足立光宏(あだち・みつひろ)
大阪府出身 1940年3月10日生まれ
所属:阪急ブレーブス
騒げ、もっと騒げ・・・
1976年、巨人vs阪急となった日本シリーズの第7戦
阪急の先発、ベテラン足立の心は不気味なほど静まり返っていた。
先に連勝で王手をかけた阪急だったが、巨人は王者の意地で怒涛の3連勝
逆に阪急が王手をかけられる展開となる。
前年戦後初の最下位に沈みながらも、張本勲、加藤初といった補強組の力で大洋、中日を下した巨人軍
永遠の大スター長嶋茂雄の指揮の下、絶対絶命の状態から奇跡の連勝
このまま昭和33年の西鉄よろしく大逆転劇で日本一となる・・・はずだった。
敵地、後楽園球場はジャイアンツファンで埋め尽くされ、若手の山口高志や今井雄太郎は緊張で震えている
そんな中、36歳のベテランはただ一言つぶやくと、マウンドへ向かった
「騒げ、もっと騒げ・・・たかが野球じゃないか」
高田のソロ、味方の悪送球で2点を失うも、足立は顔色を変えず淡々と打者を打ち取っていく
18フィート254㎜盛られた土の上から放たれる長年の切り札シンカーは冴え、士気旺盛な加藤・福本は休む暇を与えず相手を攻めた
試合は4-2で阪急の勝利
西本監督時代に果たせなかった日本一の座を、6度目の正直でようやく掴んだのだ
足立が阪急に入団したのは1959年。社会人・大阪大丸を経由しての苦節の末
しかしそのプロ生活は決して順風満帆なものではなかった。
生来の無愛想な人柄を当時の戸倉監督に嫌われ、入団後3年間で得た勝利はわずか9つと徹底的に干された
そんな無頼漢が脚光を浴びたのは1962年5月24日の南海戦のこと。
南海自慢の400フィート打線をアンダースローから繰り出す速球でねじ伏せ、一試合17奪三振の日本記録を樹立。自分を起用しない監督と首脳への憤りを込めた投球だった。
その年、戸倉は解任。後任として元大毎の西本幸雄が監督に就任する。
西本は足立の才能を高く評価し、何度打たれても彼を辛抱強く起用し続けた
63年は6勝18敗という成績に終わったものの、自分を見放さずに信じてくれる西本監督に報いるため、足立は13、15、17と年々勝ち星を伸ばしていった
67年には20勝10敗、防御率1.75で最多勝、最優秀防御率を達成。日本シリーズではV9巨人を相手に敗れるも2勝を挙げるなど奮闘する
翌年に肩を壊して低迷するも伝家の宝刀シンカーを習得し、71年に19勝を挙げ復活
以降も阪急一筋の名選手としてチームに君臨。米田哲也、山田久志らと共にチームを引っ張った。
1980年、21年の現役生涯を終える
●通算成績
187勝153敗 3103投球回 1482奪三振 通算防御率2.91