安全な本営、地獄の戦地
靖国神社が抱える歪み
指導者たちは、戦火や飢餓から守られた安全な場所で、精神論や補給を無視した「机上の作戦」を組み立てました。その命令で行かされた若者たちを待っていたのは、文字通りの地獄です。
特攻: 片道分の燃料で、死ぬこと自体を目的とされた不条理な作戦。
餓死: 戦死者の大半は敵の弾ではなく、無謀な作戦による飢えと病気。
自らは肉体的な苦しみを知らないまま命令を下し、若者達は、すべてを奪われて悲惨な最期を迎えました。
遺族すら知らなかったA級戦犯との合祀と事後報告
戦後、靖国神社への合祀は、厚生省(当時)から提供された戦没者名簿を基に、神社側が一方的に進めました。遺族のもとには、ある日突然「あなたの身内は神様になりました」という通知が届くだけでした。
秘密裏に進められた合祀
1978年の秋季例大祭の前日、靖国神社は東条英機元首相らA級戦犯14柱を「昭和殉難者」として合祀しました。しかし、この重要な決定は事前に発表されることなく、極秘裏に執り行われました。実際にこの事実が新聞報道などで一般に明らかになったのは、翌年1979年(昭和54年)4月のことです。半年近くもの間、合祀の事実は世間から伏せられていました。
なぜ公表を避けたのか?
当時の靖国神社側(松平永芳宮司ら)が慎重を期した背景には、いくつかの大きな理由があったとされています。
国内外の反発を警戒:国内の世論や、近隣諸国との外交問題に発展することを恐れたため。
既定路線としての遂行:厚生省(当時)から送付されていた名簿に基づき、反対派に妨害される前に「既成事実」を作ろうとしたため。
結果として、事後報告の形となったことで、遺族の一部や当時の有識者からも「事前の相談や十分な説明がなかった」と不満の声が上がることになりました。
家族の魂を返してほしい」「A級戦犯と同じ場所に祀らないでほしい」と、遺族が合祀の取り消しを求める裁判(合祀訴訟)は何度も起こされてきました。
しかし、神社側は一貫してこう主張します。
「一度合祀された魂は、巨大な座布団に墨汁を落としたようなもの」「特定の魂だけを取り出す(分祀する)ことは宗教上不可能」国家の都合で勝手に祀り上げ、後から「システム上、もう元に戻せない」と突っぱねる構造は、戦時の大本営の身勝手な論理と酷似しています。
「死んでも靖国に行かない」と言い残した特攻兵
戦時中は「死んだら靖国で会おう」というスローガンが強制され、同調圧力に満ちていましたが、その陰で個人の尊厳を保とうとした若者たちがいました。
「死んでも靖国に行かない」と言い残した特攻兵
戦没学徒の遺稿集『きけ わだつみのこえ』に遺書が掲載されていることで知られる特攻隊員、上原良司(うえはら りょうじ)さん(慶應義塾大学在学中に学徒出陣、22歳で戦死)です。
彼は出撃の直前、実家の居間で妹に対して次のように語り残していました。
上原さんは、日本の軍国主義や「死ねば国家の神になる」という強要された価値観に、内面では激しく抵抗していました。しかし、その強い意思も無視され、戦後、彼は国と神社によって勝手に合祀されました。『俺は死んでも靖国神社には行かないからね』って言ったんです。『天国にいくから』って。『靖国神社に行ってもいないよ』って私はその一言が記憶に残っています」
「自分が盾になれば家族や祖国を守れるかもしれない」と、極限の思いで戦地へ赴いた若者たち。そして、彼らを死に追いやった指導者たち。
この「命を奪った側」と「奪われた側」が、同じ場所で、同じ「国家の功労者」として祀られている構造には、憤りを感じます。
戦争は、安全な場所にいる権力者が、大義名分のもとに若者の命をいかに安く扱ったかという歴史です。
私は母親ですから、A級戦犯はもちろん、戦争をはじめた者達は、誰一人として許せません。
しかし、今一部の人たちの中に、この政権に踊らされている若者がいるようです。
この戦争が必要悪だったかのような事を言っている、異常者の本やユーチューブではなく、本当の歴史を学んで下さい。戦争を美化しないで下さい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b08e5dde57ae50e60e75be686cc26ca1a8d66a14
