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閃き!!!
『震災復興 啓示二百九十二(平成28年熊本地震復興第九)』(2016年第十三信)として、 日本国民の皆様にお伝えします。
「東洋医学と西洋医学」による人間の身体認識につき、 著作準備しながら思うこと。
図書館に本を返しに行き正面の本棚に眼をやると、 「父・夏目漱石(次男・夏目伸六著)」が目に飛び込んで来た。 そこには息子の視点から父・夏目漱石を捉えた感動のメッセージがあった。
1)平成28年熊本地震復興第九
地震発生から半年以上が経過し、 復興に於いて各人差・地域差が見られ、 更に10月8日には阿蘇山噴火が発生するなど、 厳しい自然災害が続いている。 (鳥取では震度6弱の地震が10月21日に発生。 南海トラフ地震への影響も囁かれている。)
上記夏目漱石もイギリス留学前に熊本で第五高等学校教授を務めていたということもあり、 復興への思いにも感慨深いものがある。 また、 夏目漱石自身も東京帝国大学大学院生時代(大学院生として東京帝国大学の寄宿舎にいた漱石)に大きな関東地震に遭遇していた。 そのときの漱石の言: 「私は元来地震が嫌いな所へ持って来て、 こんな所で死んじゃ恥だと思ったから、 二階から三階へ上って、 逃場所(にげばしょ)がないから、 窓を破って隣の屋根へ飛び出したのですよ。 さて地震が止(や)んでから帰ろうと思っても、 屋根と窓との間には三尺ばかりの距(へだ)たりがあって、 怖くてどうしても帰れなくなったのです。」
避けることの出来ない自然災害。 人間の英知を結集して地震予知の精度を上げるとともに、 被災後は最大限の復興支援を地方自治・中央政府一体となって実践願いたく思う。
2)次男・夏目伸六から見た夏目漱石
(1)この「父・夏目漱石(次男・夏目伸六著)」の本に出合う前に「数学する人生(岡潔 森田真生編)」という本に出合っていた。 岡潔は世界的な数学者(多変数解析関数論、 文化勲章受章、 勲一等瑞宝章受章)でありながら、 『情緒』を発想の中心に置く人物で、 「道元、 夏目漱石、 正岡子規」に学び、 京都大学時代には湯川秀樹、 朝永振一郎(2人ともノーベル賞受賞者)らも岡潔の講義を受けている。
※『情緒』(岡潔の考え)
「情緒と感覚とどう違うかというと、今の印象でもわかるでしょう。 もっと、はっきり言うと、例えば、フランスは緯度が高いですから夏が愉快である。 それで夏は愉快だが、冬は陰惨だという。 これは好き嫌いと同じで、夏は好きだが冬は嫌いだというのです。 晴れた日は好きだが、雨の日は嫌いだ。 こんなふうになる。
日本人はそうではない。 日本人は情緒の世界に住んでいるから、四季それぞれ良い。 晴れた日、曇った日、雨の日、風の日、みなとりどりに趣があって良い。 こんなふうで全て良いとする。
もっと違っているのは、感覚ですと、はじめは素晴らしい景色だと思っても、二度目はそれ程だとも思わず、三度目は何とも思わない。 こうなっていく。 感覚は刺激であって、刺激は同じ効果を得るためには、だんだん強くしていかなければならなくなります。」
「情緒とは何か
こんな風に、私、それを情緒と呼んでいますが、日本人は自然や人の世の情緒の中に住んでいる。 そしてそこで時々喜怒哀楽し、意欲するし、理性するだけですね。 住んでいるのはむしろ、自然や人の世と云いますが、自然や人の世の情緒の中に住んでるでしょう。
情緒とは私の入れられないもの、感情ではありません。 感覚でもありません。 例えば秋風がもの悲しい。 それから時雨が懐しい、例えば、友と二人いると自ずから心が満たされる。 こう云うの皆情緒ですね。“むかわずば淋しむかえば笑まりけり桜よ春のわが思い妻”と云うのも情緒です。
こんな風に、第2の心のあることがよくわかります。 一番よくわかるでしょう。 日本人は情緒の中に住んでいるから。 情緒は第2の心の中のものだから。」
※解説
「こういう風に岡潔はいっている。 この「刺激を追い求める」ということが、まさしく我々の日常生活のみならず現代文明の危険極りないところでして、次から次へと刺激を追い求めることを「進歩」だと称して、文明の目標としているところにその危うさがあります。 だから仏教や東洋思想は既にそこを見抜いて、第1の心の世界を「幻の世界」だといっているのです。
西洋は岡潔がいうように基本的にはその第1の心の世界ですから、そのことに仲々気づかないのですが、第2の心の世界に無自覚的に住んできた日本人が先ずこの危険性に気づき、「情緒」の重要性を世界に訴えることが何よりも求められているのです。 そういう意味では、日本の「情緒」は今の文明を救うキーワードといっても良いのです。」
⇒ 前置きが長くなってしまったが、 岡潔も「夏目漱石」(正岡子規も含む)から日本文化の多くを学んでいる。
(2)夏目漱石に学んだ数多くの文人・科学者
小宮豊隆(ドイツ文学者)、鈴木三重吉(小説家)、内田百閒(小説家、随筆家)、寺田寅彦(物理学者)、高浜虚子(俳人、小説家)、上田敏(英文学者、詩人)、高山樗牛(文芸評論家)、正岡子規(俳人)、小山内薫(演出家)、松岡譲(小説家)、芥川龍之介(小説家)、久米正雄(小説家)、野上豊一郎(英文学者)、森田草平(作家・翻訳家)など。
⇒ 上記人物の中には、 門下生も含まれる。 森田草平氏(作家・翻訳家)は相当色々お世話になったようである。 生活を支える勤め先探しなどで。
(3)いよいよ、 次男・夏目伸六から見た夏目漱石
夏目漱石には2男5女の子供がおり、 次男は6番目の子供故「伸六」と名付けらたと言う。 また、 父・漱石は大正5年(1916年)12月9日に49歳で亡くなったため、 当時伸六は小学校2年生であった。 当時漱石は胃腸が弱く神経衰弱気味で怒りっぽく、 怖い父親のイメージしかないと言う。
従い、 この「父・夏目漱石」という本は、 伸六が幼いときに感じた父親と、 大人になってから父親の門下生宛ての手紙などを読みながら漱石の人となりを探ったものである。 作家・樋口一葉との原稿料の差(一葉: 原稿用紙1枚50銭/漱石: 20銭)など生活感溢れる生々しいエピソードも登場する。 漱石の原稿料20銭は、 38歳の頃(雑誌「ホトトギス」に『猫』の連載をし、 「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行(かいろこう)」などを執筆して、 世に名が出始めていた頃。 因みに有名な『吾輩は猫である』もこの当時執筆。)
→作品歴は次の通り。
「吾輩は猫である」(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』) 「坊っちゃん」(1906年4月、『ホトトギス』) 「草枕」(1906年9月、『新小説』) 「二百十日」(1906年10月、『中央公論』) 「野分」(1907年1月、『ホトトギス』) 「虞美人草」(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』) 「坑夫」(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』) 「三四郎」(1908年9 - 12月、『朝日新聞』) 「それから」(1909年6 - 10月、『朝日新聞』) 門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』) 「彼岸過迄」(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』) 行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』) 「こゝろ」(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』) 「道草」(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』) 「明暗」(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』)
⇒ 上記作品歴を見ると、 38歳 ~ 49歳のほぼ10年間で執筆されていたことが分かる。 物凄いエネルギーであり、 才能である。
伸六氏の話に戻ると、 漱石44歳の頃、 内幸町の長与胃腸病院に入院中に、 文部省から「文学博士」学位を授与するとの連絡を受けたが、 固く辞退したとのこと。 その理由を漱石自身が次のように述べている。 「小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りました。 是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。 従って私は博士の学位を頂き度くないのであります。 此際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意ではありますが右の次第故学位授与の儀は御辞退致し度いと思ひと思います。 宜敷御取計を願ひます。」
→ 上記漱石の辞退願いにも拘わらず、 文部省はしつこく「文学博士」学位受理を迫ったとのこと。 しかし、 漱石は「文部大臣が文部大臣の意見として小生を学位あるものと御認めになるのは已むを得ぬ事とするも、 小生は学位令の解釈上、 小生の意志に逆って、 御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。 最後に小生は目下我邦に於る学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑑みて、 現今の博士制度は功少くて弊多き事を茲に言明致します。」と、 再び送り届けられた学位記を、 また文部省宛てに返送してしまった、 とのこと。 兎に角「毀誉褒貶」の生き方を嫌ったと思える。
(4)臨終間際の漱石(伸六の思い)
「母の話によると、 私のすぐ上の姉が、 家とは、 ものの一町と離れていない、 すぐ近くの小学校に通っていた関係から、 一番早く、 臨終の父の枕辺に連れて来られたのだが、 多分、 あまりに面やつれした父の顔を見て、 急に悲しくなったのだろう、 しくしく泣きだしたのを、 隣に座った母が、 小声で、 泣くんじゃないとたしなめた、 その声が、 聞えたものか、 父が、 眼をつむったまま、 『いいよいいよ、 泣いてもいいよ』と云ったという。
恐らく、 父としては、 姉弟中で一番愛するこの末娘が、 自分のために、 しくしくと、 悲しそうに、 泣きじゃくる姿を、 ただしみじみと、 嬉しく感謝する気持ではなかったかと思う。 父は、 自分が、 常々子供等から、 ひどく怖れられているということを、 よく知っていたはずであり、 それと同時に、 この姉だけが、 不思議と少しの恐れもなく、 真向から、 この父になついていた事実を、 誰よりも、 はっきりと、 自覚していたはずだからである。
私と兄が、 母に手を引かれて、 父の枕頭に座った時、 今まで眼を閉じていた父が、 ふと眼をあけて、 私等」の顔を見て、 笑ったけれど、 その笑顔も、 私にとっては、 未だかつて見たことのない、 不思議な笑顔に違いなかった。 そうして、 父は、 私等より遅れて帰って来た他の姉達の嗚咽には、 『泣くんじゃない。 いい子だから』と云ったのである。 なぜ父は、 末娘の四女だけ『泣いてもいい』と云ったのだろうか。 が、 いずれにしろ、 父は、 五十年の生涯を閉じるに際して、 ようやく、 その一生を悩まし続けた潔癖症と癇癪から解放され、 始めて、 血のつながる子供等を、 最も純真な愛撫の情をもって、 眺め得たのではないかと思う。
父が、 息をひきとったのは、 暮れやすい冬の日が、 いつの間にか、 もうとっぷりと暮れてしまった、 その日の夕方の七時ごろであった。 父の書斎から、 玄関に通じる暗い廊下にまで、 一杯に立ちつくした無数の人の姿を、 私は、 今でも、 はっきりと思い出すことが出来る。 水を含ませた筆の先で、 順ぐりに、 父の唇を湿して行くこの人達の顔を、 私は、 ただぼんやりと眺めていた。
『いい子だから、 泣くんじゃない』と、 すすりあげる子供達を慰めた父は、 果して、 この私までも、 そのうちに数えていたのだろうかと、 時々、 考えることがあるのだけど、 恐らく、 死にぎわに、 私の顔を見て、 笑顔を見せた父としては、 きっとこの子も、 自分のために泣いていると思ったのではないかという気がして、 さすがに、 その時の自分の気持が思い返されて来るのである。」
⇒ 漱石49年の人生。 家族は普通人と変わりなく、 平凡なもののようであったと思われる。 しかし、 漱石の妻・鏡子は、 熊本へ移住して3年目に慣れない環境と初子の流産のためにヒステリー症が激しくなり、 藤崎八幡宮近くの白川井川淵に投身自殺を図り、 網打ちの漁師に助けられたこともあり、 しばらく就寝の際、 漱石は鏡子と手首に糸をつないでいたという。 このような試練もあったが、 鏡子は85歳まで長生きすることが出来た。
3)夏目漱石の人生
多くの文人・科学者に影響を与え、 今日、 私自身の人生にも深い感動と教訓を残して頂き、 意味ある人生を送られたものと思う。 漱石の胃腸の病が命取りになったのだが、 同時代に生き、 ご縁があったなら、 東洋医学で胃腸病治癒の手助けが出来たかも知れないと、 49歳という短い命を惜しむ限りである。
次男・夏目伸六氏の目から見た父・夏目漱石の姿に触れることが出来、 また漱石作品をじっくり味わい読書したく思っている。 伸六氏に篤く感謝申し上げたい気持ちで一杯である。 本当に有り難うございました。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
○本日のメッセージ
日本人 心の中に 強い意志
小さな一歩 大きな飛躍
目標高らかに行動を起こしましょう。 まとめてシメテいくことの大事さを確認してください。 最後の目標達成は、シメルことで実践してください。 最後にまとまり、完結してゆくところに今日の決め事が必要です。 秋本番を迎え、目標高らかに行動を起こしましょう。 日本を良くしてゆく活動を一人ひとりが実践しましょう。 経済の活性化・景気をよくしてゆくことは、一人ひとりの気分の高揚が大事です。 小さな一歩、一人の行いが日本を発展させていきます。
Thackery