヴリッティは、もはや想念ではなく、純粋意識として、アハム・スフィルティとして現れます。そして、それを内に保持できるようになることが、バガヴァーンが「ナラム」と呼ばれた吉祥の極みであり、シャンティです。
そこには、感覚や身体的な思いや、行為者や享受者としての思いはありません。
静寂、シャンティだけがあるのです。
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バガヴァーンは心という果実を腐らせることなく、新鮮に保つように詠われました。動き回って汚れた身体を洗い流すように、座っているだけでも世俗の汚れにまみれる心を洗わねばなりません。
ここで、瞑想がとても重要になるのです。
バガヴァーンは、「落胆することなく、退屈することなく、そして喜びをもって、常にこの過程を続けなさい」と言われます。
喜びをもってとは、油断なく見張ると言うことです。
唯一為すべきは、内なる宝を覆っているヴェールを剥ぎ取ることです。
https://mcusercontent.com/8e888c543be244c5e5fb7ad06/files/705b6db6-c363-f9c6-9260-3dbea149e744/Silence_July_2024.pdf