1964年開催の東京五輪を収めた公式記録映画『東京オリンピック』は市川崑が監督。アスリートの心情の表現を重視した演出や、超望遠レンズを使った多角的な描写は、記録映画でありながら60年経った今観ても十分以上に鑑賞に堪える芸術性の高い作品だった。当時の河野一郎五輪担当大臣が「記録性に欠ける」と批判し、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼んだが、1965年公開当時の国内興行収入記録を塗り替え、その記録は1972年公開の『ゴッドファーザー』まで破られることはなかった。
2021年開催の東京オリンピック公式記録映画は河瀨直美が監督。この作品には60年前の議論は起こり得ないだろう。なぜならこの作品はそもそも記録映画としての体をなしていないため。
オリンピックはアスリートには最高の舞台となる祭典であり、オリンピック競技観戦は彼らアスリートの最高のパフォーマンスを期待し、観る我々は感動を覚えるものである。ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックで、りくりゅうペアのフィギュアスケートのSP5位から大逆転で日本ペア史上初の金メダルを獲得したシーンで涙した人は少なくなかっただろう。
勿論、勝者によってしか感動はもたらされるものではなく敗者のドラマにも感動はある。しかしそのいずれにしても、アスリートのパフォーマンスありきであり、それが絵画や音楽であれば、アーティストの作った作品を目にして、耳にしての感動だろう。この映画は例えて言えば、絵描きが絵を描く過程や音楽家が作曲をする過程は描かれているが、その作品そのものは描かれていないという印象。
この作品にアスリートのパフォーマンスに割かれている時間は体感で3割程度。残りの7割は「彼らアスリートも人間である」というテーマに沿ったオリンピックに至るまでの人間模様が描かれている。そしてその人間ドラマには、競技者としての努力より、政治的迫害、ジェンダー差別をはねのけるといった社会的問題意識の方が色濃く出ている。
この作品で一番印象に残るのは女子バスケットボール競技。高校時代にバスケットボール部キャプテンとして国体出場経験のある河瀨監督のこだわりだったのかもしれない。しかし競技の映像よりも、時間を取って描かれていたのは、カナダの一人の選手のドラマ。彼女にとってオリンピック出場は人生の夢だったが、オリンピック前に子供を出産。競技を続けることを諦めないだけではなく、母乳で育てることを望んでいたので、オリンピック遠征に乳児と夫を帯同させることを働きかけそれを実現した。日本の選手の中には出産のためオリンピック出場を諦めた選手がいて、彼女との対比が印象的に描かれていた。競技の模様よりも、そのカナダの選手の授乳や夫が乳児と宿舎でテレビで観戦しながら応援しているシーンの方に重点が置かれていた。
記録映画の体をなしていないのは、あまりにも説明が少ないこともある。映画の冒頭には、オリンピック反対のデモのシーンがあるが、なぜオリンピック開催に反対があったのかその背景が描かれていない。東京2020オリンピックはパンデミックのさなかに開催され、この映画には医療現場のシーンや無観客客席のシーンが挿入されながら、その説明が一切ないので、あのパンデミックを経験した我々は理解しても、50年後、100年後にこの映画を事前の知識なしに観る人は訳が分からないだろう。
オリンピックの記録映画ではなく、オリンピック選手の人間ドラマを描くドキュメンタリー映画だと割り切れば評価できるかもしれない。しかしそれは、この作品が河瀨監督や制作会社、配給会社が資金面でのリスクを取っての作品であればの話。わずか1-2分足らずのケニアやシリアの選手の本国での様子を映像に収めるロケにどれだけの費用が掛かったかを考えると、このオリンピック自体が壮大な浪費だったことを思わせるものだった。
作品がオリンピック公式記録映画としては完全に失敗しているのは、河瀨監督の責任ではなく、河瀨監督の作風を理解せずに彼女の海外での功績のみによって選任した運営委員の問題であり、彼らが「オリンピック公式記録映画とは何か」の理解が全くなかったことに起因しているだろう。
★★★★ (4/10)
