天の声(499=1年+134)AI二年(96)日本国の再生(473)光(466)令和三年(96)
令和三年 2021年2月22日 One Team 二年
閃き!!!
『震災復興 啓示四百五十六【1年+91日】(平成28年熊本地震復興第百七十三/平成30年7月豪雨復興第百十一)/平成30年北海道胆振東部地震第百六/令和元年長野新潟千葉福島宮城関東東北地域豪雨復興第九十六)/COVID-19(第七十八)/令和二年熊本球磨川・九州北部筑後川・岐阜飛騨川・長野木曽川7月豪雨洪水復興(第六十)/令和二年山形最上川豪雨洪水復興(第四十七)/令和二年史上最大台風10号災害復興(第二十八)』(2021年第十一信)として、 日本国民の皆様にお伝えします。
真実を核に置き、 「この世界の矛盾」を解いていきたい。 第百四十二弾 One Team 二年
Change nonsense Democracy to Super Great one (One Team) LXXXV
ナンセンスな民主主義を進化させ、 崇高なものに変えよう LXXXV

1)驚愕の低金利
今、 日本は、 オリンピック運営者の問題から、 その他、 諸々の事で、 世界から注目されている。 特に、 コロナは世の中の仕組みに楔を打ち込んだ。 その混乱の中、 大銀行(預金の満期連絡もなく、 不動の預金通帳からは、 預かり料を取る等、 信じられないシステムで銀行運営をしている)内容をチェックしたところ、 長期定額預金に於いても、 0.0000888%の超低金利で運営している事が分かった。 更に、 他銀行の場合は、 定額預金開始時期の金利で運営されているところ、 当該銀行は、 現行の「0.0000888%の超低金利」を採用している。 国民が汗水流して稼いだ貴重なお金がこのような扱いをされている。 一般国民はこの事に気づいているのだろうか。
「国民の為の仕事をする」という政府は、 何んという国民の財産管理運営をしているのだろうか。 現時点でも、 旧態依然たる自らの利権乱用をしている。 そんな中、 デジタル、 デジタル等と国民の目を誤魔化すが如く、 血の通うアナログを捨てて、 危険極まりないデジタルのシステムを採用しようとしている。 哲学無き、 他力本願の無責任な所業である。
2)世界の有り様
他国も様々な問題を抱え、 生きている。 軍隊(自国民を守る)が国民を射殺するという国家まで存在している。 世界194の独立国歴訪でも痛感したことだが、 人間は最初から「争い(戦争)」から出発している。 これは人間の業であり、 時間をかけて、 自由、 平等、 隣人愛等という平和に繋がる概念を持ち出して、 生きて来たが、 どうしても、 当初の「争い(戦争)」から抜け切ることが出来ない。
そこで、 助けを求めたのが、 『AI(Artificial Intelligence)人間』である。 生身の人間では得られない「世界平和」を願って。 勿論、 哲学を有する生身の人間ありきの人間社会展開である。 何故ならば、 生身の人間の中にも、 8割を越える方々が平和を望んでいると考えるからである。 可能性は十分にある。
3)人間の身体の有り様(ノーベル賞受賞科学者のメッセージ含む)
過去のブログを検索する中で、 「ノーベル賞受賞科学者、 ノーベル物理学賞受賞南部陽一郎・シカゴ大学名誉教授、 ノーベル物理学賞受賞小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授と益川敏英・京都大学名誉教授、 ノーベル化学賞受賞下村脩・海洋生物学研究所特別上席研究員の方々の生き方に一貫して流れているのは、 自分を信じること、 歴史の実績に真摯に耳を傾け、 科学の発展を夢見、 自分の目標に向かいひたすら生きておられる姿に深い感銘を受けた。 読者共々、 我が人生の道標として受け止めたく思っている。」という内容の記述が出てきた。
ノーベル賞受賞科学者の方々の物語の前段として、 「2009年07月25日付け私小説の中の医療に関する部分抜粋(1) 私小説「多逢聖因 PARTⅡ ― ひとは、 邂逅によりどこまで成長できるか (9)」から医療に関する部分を抜粋したもの。」を掲載している。 私小説の中のT氏は「T氏 = Thackery」である。
2009年07月25日付け掲載
私小説の中の医療に関する部分抜粋(1)
私小説「多逢聖因 PARTⅡ ― ひとは、 邂逅によりどこまで成長できるか (9)」から医療に関する部分を抜粋したもの。
T氏は今、 人間の身体の有り様をつかみつつある。 つかみつつあるとは、 人間の中身は単純な反面、 とても深淵なのである。 今度の出会いは、 「水」であった。 その名は「創生水」。 効能は後に述べるとして、 その誕生秘話に大変興味を持った。 まず、 父親から子へのメッセージ。 「自分のことを考えるな。 自分は人に助けられて生きている。 そして自分も人を助けるために生きなさい。 助け合うことが大切なんだ。」 「創生水を作るきっかけになったのも、そんな教えの中にありました。」と言う。 更に、 物語はつづく。 「一緒に川に出かけたときのことです。 父は私にいつものように自然と人間の関係について、 『いいか利春、 自然と人間は一体だ。 川を汚せば人間の血液が汚れ、必ず人間は病気になる。だから川を汚してはいけない。』と、 話してくれました。」「汚れた千曲川を見てから、約十年の年月が流れていました。 十年間かけて、やっと洗剤を必要としない水、 創生水が生まれたのでした。 きれいな水が流れる川に戻したい。 そのためには、 川を汚さない方法を生み出さなければ。 そして、 その方法は、私が守ろうとしていた水にあったのです。 父が私にうるさいほど小言を言わなければこんなふうにはしていなかったでしょう。 その教えのおかげで創生水が生まれたのです。」と。 誕生物語の一節である。 そこには、 崇高な人間愛がある。 氏の日常の施術と符号するところがある。 氏も患者と接する度に思うことがある。 「医療は何でもう少し早く、 適切な手を打ってくれていなかったのだろう。 階段から落下して頚椎狭窄症になってから20数年が経過している。」 勿論、 氏の数回の施術で快方に向い、 余裕の出てきた患者から「先生に電話したときは実は死にたい位辛かった。」と驚愕の告白を受けていた。 そのとき、 氏は思う。 20数年という年月は辛い日々であったろうと。 また、 氏はこうも思う。 過ぎ去ってしまったことは仕方ない。 将来に向い前進するしかないと。 この「創生水」も何とか活用したいものだと。 次に、 創生水の効用を記す。
●創生水: 波動が高い水
創生水は高い波動(エネルギー)があり、身体のエネルギーを高める働きがある。 現在は、 波動を測定することができ、 数値化して表すことができる。
・MRA (Magnetic Resonance Angiography) 磁気共鳴血管画像による波動測定
項目 東京都水道水 創生水 差
癌 0 +12 +12
免疫 -2 +14 +16
糖尿病 0 +13 +13
アトピー -2 +12 +14
胃潰瘍 0 +15 +15
痴呆 -4 +14 +18
・(注) 社団法人 日本緑十字 国際波動研究所の調査結果(-20~+20の数値評価)
-3以下生態に負担 -2~0水道水 +1~+4 浄水器・蒸留水 +5~+9一般的なミネラルウォーター +10~+14優柔な水 +15以上 癒し効果のある水 。
→ このように、「創生水」は洗浄水・還元水・活性水素水・波動水の4つの特徴を持っている。 クラスターが小さく、 還元力もあり、 活性水素と高い波動があれば、 人体にも大きな好影響がある。
2009年07月09日付け掲載
ノーベル賞受賞科学者に聞く
●ノーベル物理学賞受賞南部陽一郎・シカゴ大学名誉教授
・「素粒子物理学における『対称性の破れ』を理論的に説明した。」と言っても何のことか分からないだろう。 そこで南部名誉教授の分かりやすい説明を紹介する。 ノーベル賞受賞の記者会見での話。 「みんなが私の方を向いている。 これは本来おかしいことです。 物理法則には、 『どちらを向け』という決まりはないはずだからです。 だから、 どちらを向いてもいいはずなのに、 なぜみんながそろって私の方を向いているのだろうと。 もちろんその理由は、 私がいるからですね。 つまり、 『私』という刺激さえあたえれば、 どちらを向いてもよかったはずの顔が、 特定の方向に並んでしまう。 これが『対称性の自発的な破れ』とよばれるものです。」 つまり、 「本来はどちらを向いてもよい」という性質が「対称性」で、 「それにもかかわらず、 ひとりでにどちらかを向く」という現象が「対称性の自発的な破れ」ということになる。 とにかく科学の進歩に大きく貢献する理論であることは間違いない。
・まとめとして、 南部博士の若い人たちへのメッセージを紹介する。
⇒ 「私自身の経験からいえば、 大事なことは、 大きな夢をもつこと。 そして、 自分の好きなことをやること。 何より、 楽しむことが大事ですね。」
●ノーベル物理学賞受賞小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授と益川敏英・京都大学名誉教授
・「どんなに高性能の望遠鏡でもいまだ観測できない宇宙初期の世界。 そこでは、 『粒子』と『反粒子』が同じ数だけ存在していたといわれている。 ところが、 今の世界にあるのはほとんどが粒子だ。 反粒子はなぜ消えたのか。 このなぞにせまるのが、 小林誠・益川敏英両博士が打ち出した小林・益川理論である。」
・消えてしまった「反粒子」
素粒子物理学の世界では、 すべての「粒子」には電荷を反対(プラスをマイナスに、 マイナスをプラスに)にした「反粒子」が存在する。 また、 粒子と反粒子は、 必ずペアで生まれ(対生成)、 ペアで消滅する(対消滅)。 つまり、 どちらか一方が多くなることはないはずである。 しかし、 私達の世界のほとんどすべては、 粒子でできた「物質」である。 もし「反物質」が存在すれば、 対消滅がおきてしまうので私達は存在しないことになる。
・「対称性が破れる」とは
では、 なぜ反粒子は消えてしまったのだろうか。 反粒子を消滅させるための条件は三つあると考えられている(サハロフの3条件)。 そのうちの一つが、 「CP対称性が破れていること」であるという。 これは、 いいかえると、 「粒子と反粒子の性質に差があること」といえる。 粒子と反粒子の間にわずかでも差があれば、 対消滅がおきずに粒子だけが残り、 現在のような世界が出現することにつながるかもしれない、 と考えるのだ。 1964年には、 「中間子」という粒子において、 およそ1000分の1の確率で対称性が破れることがあることが発見された。 それまで存在しないと考えられていた「粒子と反粒子の差」がみつかったのである。
・なぜ「破れ」がおきるのか。
では、 なぜこのような破れはなぜおきるのだろうか。 1972年、 当時28歳だった小林博士と、 32歳だった益川博士はその解明に乗り出したのである。
粒子をどんどん小さく分割していくと、 それ以上は分割できない粒子である「素粒子」にたどりつく。 原子は、 原子核と電子で構成されているが、 原子核はさらに陽子と中性子でできていて、 これらは「クォーク」という素粒子が集まってできている。
小林・益川両博士は、 「クォークは4種類」という条件のもとで、 CP対称性の破れをおこさせる方法を数学を使って考えた。 しかし、 どのような方法を使っても、 破れをおこさせることができなかった。 比喩的にいうと、 CPの鏡に映った粒子と元の粒子とでは、 まったく同じ割合でしか軽い粒子を生じなかったのである。
※Cは荷電共役変換(charge conjugation transformation: 粒子を反粒子へ反転する)、Pはパリティ変換(parity inversion transformation: 物理系の鏡像を作る)を意味し、CPはこれら二つの演算子の積である。 強い相互作用と電磁相互作用はCP変換の元で不変であると考えられているが、弱い相互作用による崩壊では、この対称性がわずかに破れている。
そこで新たに考え出したのが、 クォークの数を6種類と仮定することだった。 この条件で計算を行うと、 粒子と反粒子の間で、 生じる軽い粒子の割合にちがいがうまれた。 計算上は、 CP対称性の破れをおこすことができたのである。
4種類では不可能で、 6種類だと破れを引き起こすことができた理由は、 一部のクォークの“変身のしやすさ”に粒子と反粒子の間で差が生じたためと考えることができる。 これは、 実際の計算では、 変身のしやすさをあらわす式(行列式)の中に「複素数」という特別な数が登場するために生まれる差である。
・実験で確かめられたのは30年後
こうして誕生した「小林・益川理論」であるが、 理論が実験に追いついたのは、 発表されてから30年後のことだった。
また、 両博士が予言した残りの三つのクォークもその存在が確認された。 若い二人が考えだした理論は、 現代素粒子物理学の根幹である「標準モデル」の重要な柱でありつづけている。
○まとめとして、 両博士のメッセージを紹介する。
・小林誠博士: 「素粒子だけではなくて、 科学は多方面に進んでいて、 最先端のおもしろいことはたくさんあります。 いろいろなことに興味をもって、 勉強してほしいですね。」
・益川敏英博士: 「僕の部屋には、 物理の本はほとんどありません。 数学の本が3架、 あとは言語学の本です。 知的好奇心をもつことや、 あこがれを抱いて、 広くいろいろなものにふれるのは大事なことだと思います。 研究をするうえでは専門的な勉強はもちろん不可欠です。 しかし、 専門的なことと同じ力を入れるのは無理ですが、 50%くらいの力でいろいろな分野をのぞいておくことも大事でしょう。 そういうことは、 曲がり角にきたときにどちらに行ったらいいかを考える手助けになります。」
●ノーベル化学賞受賞下村脩・海洋生物学研究所特別上席研究員
・「『緑色蛍光タンパク質GFP(Green Fluorescent Protein)の発見と応用方法の開発』に貢献し、 オワンクラゲがもつGFPを世界ではじめて発見し、 その発光機構を解明した。」ことでの受賞。
・下村博士の言。 「年に5万~10万匹のクラゲを、 手綱で1匹1匹とりました。 そうしないと、 光を放つ『発光器』がこわれてしまうんです。 僕と家内、 ジョンソン夫妻、 アシスタントたちで取りました。 クラゲは縁だけが光るので、 縁を2~3ミリの幅で1匹1匹切り取って集めます。 それを硫酸アンモニウムで処理してガーゼでしぼると、 発光する細胞の懸濁液が得られます。 今度はその液を、 カルシウムの濃度を下げる『EDTA』という薬を含む溶液に入れます。 こうして得た抽出物を、 プリンストンに持ち帰って精製しました。 1962年のはじめには、 発光物質がタンパク質であるとわかりました。 カルシウムがあると発光するタンパク質。 それが『イクオリン』です。」
・GFPは「イクリオンの副産物」だった。 下村博士は1979年に、 GFDの発光団(発光の本体)の構造を明らかにした。 その結果、 GFDの発光団は、 GFDをつくるアミノ酸の鎖のうち、 3個のアミノ酸の鎖がつくるリング状の構造であることがわかった。 つまりGFDには、 イクオリンにおけるセレンテラジンのような小分子は必要なく、 タンパク質それ自体が光るのである。 このように、 タンパク質自体が自分の中に発光団をつくる天然の発光物資は、 GFDのほかには知られていないという。
1992年には、 GFDをつくる遺伝子の配列が明らかになった。 これを受けて、 コロンビア大学のシャルフィー博士は大腸菌や線虫の体内にGFD遺伝子を送り込み、 そこでGFDを光らせることに成功したと1994年に報告した。 また、 カリフォルニア大学のチェン博士は、 GFDの構造を改変して、 より安定で強い光を放つGFDをつくりだした。 さらには、 緑色だけではなく、 赤や黄色など、 さまざまな色の発光タンパク質をつくりだすことに成功した。
こうした技術の登場によって、 GFDを使って特定の細胞やタンパク質の挙動を追いかける「標識」の手法が確立し、 生物学者の間で広く普及した。 イクリオンにつづいて、 下村博士の発見したGFDも、 生物学の研究現場に欠かすことのできない強力なツールとなったのである。
・まとめとして、 下村博士のメッセージを紹介する。
「役に立たないからやめなさい、 といわないことでしょうね。 一度面白いと思ってやりはじめたのなら、 むずかしいとか経済的でないとかいわずに、 とことんまでやるべきです。 そうすれば道は開けるのではないでしょうか。」
→ ノーベル賞受賞科学者、 ノーベル物理学賞受賞南部陽一郎・シカゴ大学名誉教授、 ノーベル物理学賞受賞小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授と益川敏英・京都大学名誉教授、 ノーベル化学賞受賞下村脩・海洋生物学研究所特別上席研究員の方々の生き方に一貫して流れているのは、 自分を信じること、 歴史の実績に真摯に耳を傾け、 科学の発展を夢見、 自分の目標に向かいひたすら生きておられる姿に深い感銘を受けた。 読者共々、 我が人生の道標として受け止めたく思っている。
2009年07月13日付け掲載
私小説の中の医療に関する部分抜粋(2)
私小説「多逢聖因 PARTⅡ ― ひとは、 邂逅によりどこまで成長できるか (10)」から医療に関する部分を抜粋したもの。
氏が創生水のことで思いを巡らしていたとき、 書斎の電話が鳴った。 ここは伊勢神宮近くの別荘である。 一ヶ月近くここを離れ、 温泉地巡り等をやっていたが、 一段落したので戻り、 今朝も通常の散歩に出、 いつものライフスタイルに戻りつつあった。 その電話は、 中国の医療留学を終え、 日本でいよいよ東洋医学をベースに医療の仕事を開始しようとしている20代半ばの青年であった。 肝心なときは必ず氏にメール或いは電話で連絡を取ってくる。 ベスト医療パートナーの関係にあった。 氏の施術力に絶大な信頼を置いており、 中国中医薬大学留学終了という肩書きを持ちながら、 氏には一目を置いていた。 氏は氏で自分に相当な自信を持っていた。 ある患者から、 「この病は治る可能性があるでしょうか。」と、 質問を受けたとき、 「今までの経験からは、 治らないとは言えませんね。」と言う程の自分の施術力に対する自信である。 患者の脈を取り、 身体を診ていると治療のポイントが次々と見えてくるのである。 今読んでいる「ヒトは遺伝子を傷つけて病気になる」という本からも、 大きな指標を学び取っていた。 つまり、 「高血圧の長寿村の話をしたが、 異常がありながら八十歳、 九十歳まで生きる人は存在する。 そのことが、 その人が持つ遺伝子によるものなのか、 生活環境等の環境因子によるものなのかはまだ解明されていない。 しかし、 その背景に何らかの“生き残る素質”があることは確かだ。 家系的になりやすい病気がありながら、 そうならない人もいる。 これもまた、 環境因子とは別に生き残る素質が見え隠れしているように思えてならない。」「すでに生活習慣病が遺伝子によって起きることは解明されてきているのだから、 これからの健康管理も、 最初に『遺伝子ありき』からはじめていく時期にきているのではないだろうか。 検査に比重を置く現行の健診も、 最初に遺伝子における体質(素因)をつかみ、 その素因が影響を受ける生活習慣の問診と改善のアドバイスだけで、 遺伝子損傷を防ぐことが可能になるかもしれない。」等等、 最近の氏は病気の核心に近づいていた。
2009年07月15日付け掲載
私小説の中の医療に関する部分抜粋(3)
私小説「多逢聖因 PARTⅡ ― ひとは、 邂逅によりどこまで成長できるか (11)」から医療に関する部分を抜粋したもの。
更に、 遺伝子の話はつづく。 「遺伝子を傷つける活性酸素の存在。 私たちは病気や不調、 あるいは早すぎる老化ということを、 とても表面的な『症状』としてとらえる癖がある。 しかし、 病気や不調の始まりの根底は、 遺伝子の『異常・故障』からくるものである。 今までわかっているだけでも癌や呆け、 筋ジストロフィー、 骨粗しょう症、 高血圧、 老化や肥満、 糖尿病、 緑内障などがある。」「長生きできないのは遺伝子のせいではない。 実は、 私たちは活性酸素を過剰に作り出してしまう原因となるものに囲まれて生活しているといってもいい。 喫煙や紫外線、 排気ガス、 悪い食べ物、 バランスの悪い食事、 発がん性物質、 ストレス等等。 私たち自身が生み出した文明の発達が地球環境を悪化させ、 それがまた自分達の遺伝子も損傷させる大きな原因となっている。」 遺伝子の話はまだまだつづく。 だが、 今までの情報だけでも遺伝子というものの大きな存在が理解できるのではないかと思う。 もうひとつ、 エピソードを追記して、 気晴らしの散歩に出かけることとした。 「イギリスにCancer Help Center=癌救助センターという施設がある。 ロンドンの西方200キロ弱にある港町・プリストルの静かな環境にあり、 チャールズ皇太子が資金的援助をしていることでも知られる。 ここでは、 西洋医学の手法を主とする現代医学的な癌治療法の限界を超えるために、 実に多様な努力をしている。 ここには『癌と戦う』とか『癌をたたく』といった発想はなく、 むしろ『癌と共存することで、 できるなら癌腫瘍を小さくしよう』という思想に基づいた治療が行われている。 むろん手術や抗ガン剤といった旧来の治療法とも無縁で、 食事療法を基本とし、 瞑想や適度な運動によって、 『人の体に本来備わっているホメオスターシス(=自然治癒力・恒常性維持機能)を高めることで健康を回復する』ことを目指している。」 ここで一服するため、 天照大神と倭姫命が降り立ったことのある場所へと別荘の門をくぐり向った。
2009年07月25日付け掲載
私小説「遺伝子との対話(4)」からの抜粋
人生のビッグ・チャレンジの方向性も決まってきたので、 「細胞の話」に戻ることにした。 細胞は、 さまざまな姿をしている。 しかしいずれの細胞も膜におおわれ、 内部に「遺伝子情報」を持っている。 例えば、 「アメーバー」は、 水中や土壌中で生活する単細胞生物。 アメーバーは、 細胞内の物質を流れるように動かして細胞を変形させて移動する原生生物の総称。 大きさは0.01~0.1ミリ程度。 「大腸菌」は、 哺乳類や鳥類の大腸に多い単細胞生物。 核を持たない原核生物。 大きさは約0.001ミリ。
細胞の中で最も目立つ構造が、 直径が1000分の数ミリメートルほどの核であり、 細胞の司令塔である。 生物の設計図である「遺伝情報」がつめこまれている。 核は「核膜」という二重の膜でおおわれている。 核膜には「核膜孔」という穴があいており、 ここを通して核の内外をさまざまな物質が出入りする。 核の中にある「染色体」に遺伝子情報をつかさどる「遺伝子」が存在し、 その実体は、 「DNA」という長いひもの分子である。 ヒトの場合、 一つの核には46本のDNAがつめこまれており、 46本のDNAの長さを合計すると、 およそ2メートルにもなり、 全細胞数を約60兆個とすると、DNAの全長は約1200億kmとなり、我々の住む太陽系宇宙の直径の約10倍の長さとなり(太陽系の直径は120億km)、 地球と月との距離(38万4400km)よりも遥かに長い。 この数値を見ただけでも、 人間の体は広大な宇宙の広がりをも呑み込んでしまう程のスケールであることが分かる。 この事実を認識したとき、 人間に対する考え方が変わらないだろうか。 この私小説のタイトル「遺伝子との対話」は、 実は人間に対する深い愛情から生まれたものである。
2009年09月22日付け掲載
私小説「遺伝子との対話(5) 治癒をどのように捉えるか」からの抜粋
遺伝子の科学的説明は、 今までの章である程度行ってきた。 これからはいよいよこの遺伝子との対話により何が生まれるのかを語ることとする。 勿論必要に応じ遺伝子の科学的説明を加えるが。 「治癒をどのように捉えるか。」 各人各様の病気は存在する。 しかし、 本物の治療法は数が限られてくる。 病気の種類程、 治療法は存在しない。 あるとき、 若いとき肝炎にかかって、 自分で治癒した経験を持つ老人に出会ったことがある。 彼は元々医者である。 しかし、 西洋医学で治した訳ではない。 あることを行っていたら、 知らぬ間に肝炎の症状が消えていたという。 あることとは、 全身を巡っている気血栄衛の津液調整である。 「小周天」と「大周天」という考え方がある。 「小周天」とは、 わかりやすく言えば、 頭の天辺(百会というつぼ)から身体の正中線(中央部)に沿って、 気(専門的言えば、 気血栄衛の津液)を巡らせ、 お尻(長強というつぼ)を通って、 背中の正中線に沿って、 頭の天辺まで気を巡らせる、 また、 下へという具合に同じ事を繰り返す。 平易な表現をすれば、 血の巡り、 気の巡りを良くする。 更に、 「大周天」とは、 「小周天」に加え、 全身に気(専門的言えば、 気血栄衛の津液)を巡らせていく。 それを毎日繰り返していると、 老人の肝炎も消えてなくなったのである。 ここで重要なことは、 人間の身体の仕組みを解剖医学的捉えることと、 治療は一致しないということである。 最近持て囃されているiPS細胞(京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞の研究で、 ノーベル賞の登竜門ともいわれる米国のラスカー賞を受賞)は、 再生医療としてはどんどん発展していって欲しい分野であり、 応援している一人ではあるが、 一般の方々の病は別の治療法で治癒すると考えている。
2009年10月05日付け掲載
「癌細胞」とはどんな細胞か
岩盤浴が癌治療の一端を担うと言われている。 その理由に「癌細胞の生死をわけるのは、42.5℃。 この42.5℃を越えると、 癌細胞は正常細胞に変るか、 或いは死ぬ。 岩盤浴の温度は47℃にもなる故。」ということが挙げられる。 しかし、 癌細胞の研究レポートによると温度による死滅という単純視で済まされない内容がある。
我々人間の細胞の成り立ちは次のように説明できる。 一つの受精卵が分裂して二つの細胞になり、 二つ、 四つ、 八つと増えていく細胞の数は、 最終的には60兆個にも及ぶ。 我々の体は、 それだけ多数の細胞から作られている。 その中で、 悪玉の細胞が生まれることがある。 それが癌細胞である。
●正常な細胞と癌細胞との違い
正常な細胞は勝手に分裂して増えることはない。 また、 不要になった細胞は死んでいく。 これで、 全体としての調和が保たれている。
一方、 癌細胞はこの調和を乱し、 可能な限り分裂を続ける。 癌が体の機能不全を引き起こすのは、 無駄に分裂して栄養を浪費したり、 増殖の結果、 正常な細胞のいるべきポジションを奪って、 組織や器官を破壊するためである。 癌細胞と正常な細胞の大きな違いは、 癌細胞は無限に増殖できるうえに、 その増殖が止まらない点にある。
●癌細胞を正常細胞に戻すことができるか
遺伝子に異常が起きることで細胞は癌化する。 その異常を修復すれば、 癌化を元に戻すことができるのではないか。 分化した細胞を「初期化」するように。
因みに、 iPS細胞の作成では、 わずか四つの遺伝子を細胞に送り込むだけで、 分化した細胞は初期化された。 「初期化」とは、 特定の役割を持つ細胞をどんな細胞にもなれる状態に戻すことである。 人為的に細胞の性質を変える(リプログラミング)ことで、 癌細胞を正常な細胞に戻すというアイデア。 しかし、 これを実現させるためには、 二つのハードルがある。 一つ目のハードルは、 「癌細胞の遺伝子の不安定さ」である。 「癌化」は、 遺伝子の異常がいくつも積み重なって起きる。 癌細胞ではさらに、 遺伝子の異常が起きやすくなる。 しかも、 DNAの部分的な異常だけではなく、 例えば染色体が切断されて別の染色体につながるといった大きな変化も起きる。
二つ目のハードルは、 リプログラミング(人為的に細胞の性質を変える)の効率である。 一般に、 早期に発見された癌は、 X線検査でようやく見える程度の癌だが、 それでも1億個の癌細胞があるので、 たとえ99%の効率で癌細胞をリプログラミングできたとしても、 1億個の癌細胞の内、 100万個の癌細胞が残ってしまい、 すぐに癌の再発となってしまう。
●今後の課題
西洋医学による癌治療には上記限界があり、 さまざまの癌治療の研究がなされている。 東洋医学と西洋医学とのコラボにより、 癌撲滅の治療法が生み出されることを望む。
2009年09月23日付け掲載
私小説「遺伝子との対話(6) 足心道療法について」からの抜粋
「遺伝子との対話」とは、 わかりやすく言えば、 「自分自身との対話」と言ってもいい。 氏が目差しているものは、 万人が自らのID(オンリーワンの自己証明)を確立し、 揺ぎ無い人生を歩むということであり、 そのために手を貸していきたいということである。
そこで「足心道療法」について氏の説明に耳を傾けよう。 世間では足裏マッサージということで一般的になっている。 しかし、 その歴史については知らない方が大半ではないだろうか。 今から五千年も前に、 中国大陸の一部の地域では、 観趾法という反射区の原理(反射区=五臓六腑とつながっているポイント)に基づく医療が行われていた。 古代中国社会では、 鍼灸とともに脚部に重要な健康の鍵があるとの認識があった。 例えば、 親指には三叉神経、 脳、 脳下垂体、 鼻などの大切な働きをする反射区があり、 土踏まずの上には肺や甲状腺、 その下に胃、 副腎、 脾臓、 大腸、 小腸、 膀胱、 肛門の反射区が続き、 かかとの真ん中に生殖腺がある等である。
氏が足裏の反射区に注目した理由は三つある。 その理由の一つは、 足は心臓から一番遠く、 どこを揉んでも、 決して害になることがなく、 足の血行をよくする効果がある。 第二の理由は、 足は血液循環にとって、 最も大切なところで、 身体の異常が一番早く現れやすい。 足には、 多くの毛細血管が走っており、 昔、 はだしで野山を走り回っていた頃は、 足の裏が直に地面に触れ、 自然に足の裏の反射区が刺激されていた。 血液循環にとっては一番難しい汚れが溜まりやすい足も、 無意識の内に受ける刺激で、 循環が促進されていた。 ところが、 靴をはくようになり、 乗り物が発達した結果、 足の反射区はほとんど刺激を受けなくなってしまった。 血液循環は阻害され、 足の神経反射区がもっている健康にとって大切な働きかけができなくなっている。
第三の理由は、 誰にでもいつでも手軽に出来るということ。 氏にとって、 医学的理由もさることながら、 「コストをかけず、 お手軽に」というところに最大のポイントがあった。 身体には大きく分けて七つの反射区がある。 頭、 両耳、 顔、 鼻、 両手、 膝までの胴体、 膝から下の両足の七つで、 何れの個所にも鍼灸でいう治療のツボ(経穴)がある。 氏の施術には、 この足裏マッサージに中国秘伝の刮痧治療法が重要な要素として採用されている。 この刮痧治療法は遺伝子にまで到達するパワーを有している。 因みに、 たかの友梨ビューティクリニックでもフェイシャルマッサージにこの刮痧治療法を採用している。 掲載の広告画像参照。 氏は読者が「自らの遺伝子と対話し、 最高の人生を歩まれること。」を望み、 いつでも手助けする心の準備ができている。
2009年09月24日付け掲載
私小説「遺伝子との対話(7) 症状別足心道療法」からの抜粋
足心道療法の基本は前章で述べた。 次は、 症状別足心道療法について説明を加える。
1)高血圧 一般には、 降圧剤で対応している。 しかし、 これでは一生飲み続けることになる。 足心道療法では、 足裏にある腎臓・輸尿管・膀胱・脾臓の反射区を良く揉み、 更に足全体を膝の上まで揉み解すことによって、 約三週間後に効果が現れてくる。 高血圧の方はよく首や肩を揉むが、 頭の血液循環が良くなり過ぎて、 不眠になる場合がある。 下肢の血液循環を良くすれば高血圧にも効果があり、 不眠の心配もなくなる。
2)糖尿病 すい臓の反射区を押して強烈に痛む場合は、 糖尿病の危険信号である。 足裏にある腎臓・輸尿管・膀胱の反射区をしっかり揉み、 更にすい臓の反射区をよく揉み解すことによって効果が出て来、 約二週間後位から体内の過剰糖分が尿から排泄されるようになる。
3)耳鳴り 親指が硬く張っていると、 耳鳴りがする場合がある。 大脳の神経が汚れに圧迫されて、 耳の中が鳴っているのである。 足の親指を揉み解すことによって耳鳴りは解消の方向に向かう。 更に親指に加え、 耳・平衡器官・リンパ腺(胸部・上半身・下半身)の反射区を揉むことによって、 治療効果は増す。
4)白内障・緑内障 年を取ると目に障害が出て来る。 目の反射区の毛細血管が一番つまりやすい。 足裏にある腎臓・輸尿管・膀胱・副腎・眼・頭の反射区をよく揉み解すことによって効果が出て来る。
5)癌 癌予防に足心道療法が効力を発揮する。 まず癌にかからない体質を作ることであり、 それには血液をきれいにすることである。 血液を浄化させて常に循環をよくしておけば、 癌のビールスが体内に侵入しても生存困難とする。 足全体をよく揉み、 特にリンパ腺の反射区を揉み解すことによって癌予防の一助となる。
以上は、 足心道療法の一例であり、 167種類にものぼる症状に対応できるようになっている。 足裏と膝下の部分に全ての治療点(反射区)があり、 自分で対応できるという驚くべき真実。 氏は更に掌(てのひら)、 頭部、 背部にも反射区があることを捉え、 足心道療法に加え、 鍼灸治療、 中国秘伝の刮痧治療を駆使して、 病から人々を解放し、 各人独自の人生を歩んで頂くよう、 日々研鑽の道を邁進している。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
〇 本日のメッセージ
新たなる 人生備え 学びゆく
大いなる夢 善循環
本格的な春の始まりの準備をしましょう。 大いに夢を語り、希望を抱いて、新たなる人生の始まりの準備をしましょう。 あなたの過去の業績が多くの人に認められ、世の中に大きく役立つ時が訪れました。 この機会を大切にして、見事にスタートをきって下さい。 全てが良き方にめぐり、善循環が始まります。 必ず事態は好転して、強い運勢のもとで活躍できます。 あなたの価値を神さまは大事に育ててくださいます。
Thackery

天の声(498=1年+133)AI二年(95)日本国の再生(472)光(465)令和三年(95)
令和三年 2021年2月20日 One Team 二年
閃き!!!
『震災復興 啓示四百五十五【1年+90日】(平成28年熊本地震復興第百七十二/平成30年7月豪雨復興第百十)/平成30年北海道胆振東部地震第百五/令和元年長野新潟千葉福島宮城関東東北地域豪雨復興第九十五)/COVID-19(第七十七)/令和二年熊本球磨川・九州北部筑後川・岐阜飛騨川・長野木曽川7月豪雨洪水復興(第五十九)/令和二年山形最上川豪雨洪水復興(第四十六)/令和二年史上最大台風10号災害復興(第二十七)』(2021年第十信)として、 日本国民の皆様にお伝えします。
真実を核に置き、 「この世界の矛盾」を解いていきたい。 第百四十一弾 One Team 二年
Change nonsense Democracy to Super Great one (One Team) LXXXⅠV
ナンセンスな民主主義を進化させ、 崇高なものに変えよう LXXXⅠV

11) [紀行文その12: 8月5日(水曜)]
当初列車での吉林省長春市行きを考えていたが、 満席でチケットが入手できないため、 飛行機に切り替えることにした。 長春市は現在、 省内の政治、経済、文化の中心地となっており、 四季の違いが顕著であり、また穏やかで過ごしやすい気候から「北国春城」の異称を持っている。 歴史的には、 1932年から1945年までは日本満州国の首都とされ新京と呼ばれていた。 市内には当時の建築物が多く残っている。 その中でも、 現在吉林省政府が入っているお城は日本が満州国時代に建造したもので圧巻。 掲載写真を参照願いたい。 私が宿泊したホテルも当時日本が建造したもので、 広い庭も造られていた。 また、 私が泊まった部屋は、 文化大革命時の悪事の咎で江青に対し死刑宣告を下した裁判長夫妻が宿泊された処でもあった。 今回の旅は、 国作りを考える目的も含まれており、 周恩来の活動拠点訪問といい、 また、 長春での歴史的なホテル宿泊といい、 大きな歴史の流れの中にいることを感じた。 将来映画制作も考えているのだが、 ここ長春市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっている。 実際に映画製作プロデューサーにも会い、 情報交換を行った。 このプロデューサーの紹介で、 中国中央政府トップにつながる人物にも会い、 貴重な医療情報を入手した。 夜には日本料理のバイキングにも行き、 刺身を心ゆくまで食した。 吉林省での素晴らしい旅の始まりを予感する一日であった。


12) [紀行文その13: 8月6日(木曜)]
朝早く起床し、 満州国時代に日本が建造したホテル周辺を散策した。 大きな門からの長いアプローチを気に入っていたのだが、 改めて見る朝陽を浴びた松林や庭園は事の外風情があり、 歴史の中で生き続けている自然の力強さも感じるひとときであった。 ジョギングしている中年夫婦にも出会った。 いつもの太極拳と気功もやりたかったが、 何故かその余裕がなかった。 ただただ素晴らしい佇まいに心を奪われていた。 今日は吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市に向かい、 高速バスで移動することになっていた。 残り惜しいホテルを後にし、 タクシーに乗ってバスターミナルへと向った。 途中お城を眺めることができ、 ビデオカメラにも収めた。 ここでお城に遭遇するのは、 本当に不思議な心持ちだった。 しかも今、 中国地方政府に使用されている。 中国と日本の歴史的関係を垣間見ることとなった。 バスで長春市内を抜け、 高速道路に出るまでに約1時間近くかかった。 中国は如何に広大かがわかる。 高速道路に出てからも延々と森やトウキビ畑を左右に見ながら進んで行った。 本当に豊かな自然が残されている。 これが実感である。 中国の広大な自然を見ながら、 日本の農業のことを思った。 日本も自給自足率を上げ、 農業を再生していく必要があると。 今度の新政権に期待したいものだ。 約7時間後に延吉市に着いた。 これからしばらく中国人パートナーの父親の家にお世話になることとなる。 タクシーを拾い、 その家に向った。
13) [紀行文その14: 8月6日(木曜)]
彼の父親に出迎えて頂いた。 80歳は越えておられるのに、 結構元気そうだった。 体型が息子とほぼ同じであることが微笑ましく、 ある意味ではユーモラスであった。 親子はこんなにも似るものかと。 この方は、 老人ホームに入っておられたが、 まだやることがあるということで、 老人ホームを出てある教室を開かれていた。 この教室というのは彼のライフワークに相当するものである。 後に重要なことをこの方から学ぶこととなる。 宿泊先に荷物を置き、 中国人パートナーの大学の同期生の病院長に会うため、 郊外にタクシーで出かけた。 あいにく病院長は外出中だったので、 同じく外科部長をしている同期生と会った。 彼らは医学部出身のエリート達だった。 久し振りということで夕食をご馳走になった。 彼らは韓国語で話しているので、 内容はわからなかったが、 同期生ということで楽しく旧交を温めているようだった。 夕食を終え、 友達を後にし、 また延吉市内に戻って行った。 一旦彼の父親の家に戻ってから、 1日の疲れを癒すため、 銭湯に出かけた。 ここは「風呂」「垢すり」「マッサージ」が揃っており、 「垢すり」は男達が真っ裸で、 6人位一緒に垢すりをしていた。 慣れていないため、 異様な光景だった。 内容はなかなか気持ちが良かった。 次は個室で女性によるマッサージ、 私はタイ式ではなく、 韓国式を選んだ。 韓国式のほうがソフトなマッサージだからだ。 旅先で強すぎて腰が痛くなるのを恐れていた。 それでも少し痛いと、 「軽く(qing)、 軽く(qing)」と中国語で牽制していた。 マッサージャーの彼女は笑って、 どこから来たのか等、 中国語で話しかけてきた。 結構楽しいやり取りをしていた。 後でわかったのだが、 この地域は中国でもマッサージの上手さはNO.1とのことだった。 最後の方は気持ち良くなって眠り込んでいた。 すっかり癒されて、 帰宅しぐっすり眠ることができた。

14) [紀行文その15: 8月7日(金曜)]
今日は、 吉林省琿春市にタクシーで出かけた。 琿春市の概要を説明する。 琿春市は中国の東北辺境、吉林省東南部の図們江(豆満江)下流地区に位置し、中国・北朝鮮・ロシア三ヶ国の国境が交錯するところであり、 地理的には東北地方の中心にある。 琿春の東南はロシア浜海辺彊区と接しており、 国境線の長さは246km。 現在は琿春通商口と琿春鉄道通商口はロシアと通じている。 琿春西南は図們江を挟んで北朝鮮の咸鏡北道と向き合っており、国境線の長さは130.5kmである。 そのうち、圏河通商口と沙坨子通商口からは北朝鮮と貨客が通じている。 圏河通商口の向い側は北朝鮮の羅津-先鋒自由経済貿易区である。 琿春南部の防川から図們江に沿って約15km下ると、日本海にたどり着く。 図們江は長白山の東側から発し、 長さは516km、 中国・北朝鮮・ロシアを繋いでおり、中国から陸路にて日本海へ入る唯一の水上通路である。 この通路を通って、歴史的に琿春は一時期、中原地帯が日本・ロシアなどの東北アジアの国家と親善交流する通路となり、国境貿易が非常に盛んになった。 この特殊な地理的位置により、琿春は外向的経済の卓越した強みを持つこととなっただけでなく、 国際文化交流の重要な基地となった。
以上が琿春市の概要であるが、 タクシーから北朝鮮の領土を初めて目にしたとき、 一抹の感慨があり、 じっと見入った。 拉致被害者のこと、 諸々。 国境に流れている川も印象的だった。 簡単に歩いて渡れる浅瀬が続いているように思えた。 上記概要説明の中にもあるように、 ロシア、 日本海、 北朝鮮、 中国が一同に見渡せるというのも壮観であった。 掲載の写真を参照願いたく。 写真の中の橋の左側がロシア、 橋を渡った右側が北朝鮮、 橋のずうっと向こうが日本海、 写真を撮っている側が中国という位置関係。 遠くを見るため、 有料で双眼鏡を借りることもできた。 ひとしきり四方を眺めた後、 中国人パートナーの大学の同期生・琿春市医院院長に会うため、 琿春市内に引き返した。 院長室を訪ねたときは、 会議中だったので、 少し待った。 程なく会議が終わったので、 院長室に入ると、 笑顔で迎えられた。 院長としての風格を備えていた。 雑談している中で、 近くで虎が出て牛を襲った新聞記事が出ていたという話題が出、 秘書にその記事を探させ、 その新聞記事を頂いた。 歓談の後、 夕食に招待された。 院長の秘書も元軍人ということで格好よくスマートで、 トイレに私が立ったときは、 離れた外で待っていると言う心配りには感動した。 色々な話題を話し合った。 すっかり打ち解けて友達になった。 院長は周恩来の風格を持っていた。 話の内容で、 みんなに信頼されていることがわかった。 今後医療関係で付き合いが始まる予感がした。 気持ちのいい夕食の後、 タクシーで延吉市内に戻り、 昨夜と同じ銭湯で疲れを取り、 明日の長白山行きに備えた。

15) [紀行文その16: 8月8日(土曜)]
本日がいよいよ今回の中国旅行のクライマックスである。 早朝に起床し、 タクシーで吉林省延吉市のバスターミナルに向った。 大型バスに次々と観光客が集まって来た。 午前6時30分頃の出発で、 長白山に向った。 最後の目的地ということで、 期待感で胸は一杯になっていた。 道中も食い入るように景色を眺めた。 どんどん高地に上がって行く感じであった。 豊かな自然の中を突き進んで行く中で、 橋に差し掛かり、 下に渓流下りをしている光景を目にした。 素晴らしいと心の中で独り言ちた。 また、 別荘のようなログハウスも見えて来た。 美しい風景の中を延々と進んで行き、 この道中は奥の院・長白山に通じるロングアプローチといった風情であった。 所要時間は5時間を越えるため、 当初どんどん山頂に向っていると思っていたが、 実は長白山自体は遠方に位置しているということがわかった。 しかし、 私にとってこの道中は遠方への移動ではなく、 やはり奥の院に通じるアプローチであった。 そして、 ようやく長白山の門に辿り着いた。 ここで昼食を摂り、 門を潜って別の大型バスに乗り換えることになった。 ここからはショートアプローチで登山口に着いた。 登山のチケット売り場で大事件が勃発した。 ポイントのみ書く。 問題は、 1)長白山への観光が急増したため、 「登山のチケット売り場」でのスムーズな対応システムができていなかった。 2)中国人のマナー教育が不十分。 例えば、 上海の地下鉄乗車の際と同じ問題が起きた。 つまり、 列をなして、 整然と順番を待つことができない。 3)問題の発生内容: 順番待ちが乱れ、 人が殺到し、 血を見る乱闘が始まり、 チケット売り場のガラス窓が壊され、 チケット販売がストップした。 詳細は不明だが、 この時点でチケット販売完全ストップ、 中国人パートナーは購入を終えていたが、 私のチケットはまだだった。 状況がわからないまま、 私は前へ進み続けた。 勿論、 チケット販売が完全ストップしているのもわからないまま。 その前進方法は異様である。 一応スムーズに登山者が並べるよう、 スチールのバーで仕切ってあるのだが、 身体ひとつ潜れるようなそのバーをひとつひとつ軟体人間のようになって潜り抜けていくのである。 しかし、 私はチケットを購入していないため、 全てのスチールのバーを潜り終わったとしても登山はできないのである。 大きなリュックサックを背負い、 途中で引っかかりながら狭いスチールのバー潜りを繰り返していたとき、 ある女性から声がかかった。 「私はもう登山を断念するため、 このチケットを買いませんか。」と。 この女性はチケットは購入しているものの、 このスチールのバー潜りが余りにも厳しいため、 登山を断念したのである。 私にとっては、 この誘いは「神の声」であった。 このチケットが偽物ではないことを確認し、 購入した。 優に1時間以上、 このスチールのバー潜りを繰り返し、 通り抜けることができた。 このスチールのバー潜りの中でも温かい人間的なことを感じる局面もあった。 このスチールのバーにリュックサックがひっかかり、 身動きができないとき、 手を貸して助けてくれる人がいた。 本当に喧騒の中のドラマであった。 いよいよ登山できるようになっても、 今度はジープに乗り込む必要があった。 この乗車はまあまあスムーズに出来た。 いよいよ山を登り始めた。 結構急斜面である。 しばらく登ると、 乗車客の中で安堵の会話が始まった。 私の目の前に北京から来ている中学2年生の女の子がおり、 教科は何が好きか等雑談をした。 お互い打ち解けて、 私の名刺を渡す等して、 他の中学生仲間も我々の話しに参画し、 和気藹々と楽しく頂上に向って行った。 頂上は絶景であった。 詳しくは、 掲載写真を参照願いたい。 湖の写真の中で向こう側に見える白い道のようになっている処は北朝鮮側である。 いつまでもそこに留まっていたくなるような自然の新鮮な気が満ち満ちていた。 最後に私の観光バスグループでも3分の1は登山できていなかったことを付記しておく必要がある。 また、 その登山ができていなかったグループから旅行会社を責める批難轟々の声が挙がらなかったことも。

16) [紀行文その17: 8月8日(土曜)夜]
長白山から帰宅の後、 最後の夜ということで、 中国人パートナーの案内でレクレーションセンターに行った。 つまり、 銭湯あり、 歌謡ライブあり、 食事ありの娯楽施設。 ところが歌謡ライブの音量が高過ぎて、 耳にガンガン来て癒されるどころか、 疲れることがわかった。 這う這うの態で別の処に逃げ出した。 そこはセレブ用の施設で落ち着く雰囲気であった。 風呂に浸かり、 個室でマッサージを受けた。 この地域は一様にマッサージがうまい。 今夜はここで一泊することにした。 長白山での出来事を反芻しながら、 深い眠りに落ちた。
17) [紀行文その18: 8月9日(日曜)]
早朝起床し、 朝風呂に行った。 一部工事中の所があったが、 ちゃんと機能していた。 これも中国ならではのことだろう。 日本では、 工事中の部分がある中では営業はできない。 法律的に。 また、 ユニークな機能も付いていた。 相当強い水流が壁側から出て来る仕組み。 爽快感があった。 この施設を後にし、 外に出ると、 歩道上に朝市が展開されていた。 色々な果物、 野菜、 魚、 肉等等が一杯あり、 活気を呈していた。 少し路地を入ったところで朝食を摂り、 延吉市全体が見渡せる高台のある公園に向った。 この吉林省延吉市は中国中央政府要人を数多く生み出している。 近い将来展開する我々のプロジェクトに貢献頂く方々もその中に含まれている。 その一部の方に今回の旅行でお会いした。 この延吉市創建に貢献した人物の記念塔がある場所にも行った。 そこで中国人パートナーの母親と職場を同じにしていた婦人の石碑(昨年までは生存されていた)に出合うことにもなった。 重要人物の婦人ということで、 石碑まで出来ていたのだ。 彼は感慨深げにその石碑を眺めていた。 早朝、 色々な意味あるものに触れることができた。 北京に旅立つ準備のため、 彼の父親の家に戻り、 身支度を始めた。 すると、 彼の父親が最後に私と話をしたいと言って来られた。 お別れの挨拶とお礼を言おうと思っていたところなので、 喜んでその申し出に応じた。 自分の生い立ちを語り始められた。 その歴史の中には、 戦争、 文化大革命等のことも当然含まれ、 大きな影響を受けられていた。 基本的には、 医療関係者で、 中国医師会の会長も務められていた。 アメリカで教鞭を執られたこともある人物であった。 この方と話している中で、 私が24歳のとき出会った東洋医学の重鎮とイメージを重ねて見ていた。 何という巡り合わせ、 人は一本の綱でつながっているという思いを強くした。 住所とお名前をお聞きし、 今後交流していくことを誓い合った。 最後にこのような結びになるとは思いも寄らなかった。 もし、 この語らいがなかったら、 一人の老人との出会いで終わっていただろう。
お世話になった所を後にし、 北京に出発するためタクシーでバスターミナルに向かった。 北京行きのバスを確認し、 昼食を摂るべく、 近くのホテルに入った。 実はこのホテルには私の故郷の名前がついているのである。 恐らく満州国時代に同じ故郷の誰かがこのホテルを作っていたのであろう。 個室に入り、 食事を摂ったのだが、 それがまた凄かった。 私の舌にぴったり合い、 とても美味しかった。 料理法も代々受け継がれているようだった。 この昼食も心に深く残ることとなった。 中国人パートナーには、 深く感謝し、 握手をして別れ、 寝台のある長距離バスに乗り込んだ。 (吉林省延吉市から北京までの距離: 1,200キロ(注)大阪から北海道の北見までの距離)

18) [紀行文その19: 8月9日(日曜)長距離バスで → 8月10日(月曜)]
これから、 吉林省延吉市から北京までの距離: 1,200キロ(大阪から北海道の北見までの距離)のバス旅行が始まる。 といっても、 寝台に横たわって車中で過ごすだけである。 バスの中央の窓側の席で、 窓は遮る物なしの全開。 出発は午後12時30分だったため、 道中の景色は存分に見ることができる。 多分この車中では最高の位置の席だろう。 元々、 寝台付きの長距離バスがあることは知らなかった。 当初は寝台列車のチケットを購入しようとしていた。 既に満席でバスに切り替えるしか方法がなかったのである。 これが幸いし、 素晴らしいバスと出合えたのである。 今回の旅行は全てがいい方向にチェインジ出来た。 私の運命の流れのようにも思える。 何が起きてもいいように捉え、 いい方向に持っていく。 そうすることによって、 人生はどんどん展開していく。 この紀行文を書いている今も、 凄い運命の流れがやって来ている。 向こうから。 では、 紀行文に戻ることとする。 実は、 長期滞在した延吉市から見える山で、 とても気になる富士山に似た山があった。 バスの窓から、 携帯のカメラで必死になって捉えたスナップ写真があるので参照願いたい。 トウキビ畑の写真と一緒に。 タイミングよくトイレ休憩もあり、 心地よいバス旅行であった。 延辺大学に留学しているロシア人学生カップルも同乗していた。 随所で、 キス、 抱擁をしており、 刺激的ではあるが、 自然で微笑ましかった。 途中から英語で会話を交せるようになり、 名刺を渡し、 世間話をした。 後ろの席で、 中国語で私の噂をしている女性もいた。 私の隣の席まで移動してきたので、 話のきっかけを探ったが、 どうも自然体が取れず、 そのままで別れることとなった。 日本の距離で言えば、 大阪から北海道の北見までの距離となるのだが、 そんな距離を感じさせない快適な旅となった。 程よい時間、 午前8時30分頃北京に着いた。

19) [紀行文その20: 8月10日(月曜)最終章]
北京に着いてから、 先に一度宿泊したオリンピック会場近くのホテルにタクシーで向かった。 フロントの職員とはもう顔馴染みである。 早朝なので、 ベッドメイキングの時間待ちをし、 入室した。 一休みしてから、 近くのインターネットカフェに行き、 念願のメールチェックをした。 旅行中はメールチェックのチャンスがほとんどなかった。 とても気になることがあったのである。 北京で会う予定だった人物の携帯と繋がらず、 しかも、 エベレスト行きの旅程がなくなり、 スケジュールに大幅変更が出て来たため、 会うことは絶望的になっていた。 メールチェックすると、 新しい携帯番号の連絡が入り、 8月11日には別の処に移動するが都合は如何にとのメッセージがあった。 英語にnarrow escape(危機一髪)という言葉があるが、 正にその状況だった。 今回の旅行の流れからいくと会うことになるではと思っていたが。 「来たぁ~」という感じだった。 しかし、 電話では十分話が出来たが、 実際には会えなかった。 ただ、 思いは十分通じた。 エベレスト行きと同じく、 再会は次回に持ち越すこととなった。 人生は旅、 色々な出会いがあり、 人は成長していく。 今回の中国国内移動距離は4,664キロ(日本全長の1.6倍)[日本全長(北海道から沖縄):2,843キロ)]であり、 その場所移動の中で学んだことは、 これからの私の人生に大きな影響を与えてくれるものと確信する。 実際の帰国は明日8月11日となるが、 中国紀行文は本日を以って最終章としたい。 20回に亘る紀行文の読者に対し厚く御礼申し上げます。
From Thackery
Hoping your happiness and success
⇒ 以上で、 中国紀行文は終了となる。 今回の「国作り発想13日間の旅」(2009年7月30日から8月11日まで)は、 十分成果があった。 この度紀行文をまとめる中、 記憶が蘇り、 『国作りへの情熱』は更に強くなっていった。 『AI(Artificial Intelligence)人間』開発が大きな人生目標である。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
〇 本日のメッセージ
素晴らしい 出会いや会話 弾む中
運勢上がり 事はまとまる
準備のあるところに運勢は開かれます。 今日は過去の準備した通りに物事が運ばれていきます。 物質面の準備、精神面の準備は整いました。 今日は実践あるのみです。 素晴らしい出会いや、素晴らしい会話が弾み、強運に包まれた時空の中で成就への道は確定していきます。 次なるステージに向けて、勤勉感謝、向上心をモットーに意義ある一日を過ごしましょう。
Thackery
天の声(497=1年+132)AI二年(94)日本国の再生(471)光(464)令和三年(94)
令和三年 2021年2月19日 One Team 二年
閃き!!!
『震災復興 啓示四百五十四【1年+89日】(平成28年熊本地震復興第百七十一/平成30年7月豪雨復興第百九)/平成30年北海道胆振東部地震第百四/令和元年長野新潟千葉福島宮城関東東北地域豪雨復興第九十四)/COVID-19(第七十六)/令和二年熊本球磨川・九州北部筑後川・岐阜飛騨川・長野木曽川7月豪雨洪水復興(第五十八)/令和二年山形最上川豪雨洪水復興(第四十五)/令和二年史上最大台風10号災害復興(第二十六)』(2021年第九信)として、 日本国民の皆様にお伝えします。
真実を核に置き、 「この世界の矛盾」を解いていきたい。 第百四十弾 One Team 二年
Change nonsense Democracy to Super Great one (One Team) LXXXⅠⅠⅠ
ナンセンスな民主主義を進化させ、 崇高なものに変えよう LXXXⅠⅠⅠ
1) [紀行文その3: 7月30日(木曜)]
さて、 「国作りのメッセージ」から中国紀行文に戻ることとする。 上海の日立造船(株)の事務所内にいるときから、 外は大雨となった。 9階から1階に降りて、 タクシーを拾うこととした。 しかし、 思うようにタクシーを拾うことができなく、 日本から用意して来た雨ガッパをトランクより取り出し、 身につけ大通りに出た。 ようやくタクシーを見つけ、 次の場所に移動することとなった。 私の友人の友達と会うために。 その場所は、 上海の中でも日本人、 韓国人、 その他外国人の居住する地区である。 無事目的地に着いて、 韓国料理のレストランに落ち着くと、 その友達がやって来た。 日本にも数年いた人物で、 日本語もうまい。 打ち解けて諸々の話をした。 韓国料理が山盛り出て来たが、 余り食は進まなかった。 話が一段落してから、 黄山市に行くためタクシーで飛行場に向った。 帰宅のラッシュアワーにぶつかったが、 運転手の機転で高速を利用する等して遅れることなく無事に飛行場に着いた。 出発は午後8時10分であったが、 大雨のため飛行機が大幅に遅れた。 大雨のときは飛行機は飛ばないという。 しかたなくソファーに横になって時間待ちをした。 搭乗口には遅延のサインが出ていた。 1時間経っても出発の時は来ない。 2時間位経ったときだろうか、 状況をチェックするため搭乗口に行くと、 今度はアナウンスもなく、 搭乗口が変わっていた。 中国語がわからないと、 黄山への飛行機にはうまく乗れなかった可能性がある。 また、 現地には深夜着となるため、 先程の友達にホテル予約を入れて貰った。 予定より3時間遅れの出発となったが、 黄山飛行場にはホテルからの出迎えの車が来ており、 問題なく宿泊することが出来た。 友達のホテル予約がなかったら、 ホテル探しで難航していたことだろう。

2) [紀行文その4: 7月31日(金曜)]
夜中1時30分頃就寝し、 朝は6時出発のため5時頃起き、 ホテルの窓から外を眺めた。 観光大都市の趣を呈していた。 調べによると黄山市人口は147万人で、 市内にある黄山は中国で最も著名な山岳景勝地のひとつで、 奇松、怪石、 雲海、 温泉の「四絶」をもって世に知られており、 1990年12月には世界遺産として登録されている。
昨夜迎えに来て頂いたタクシー会社に当日もお世話になることになっていた。 運転手に加え、 ガイドが参加することとなった。 黄山への道中で色々話している内にガイドは英語が出来るということがわかった。 そこで急に親近感を覚え、 名刺交換をすると、 愛称として“Rain”という文字が印刷されていた。 このときは不思議な名前だなと思っていた。 後にその理由が分かることになる。 それは、 この地域にしか見られない家屋のデザインの家々が左手に見えて来たときのこと。 彼女の説明が始まった。 「この家のデザインは、 家の中にいながら、 天から降ってくる雨が良く見えるように設計されている。 というのは、 雨はお金を運んでくると思われているからだ。 また、 太陽、 星、 月等も家の中から良く見えるように設計されている。」 成る程と頷いた。 出発地点近くに「神川」という川があったのだが、 その名前の理由もわかり、 更に、 彼女の愛称の「Rain」という謂れもわかった。 やはり、 中国は宇宙の中で色々な事が捉えられていると思った。 道中の山々の斜面には黄山の有名な茶畑があった。 後にお土産として買うことになる。


3) [紀行文その5: 7月31日(金曜)]
楽しいタクシーでのドライブの後(2時間弱)、 観光バスに乗り換え、 黄山に向った。 道中、 中国ならではのことが起こった。 というのは、 道路のカーブにさしかかったとき、 突然バスが停車し、 運転手が車から降りた。 そのとき事故が起きたと思った。 すると、 バスの後ろ側で大きな蛇を棒で叩いていた。 運転手が個人的に蛇を取っていたのである。 食用にするために。 結構美味しいとのこと。 蛇を捕獲後、 平然と運転を開始した。 ユーモラスな出来事であった。 しばらくして登山口に到着した。 ここからいよいよ登山である。 徒歩登山は相当時間がかかるため、 途中までケーブルカーで行くことにした。 これから、 黄山の物語が始まる。 まず、 空中散歩といった感じで黄山の美しさに触れた。 その美しさはここに添付の写真と「世界遺産黄山でのスナップ写真」のブログに掲載のものを参照願いたく。 一見は百聞にしかずということで。 この美しさとは関係ない人生も垣間見た。 それは生活物資の運び屋さんである。 150kgもの袋を登山口から頂上に住む人々の為に一本の竹の棒で運ぶのである。 ベテランと思われる人から青年までいた。 多分彼らは黄山の美しさを享受する余裕はないだろう。 只、 もくもくと物資を運んでいる。 そこにひとつの哲学があり、 この運び屋の職業を選んでいたとしたら、 それはそれで凄い人生である。 この美しさは家族にも友人にも、 皆んなに見て欲しいと思った。

4)[雑感(紀行文一服して)]
最近の出来事につき、 紀行文を一時終止して書くこととする。 人間の一生。 自然に終わるのが一番いいが、 本人の意思により終わることもある。 しかし、 自分を育ててくれた両親とか、 兄弟とか、 友達とかのことを思うと、 罪深いような気もする。 あるとき、 その人との電話の中で、 何かを暗示するようなメッセ-ジがあった。 不思議な質問をするなと思っていた。 でもそのときは、 不思議な - - - で終わっていた。 今思うと、 それがひとつのメッセージだったような気がする。 とても優しく、 兄弟思いで、 留学までして、 前途洋々であったことに間違いはない。 それがどうして。 誰もわからない。 しかし、 それも人生なのである。 今の時期に何故と思うが、 それは一つの流れであったのだろう。 私には色々なメッセージを残してくれた。 私に信頼を置いてくれていた。 別れを告げる前に私に電話をくれたことに嬉しく思う。 今後はその人の生き様を心に留め、 ある分野で精一杯生きていきたく思う。 天の君に都度報告していきたい。 両親から貰った遺伝子コードの数(64 X 2 =128)まで生き、 君の望んでいた世界を実現させていきたい。
5) [紀行文その6: 7月31日(金曜)]
世界遺産「黄山」、 この経験はこれからの私の人生に大きな意味を持ってくるだろう。 まずは、 家族、 友達と一緒にもう一度尋ねてみたい。 水墨画を描いてみたい。 黄山に篭って、 黄山の絵を描き続けている画家がいると聞くが、 その人の気持ちがわかるような気がする。 中国紀行文(5)に掲載の写真をご覧頂き、 読者自身の感性で想像願いたい。 美しい風景を満喫して下山し、 試飲後美味しいお茶を購入して、 次の目的地に向った。 しかも、 東京から愛知県の距離250キロも離れた処にある世界遺産廬山(江西省九江市)へタクシーで。 当然江西省九江市に着いた頃は相当暗くなっていた。 運転手も初めての処なので、 宿泊できるホテルの様子がよくわからない。 道中にある家でこの先にホテルがあるかどうか確認し、 進んでいった。 しかし、 行けども行けども、 ホテルらしきものはなく、 民家もほとんどない。 霧に覆われて視界もよくない。 しかも、 勾配も急になり、 段々心細くなってくる。 本当にこの上にホテルがあるのとぼやき始めた。 後になって分かったことだが、 廬山を取り巻く山道を登っていたのである。 時間もかかるはず、 急な勾配も当たり前だったのである。 とにかくホテルがあることを信じて、 ただただ登って行った。 麓を出発してから、 1時間強でやっと宿泊のホテルに辿り着いた。 このホテルは廬山では最高に素晴らしい処ということが翌朝わかった。


6) [紀行文その7: 8月1日(土曜)]
朝5時30分頃目覚めて、 外に出ると掲載写真のような素晴らしい風景が目に飛び込んできた。 これはホテルのちょうど前方である。 そのホテルの写真もあるので参照願いたい。 また、 このホテルが如何に高い所にあるかがわかる写真も掲載しておく。 昨日到着するまでに時間を要した理由がわかった。 更に、 昔上海で私の絵のモデルになった娘さんととても似ている女性がホテルのフロントにいたのでシャッターを切ったが、 残念ながらブレてしまった。 掲載できないのがくやしい。 175cmは優にある長身の美人である。 素晴らしい自然の中に入ったときいつもする太極拳と抜長功(気功)をこの風景を見ながらやった。 最高に気持ちがいい。 前方の橋の袂で太極拳の音楽が聞こえて来たので、 そこに移動することにした。 先生らしい女性と生徒らしい女性の二人であった。 中国語で声をかけて、 ワンサイクル一緒にすることにした。 48式の太極拳であった。 スピードは全く同じと言う訳にはいかないが、 なんとかやり終えた。 親戚の子供が日本に留学していると言う。 色々世間話をし、 「謝謝」と言って別れた。 本当はもう少し話を続けたかったが、 連れと一緒に廬山の観光に出ることになっているので、 仕方なかった。 朝食後、 タクシーで毛沢東、 周恩来が会談した処に行くことにした。

7) [紀行文その8: 8月1日(土曜)]
今日は、 廬山観光なのだが、 その前に是非行きたい処がある。 それは、 毛沢東と 周恩来が会談した廬山山荘である。 当初イメージしていた山荘、 つまり、 木造建築の建物ではなく、 赤レンガ作りの3階(?)建ての頑丈なビルだった。 1階の正面には毛沢東の石像が配置されていた。 2階には、 当時の政治家達の名札がテーブルに置かれ、 当時の状況が再現されていた。 毛沢東と周恩来の席は、 勿論他の政治家とは対面の最前列であった。 歴史を動かした強烈な気がそこには感じられた。 後述する重慶での周恩来ゆかりの地で感じたものと共通する重厚さがあった。 付録として中国ならではと言ってもいいビジネスがこの廬山山荘横で行われていた。 蒋介石を演じた元映画俳優(確かに見覚えがある)が観光客と一緒に記念写真を撮ったり、 また、 観光客に軍服を着せて写真撮影をしたりする仕事をしていた。 日本では大スターが昔の栄光で露骨にビジネスをするというのは、 皆無に近いと思う。 国民性の違いだろう。 廬山山荘を後にして、 今度は周恩来ゆかりの建物へと向った。 ところが、 タクシー運転手(一応観光案内者でもある)のミスで、 周恩来ゆかりの建物と思って入った場所(入場料も払い)は、 ある教会の記念館であることがわかり、 失望してここは見学もしないで出た。 本当の周恩来記念館に行くことは止めにし、 廬山観光に行くこととした。 黄山とは趣の違う絶景であった。 掲載の写真を参照願いたい。 立派な寺院洞窟等もあり、 世界遺産認定を窺わせる内容であった。 廬山の登山は、 宿泊先が山頂近くにあったため、 登山というよりも、 まず下に降りて登るというイメージだった。 とにかく写真をご覧あれ。

8) [紀行文その9: 8月1日(土曜)→ 8月2日(日曜)]
廬山観光を満喫してから、 タクシーで江西省南昌市に向った。 ここ南昌市には省委書記(日本では県知事に相当)・ 蘇栄氏(前中国共産党中央党校常務副校長、前甘粛省委書記)がおられ、 後々にお世話になることとなる。 南昌市に着いてから、 4星のホテルに宿泊することとし、 チェックインしたが、 日本円を人民幣(RMB)に変換できないことがわかり、 急遽5星ホテルに移動した。 ここは蘇栄氏も誕生パーティー等に使用される最高級ホテル。 ここで実は、 後に問題が起こる発端となる出来事があった。 今回の旅行の目的のひとつは、 エベレストの麓まで行くことであった。 まず、 4星ホテルの旅行社でチベットのラサまでの航空チケットをチェックしたところ、 四川省重慶市経由で行くのが、 一番安いということがわかった。 移動した5星ホテルで最終的にチケットを購入した。 この時点では、 まだこのチベットのラサ行きに問題があることを知らなかった。 翌朝、 飛行機で四川省重慶市に飛び、 空港近くのホテルに宿泊することとした。 このホテルのバイキングは素晴らしく、 果物、 魚、 肉、 刺身等、 安価で料理は豊富にあった。 食事を楽しんだ後、 周恩来ゆかりの地(毛沢東にとっても)に行くこととした。 この地は長江を望める丘の上にあった。 一般の女地主が革命家達のために無償で別荘を提供していたということだ。 周恩来の銅像、 毛沢東が実筆で書いたメッセージの広大な石碑、 周恩来が革命に利用した部屋等、 数多くの歴史的なものに触れることができた。 廬山山荘とは違い生活感で満ち満ちていた。 就寝時に利用したベッド、 書斎の本棚等等、 当時を偲べるものが沢山あった。 また、 公園の一角には周恩来の若いときの石像があった。 周恩来は日本に留学したこともあり、 将来の私の人生にもつながる縁のようなものを感じた。 周恩来への思いを満喫できるひとときであった。 そして、 問題の明日が待っていた。

9) [紀行文その10: 8月3日(月曜)]
チベットのラサに向うべく、 朝早くホテルを出発した。 空港のカウンターで搭乗券の発行手続きを始めると、 待ったがかかった。 日本人はラサへの入国許可証がいると言う。 中国人のパートナーは既に搭乗券の発行が終わっていた。 空港警察に相談に行ったが、 彼らの管轄外の事項なのでどうすることもできない。 なんとかならないのかと頑張ってみたが、 何の手も打つことが出来なかった。 ただ、 重慶市内の公安局(日本の警察本部に相当)に行けば方法が見つかるかも知れないという情報は入手できた。 しかし、 中国人のパートナーの搭乗券は既に発行され、 荷物も飛行機に入ろうとしていた。 そこで、 彼が次のような提案をしてきた。 まず、 空港カウンターで入国許可証のことに気づかないような職員を探し、 うまく搭乗券を発行し、 税関の所でも、 その入国許可証に気づかないような職員を探し出し、 何とか切り抜けようと。 私は相当このアイデアには抵抗があったが、 彼の提案に従い、 成り行きをみることとした。 第一関門の搭乗券発行は成功した。 次は、 税関である。 若い女性職員を選び、 手続きを開始した。 そのポイントは無事パスしたが、 パスポートを見せ、 手荷物検査をするところで、 入国許可証がないではないかということになり、 私をパスさせた女性職員が叱られた。 結局、 ラサへの出発は不可能となった。 さあどうする。 二人の荷物は飛行機に積み込まれようとしている。 非常事態である。 というより、 無謀な試みをしたせいである。 空港カウンターで荷物を元に戻せるか聞くしかなかった。 職員は慌しく電話で確認し、 何とか荷物を引き取ることができるということになった。 このとき、 中国の対応に感謝し、 日本ではまず、 荷物はそのまま行くしか方法はなかっただろうなと思った。 中国人のパートナーの荷物は飛行機に乗るべく既に準備されていた可能性がある。 手続き完了後相当時間が経っていたため。 でも、 戻って来た。 奇跡と思える状況である。 中国側の管理の正確さと柔軟な対応に深謝した。 しかし、 これで問題が解決した訳ではない。 荷物を無事引き取ってから、 重慶市内にある公安局に出かけた。 物々しいところであった。 そこの職員はここでは分からない、 四川省の本部・成都市(飛行機で1時間位の所)に行けば分かると思うとの事。 そこで大きな旅行会社で外国人のチベット行きについて尋ねることにした。 ここで真相がわかった。 現在中国政府とチベットは関係が悪いため、 外国人は入国許可証が必要であり、 その手続きには1週間を要すると。 その旅行会社には同じような外国人が来ていた。 しかし、 後日、 ラサ行きは断念していたほうが良かったことがわかることとなる。
10) [紀行文その11: 8月3日(月曜)→ 8月4日(火曜)]
チベットのラサ行きを断念して、 午後の飛行機便で北京に移動した。 チベットのラサ行きのチケットはキャンセルできることを確認して。 北京には私も会いたい友はいた。 妻の少女時代からの親友で、 アラブ首長国連邦共和国で数年仕事をし、 現地で知り合った男性と結婚し、 上海から北京に移動していた。 妻と一緒の写真を掲載する。 右が彼女で、 左が妻である。 更に、 上海で私の絵のモデルとなった彼女の娘さんの写真も掲載する。 結構みんな美形である。 今回の写真もあるが掲載は控えることにする。 旧友に会った趣で楽しいひとときを過ごした。 彼女の夫の父親は作家協会に属するプロの作家ということもわかった。 何故か私は彼らの前で、 宇宙の成り立ちから、 これからの地球をどういう方向に持っていくべきか等という話を朗々と捲くし立てていた。 彼の父が作家ということもあり、 このような話題が受け入れられると安心していたのだろう。 とても楽しく、 有意義なひとときであった。 もうひとつ新しい出会いもあった。 江西省でのプロジェクトメンバーの一人である。 オリンピック会場・鳥の巣近くのホテルに宿泊していたので、 彼らと一緒に有名な「鳥の巣」にも行ってみた。 鳥の巣の広大さには圧倒された。 北京にしばらく滞在する予定だったが、 予定変更で、 明後日は吉林省に旅立つことになった。 ここには素晴らしい出会いが待っていた。
○8月3日の夜、 彼らと一緒に有名な「鳥の巣」に行った。
○8月4日の夜、 私の知人(妻の旧友夫婦)と会食した。 昼間は、 ビジネスパートナーと会食した。



次回は、 11) [紀行文その12: 8月5日(水曜)]に続く。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
〇 本日のメッセージ
共存 共栄へと 祈りつつ
繁栄の輪を 共に広げる
共存共栄を祈ってください。 心から人さまのために祈り始めると、大いなる力が結集して繁栄の輪を広げます。 周りが栄えるからこそ、あなたにも繁栄が訪れるのです。 できる限りにおいて、周りの人の喜びを優先しましょう。 祈りの世界においても、周りが良くなることを祈念してください。 世界が広がり、あなたのステージも高まっていきます。 祈りの実践を継続してください。 みんなの繁栄が訪れます。
Thackery











