『オッペンハイマー』 (2023) クリストファー・ノーラン監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

昨年、北米のみならず全世界興行収入トップであり、第96回アカデミー賞では最多13部門ノミネート、7部門受賞を果たした。アカデミー賞無冠だったクリストファー・ノーランをオスカー・ウィナーにした作品であり、実在の人物を描いた伝記映画としては歴史上1位の作品。

 

この作品は、J・ロバート・オッペンハイマーという人物を描いた作品であり、直接的に原爆開発そしてそれが実際に使用されたことの是非を問うものではないが、彼がマンハッタン計画の最重要人物である以上、その評価は避けて通れないだろう。作品の冒頭に「プロメテウスの火」が引用されていた。人間の力では制御できないほど強大でリスクの大きい科学技術の暗喩としてしばしば用いられるその言葉を目にした時点で、クリストファー・ノーランが原爆に対して批判的であることは想像できた。そして結論から言えば、面白さはノーラン過去作に譲るが、アメリカが原爆に関わったことの加害性をアメリカ映画が描き、それが商業的に全世界でヒットし、アカデミー賞を受賞するほどアメリカ本国で評価されたことは画期的なことであり、歴史的に意義のある作品だと思われた。自国民の過去の過ちを「自虐史観だ」とする風潮とは大きく異なっている(その点において、昨年公開された森達也監督『福田村事件』はもっと評価されるべき作品だろう)。唯一の被爆国である日本で真っ先に上映されるべきだった作品だろう。

 

作品の前評判は「事前情報が全くなければ分かりにくい」だったが、その通り。作品を分かりにくくしているのは、クリストファー・ノーランお得意の「時系列シャッフル」。作品は、「核分裂(FISSION)」「核融合(FUSION)」と題された二つのパートに分かれるのだが、それが前半・後半となっているのではなく、それぞれが分断され次々と映し出される。「核分裂」とは原爆を意味し、原爆開発の中心人物オッペンハイマーの主観で描かれている。そして「核融合」とは水爆を意味し、水爆推進派の原子力委員会長官ルイス・ストローズの主観で描かれている。前者の時点は1954年オッペンハイマーがソ連のスパイであるかを審議する聴聞会、後者の時点は1959年ルイス・ストローズの商務長官任命の可否を評議する公聴会。その聴聞会と公聴会それぞれでオッペンハイマーとストローズが証言するのだが、その証言の内容が過去の映像として描かれる。1954年、1959年、そしてそれぞれの時点からの過去の出来事が、バラバラになってシャッフルされて映し出されるのだから、分かりにくいことこの上ない。「核分裂」パートはカラー、「核融合」パートはモノクロになっているのでその切り分けはできるのだが、そうでなければもっと分かりにくかっただろう。

 

物語は、オッペンハイマーと彼に個人的遺恨を持つストローズの二者の対立構造が軸になっているが、クリストファー・ノーランは映画『アマデウス』を参考にしたとされる。オッペンハイマーがモーツァルトなら、ストローズはサリエリといったところだろう。

 

IMAXカメラで撮影された作品であり、プロダクション・バリューは言うまでもなく高い作品。特に量子力学を連想させる「星のごとく広大に散らばる粒子が蛍のようにうごめく」イメージや「火花のように輝く点が波の中を進む」イメージは見事だった(それぞれ脚本のト書き)。CGを嫌って実写にこだわるノーランらしく、トリニティ実験の爆発シーンも実際の爆発シーンの合成で作ったものだが、さすがに原爆の爆発はCGでもう少し迫力のあるものにできたのではないだろうか。

 

作品の内容を深堀りしてみる。
 

1938年、強固に結合していると考えられていた原子核に中性子を衝突させることで核分裂することが、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンによって発見される。その核分裂の際に大きなエネルギーを放出することが確認され、武器転用の可能性があることは科学者でなくとも分かっただろう。1930年代、オッペンハイマーは宇宙物理学の分野でブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていた。彼がブラックホールに関する論文を発表した奇しくもその同じ日に、ナチスドイツはポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。1939年9月のことだった。

 

マンハッタン計画に参与した科学者の多くは、オッペンハイマーをはじめユダヤ人であり、ナチスドイツに対する恐れと憎しみが原爆開発のモチベーションになっていた。理論物理を現実に応用するという科学者の希求と、戦争を有利に導く政治家の思惑が合致したことがマンハッタン計画を推進させていた。そのマンハッタン計画が始動したのが1942年。しかし、1944年末にはナチスドイツの敗退は濃厚となり、マンハッタン計画研究者にも伝えられていた。翌年4月にヒトラーが自殺。その時点で、研究者の少なからずがマンハッタン計画中止を進言したのだが、オッペンハイマーはその進言に加わらなかった。そして1945年7月に人類初の核実験であるトリニティ実験が成功し、そのわずか半月後に広島と長崎に原爆が投下される。映画には、ロスアラモスの研究所をリトルボーイとファットマンが運び出される場景が描かれている。

 

クリストファー・ノーランがこの作品を作った問題意識を表す逸話として、彼の息子が「核の脅威よりも、グローバル・ウォーミングの方が切実だ」と言ったことがある。彼にとって、核の脅威は今日的問題であることが分かる。それはオッペンハイマーの描き方にも表れているだろう。オッペンハイマーが断罪されているのは、原爆の開発者だからではなく、彼が原爆開発を途中でやめることを選ばなかったこと。ナチスドイツが原爆を持てば世界が滅亡することを怖れ、それを阻止することを目的にしていたはずのオッペンハイマーが、その可能性がなくなったにもかかわらずなぜ計画をやめなかったのか。それについて、後日弟のフランクが語ったところでは、「ロバートは現実世界では使うことのできないほど強力な兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていた。しかし人々は新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それまでの兵器と同じように扱ったと、絶望していた」。この作品でもそのように描かれていた。

 

オッペンハイマーは、1960年に来日した際に原爆開発を後悔しているかという質問に対して「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えた。彼がトリニティ実験、そして実際に広島・長崎に投下された前後で変節するのは、多くの無辜の民を殺戮した後悔よりも(勿論、それもあっただろうが、事前に想定できたこと)、核兵器の恐ろしさを知ればそれを使わないようにするだろうという希望が打ち砕かれ、新たな核兵器拡大競争の端緒を生んだことへの絶望があったからだろう。彼は、より大きな破壊力をもった水爆開発へと向かう流れに反対することで、FBIの監視下に置かれ、スパイ容疑は晴れたものの公職から追放されることとなる。

 

オッペンハイマーは、原爆の使用に関して「科学者は罪を知った」との言葉を残している。また後年、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節から取った「我は死なり、世界の破壊者なり」とヴィシュヌ神の化身クリシュナと自分を重ねた心情を吐露している。

 

彼が水爆開発になぜ反対したかは、広島・長崎の惨状を目の当たりにして後悔したというのは安易な解釈だろう。それよりももっと未来を見据えて、科学者として大きな過ちを犯し、それが取返しのつかないことであることを理解し、絶望したということだろう。その今日的問題意識をクリストファー・ノーランは描きたかったのだと思う。
 

トリニティ実験の成功を祝うパーティーで、オッペンハイマーの演説を熱狂的に受け止めるロスアラモスの職員が喜ぶ姿を目の前に、オッペンハイマーが原爆投下の惨状を幻視するシーンは実に印象的だった。実験の成功を人々が喜ぶ中で、一人その後の恐怖におののく姿を描くことは、彼を英雄視するものでは間違ってもなく、原爆を批判的に評価するノーランの思いが最も表れたシーンだったろう。この作品が「広島・長崎の惨状を描いていない」という批判に関しては、それが映画話法であることを理解しない的外れな批判だと観るまでは思っていた。それは観た後も同じ意見ではあるが、その幻視のシーンがあまりにも「きれい(皮膚が紙のようにめくれる、炭化した死体が横たわる)」であり、広島・長崎の現実を知る者は過去の経験をインサートできるのに対し、世界の多くの人は原爆記念館を訪れたこともなければ、あの惨状を映した映像を目にしたこともないだろう。『はだしのゲン』を子供の頃に読んだ経験のある国民とは訳が違うと言える。それでも、あまりに直接的に惨状を描くことは、「そんなものは見たくない」という観客を失うことになるだろう。ノーランも逡巡したことだろうが、彼の選択を自分は支持したい。

 

世界が再び戦争へと突入しつつあり、過去から学ぶ必要性が高まっている今日だからこそ観るべき価値のある作品。今後、日本人監督により今日的問題意識のある戦争映画が描かれることを期待する。

 

★★★★★★★ (7/10)

 

『オッペンハイマー』予告編