朝起きたらなんと11時でした\(^o^)/

やべぇよ、やべぇよ……


まぁ昨晩は盗んでない自転車で近鉄奈良-橿原線を走り出してましたからね。眠いわけだ



ちなみに地形図に等高線を引く作業は明日中に終わりそうです。


これでしばらく黒部渓谷と格闘しなくても良いワケだ

思い返せば寝ても覚めても黒部渓谷と餓鬼山が僕の頭の中に…




………………



ああ、いやだ


もう黒部とかいう単語なんて見たくない


それでころか奈良にも黒部とかいう地名があるらしいけど絶対に行きたくない


同じ学科に黒部さんとかいう人がいたけど今度から無視しよう

元々仲がいい訳じゃないけどな



あ、長野名物マス寿司おいしいです(^q^)

おかしいな、単純計算とか鬼みてーにやらなアカンとゆーのに

なんだか製図ペンと格闘してるのが楽しい、スゲー楽しい


これがアレか、H教授のいう一周回った楽しさというヤツか

ゲシュタルト崩壊と原理は同じですねわかります





あ、ちなみに最近ブータンの歴史についてお勉強してMATH

ドゥック派の聖人の名前覚えんの結構難しいですけどね、それでも結構楽しい


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習得し終わったら今度はキルギスの叙事詩マナスでも覚えてみようかね

ちなみに少年編から壮年編までで50万行を超えるとか

はっはっは覚えられるか

いやむしろ殺す気か


・・・・・・・挑戦してみてもいいのよ

ヴィクトル・スタルヒン

北海道旭川市(生まれはロシア)出身 1916年5月1日生まれ

所属:巨人軍→パシフィック→金星→トンボ


プロ野球史上初めて300勝を達成した大エース

190センチの長身から投げ下ろす速球で相手を圧倒し、戦前巨人では沢村英二と並び称されたスター

そして、輝かしい実績と同時に耐えがたい苦汁を舐めて生きた、悲運の人物でもあった。


1916年帝政時代のロシアのニジニ・ダギルにて誕生

一族に王党派がいたために幼い頃から逃亡をよぎなくされ、シベリアを超えて極東へと逃れる生活を送った。

9歳の時に日本へ渡り、北海道旭川に移住。旧制旭川中学に入学し、速球派のエースとして鳴らす

ロシア人であるスタルヒンは同級生にいじめられることもあったが、成績優秀、抜群の運動神経もあって野球を通じた仲間に恵まれる。

父が殺人事件を起こして生活に困窮する事もあったが、同級生達のカンパを受けるといった事からもそれらはうかがい知れるだろう。


1934年、アメリカ大リーグの薫陶を受けて日本でも職業野球が産声を上げた際に、旭川の怪童の噂を聞いた正力松太郎の誘いで巨人軍に入団する

もっとも、政治家と縁の深い正力の説得は「入団しなければソ連に家族を引き渡す」といった強引なものであったらしい。

また、旭川中学はスタルヒン在学中に2年連続で北海道大会決勝で敗退、念願の甲子園出場の為には彼の存在が不可欠であった。

同級生を裏切らなければならなくなったスタルヒンはチームメイトに一言も言わずに中退、夜逃げのような形で東京行きの汽車に乗った

後年妻に語った所によると、汽車が仲間達の「行くなぁ!」という叫び声に聞こえたという


プロ入り後は目覚ましい活躍を遂げ、特に1939年にはシーズンタイ記録の42勝をマーク、名実共に巨人のエースとして活躍

しかし、戦争の悪化によって特高に追いかけまわされ、遂には巨人軍を追放されるなど苦難をここでも味わった

戦後は球団を転々とし、1955年にトンボユニオンズでプロ野球史上初の300勝を達成する


1957年1月12日、中学時代の同窓会へと向かう途中で事故死

車に乗っていた友人の証言によると、会場から逆方向へ向かった上に途中で彼らを降ろして電車で会場へ向かう様促すなど、その死は不可解なものであった



●通算成績

303勝176敗 4175.1投球回 1960奪三振 防御率2.09



断崖絶壁ウリャンハイ


余談として、彼の死は、一体どのようなものであったのか?

僕の想像では、スタルヒンの死は自殺だと思う

スタルヒンはプロ野球選手として上京する際、母校の悲願である甲子園出場を知りながら彼らを裏切った

その後ろめたさとどうしようもないという感情、そして罪悪感が、彼の心に大きな傷を残していたのではないだろうか?


このブログのタイトルは「断崖絶壁ウリャンハイ」である

これはもう、見ての通りであるから皆さんもご存じのハズだ


では、「ウリャンハイってなんだろう?」という質問も当然出てくると思う

しかし、これに関しては、わたくしめも詳しくは存じません

なぜならこの謎の単語は、某PEDIAをテケトーに彷徨っていた中で偶然目にしたものだからだ。

つまり、偶然見っけて採用したので、由来など知らないのである


で、とどのつまり今ググってみましたの↓



ウリャンハイ [Uryangkhai]

中国、明代にアムール川源流域から興安嶺東方に移住してきた

モンゴル系の狩猟遊牧民族。〔「兀良哈」とも書く〕



あー、そういえばこんな感じのトコから取ったような気がしますわ

ちなみに詳しく調べてみた所、現在のロシアのトゥヴァ共和国の辺りが

大昔ではウリャンハイと呼ばれる地域だったらしい


トゥヴァ共和国ってとモンゴルの近くだったから、結構東のほうなんだね

もっとこう、ダゲスタンのみたいに西のほうだと思ってましたよ。


ちなみに、俺はこういう系の地域名称には結構詳しかったりする。

というか、それ以外に何も能が無いorz



あ、今日はこれ以外に話すネタは特にないんだ。すまないな

まぁ、ブログを見ている人がいるかどうかは謎ではあるが






[追記]
トゥヴァの地図貼っておいたよ(^q^)


断崖絶壁ウリャンハイ


木樽正明(きたる・まさあき)

千葉県銚子市出身 1947年6月13日生まれ

所属:東京オリオンズ→ロッテオリオンズ(同一)

俳優としてもいける。オリオンズの顔になる


昭和40年の暮れ、パリーグの老舗球団、東京オリオンズのスカウトがとある高校生の家を訪れていた。ドラフト2位で指名された高校生右腕、木樽正明の入団交渉を行うためである。

木樽は地元である銚子商業のエースとして活躍し、1965年の夏は甲子園に出場。大会を破竹の勢いで勝ち進み、決勝で三池と戦った

抜群の切れ味を誇るシュートを武器に天才と呼ばれ、また彫の深い顔立ちから女性からの人気も高いスタープレイヤーであった。

甲子園のアイドルはアマチュアの実績を引っ提げて、ドラフト1位で強豪球団に指名される・・・・筈だった


その年のドラフトの抽選結果、木樽を指名したのは東京オリオンズのみ

しかも、順位はなんと2位。

甲子園で奮戦し、木樽と並び称された堀内恒夫は巨人が1位で指名。

同期に水をあけられる結果となった。

まだ若い、18歳の荒武者は2位という評価を「低い」と憤慨

幾度となくやってくるオリオンズのスカウトを跳ね除け、この時既に心中では大学野球への進路を描いていた。


頑固な木樽の態度に説得を諦めかけていたスカウトだが

オリオンズのオーナー永田雅一は諦めずに木樽の獲得を厳命

「この男だけでは何が何でも入団させい!」

という永田の詔の下、スカウトは師走の喧噪の中最後の交渉へ向かったのだった。


木樽が入団に合意したのは大晦日の夕方

辣腕で知られる青木一三スカウトの

「投手で身を立てようと思うなら、大学へ進んで4年間腕を磨くよりも、高校を出てすぐにプロに飛び込み、一流打者を相手に相手にもまれた方が出世は早い」

という一言が切欠だった。

何とか入団の決まった有望新人に永田社長は大喜び

彫が深く、顔立ちも整った天才に

「俳優としてもいける。オリオンズの顔になる」

と賛辞を送った。



入団後の木樽は、1年目からリリーフを中心に活躍。2年目には防御率2.53で8勝を挙げる

3年目は怪我で0勝に終わり、野手転向も検討されるが

精密機械の異名を持つ先輩小山正明の嘆願もあって投手を続行

69年にはリリーフ中心に15勝を挙げ、最優秀防御率を獲得し見事復活

球団がロッテに変わって以降も活躍し、74年には24年ぶりの球団日本一に貢献

プロ後半生は故障が続き、76年に現役を引退する。

その後はロッテのコーチ、二軍監督、スカウトを勤め上げ

2002年から2006年はジャイアンツの編成部に就任、2007年にはコーチを担った

2011年からは、JFE東日本硬式野球部のヘッドコーチに就任している


●通算成績

112勝80敗 1610投球回 841奪三振 通算防御率3.05



断崖絶壁ウリャンハイ-木樽正明