『Mishima: A Life in Four Chapters』(1985) | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

ポール・シュレイダー監督による『アメリカン・ジゴロ』(1980年)、ナスターシャ・キンスキー主演版『キャット・ピープル』(1982年)に続く作品。脚本は彼と兄の共作。同性愛的描写があることに遺族(瑤子夫人)が反対し、日本公開されていない作品。

 

四章立てであり、一章から三章までには、それぞれ『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』のダイジェストが劇中劇として挿入されている。三島の半生の回想をモノクロの映像、自決当日のドキュメンタリー調ストーリーをカラーの映像で撮り、その三者を紡いて作っている。

 

三島由紀夫が作家として作品で描いた世界観を、彼の生き様を映す作品の中において、映像で再構築しようとする非常に挑戦的な作品と言える。ウェイトはあくまで彼のアーティストとしての部分。その点において、同じ三島由紀夫を題材としながら、史実を忠実になぞった若松孝二監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年)とは性格を異にする。

 

見どころはその劇中劇におけるアートデザイナー石岡瑛子(マイルス・デイヴィスのアルバム『TUTU』のカバーデザインにより日本人で初めてグラミー賞を受賞)の美術。舞台演劇のような単純化されたセットを映画の中で使うのは、ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(2003年)で効果的に使われた手法だが、この作品においては功を奏しているとは言い難かった。特に、『金閣寺』と『鏡子の家』では、何か予算をケチったかのような安っぽさを感じた。『奔馬』で、主人公の飯沼が壁に掛けられた絵画を切り裂いて別の場景から登場したり、密会の場面に官憲が突入してきて部屋の障子が四方に倒れるようなダイナミックな演出はよかったのだが。

 

緒形拳の三島由紀夫はよかった。特にユーモアのセンスを持ち、不思議と人を惹き付けるキャラクターをうまく演じていた。それに比して大いに不満なのは森田必勝。『金閣寺』では坂東八十助、佐藤浩市、『鏡子の家』では沢田研二、『奔馬』では永島敏行と、豪華なキャストを揃えているのに、もう少し華のある役者を起用してほしかった。その点では、先の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で森田必勝を演じた満島真之介はいい演技だった。

 

この作品で、三島由紀夫ファンとして納得できないのが、三島の持っていた皇国史観への掘り下げどころか言及が全くといってないこと。それなくして、自衛隊駐屯所での激の意図は理解できるものではなく、ただ単なる狂人のパフォーマンスとしか受け止められないだろう。

 

三島自決の日、激を飛ばす彼の眼前に集まった自衛隊員は約800人。彼の演説はヤジと怒号にかき消されたとされるが、それでも聞こうと耳をそばだてる者もおり、少なくとも大きなボディアクションで三島を罵倒する者はいなかった。せいぜい100人程度のエクストラで、その大部分が腕を振り上げ、大袈裟なジェスチャーで三島をこき下ろすシーンはかなり残念だった。

 

また切腹の瞬間、画像は『奔馬』の切腹のシーンに切り替わるが、その必要はあったのだろうか。切腹のシーンを映さず、海のかなたに深紅の朝日を映した冒頭と同じエンディングのシーンとして、「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇つた」という『奔馬』の一節のナレーションで終わりでよかったのではないだろうか。

 

そして最後に、遺族の反対があった同性愛的描写とされるダンスホールのシーンも無意味。三島の同性愛的嗜好を盛り込むならば、聖セバスティアヌスの殉教画に性的興奮を覚える『仮面の告白』の描写をもう少し掘り下げるべきだったろう。

 

実在のしかもコントロバーシャルなリアル・フィギュアを扱う難しさにチャレンジした意気込みは認めるものの、大いに物足りなさを感じる出来だった。

 

★★★★ (4/10)

 

『Mishima: A Life in Four Chapters』予告編