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〈相模原小事典〉 さ 【叫ぶ手】

さけぶて 【叫ぶ手】


 中央にある西門商店街に設置されているモニュメント。作者は芸術家・岡本太郎氏。商店街リニューアルの際の1982年(昭和57年)に設置された。人の手をモチーフにした大きな作品で、赤と青の一対になっており、米軍基地西側ゲートからのびる道の両側にすえつけられている。

 岡本氏の作品が同商店街に設置された経緯について、詳細は不明。ただ、筆者は以前、地元の方から話を聞いたことがある。

「実は、相模原には財界人や著名人とコネのある実業家がいて、岡本太郎とも知り合いだったんだ。その実業家の口利きで、岡本太郎に依頼したというわけなんだよ」

 筆者がこの話を聞いたのは、今から28年ほど前のこと、JR相模原駅の居酒屋であった。話をしてくれたその40歳代の男性が何者だったのかわからないし、その話が本当なのかどうかも不明だ。ちなみに、その男性は、頭髪は短いパーマで、開襟シャツにスタイリッシュなジャケットを羽織っていたが、その方の氏名や住所はもちろん、素性や職業のついても定かではない。また、その実業家氏も当時すでに高齢だったというから、もうご存命でないかもしれない。

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遊歩道から見た「叫ぶ手」 撮影 筆者


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道路の両側に設置された「叫ぶ手」



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反対側から見た「叫ぶ手」


『色街をゆく』補記 ちょっとひと息

月刊誌『ドンドン』に「日本性風土記」を連載することになった際、どのような内容にするかについて、いろいろ迷ったものである。


まず、必要以上に執筆者が全面に出ることだけは、絶対にやめようと思った。当時、風俗レポートのようなものは数多く世に出ており、その中には著者本人がやたらと自らをアピールし、「オレはこんなにすごい経歴だ」「オレはこんなに実績がある」「オレは風俗でこんなプレイをした」などと自己顕示を繰り返し、挙句は風俗で働く女性に無理なプレイを強要したり、通常では行われないような、たとえば店外に連れ出してそれを自慢するといった、自慢たらたらの「ルポ」などもあった。


そういうみっともない真似だけは、絶対にするまいと思った。書きたいテーマは「色街」であり、自分ではないからである。


また、筆者はライターでありながら、タイムリーな速報がとても不得手である。あれこれ考えているうちに、どんどん日が経ってしまい、ネタを腐らせてしまうことなど何度もある。


そこで筆者は、何年後に読んでいただいても鮮度を保てるようなもの、すなわち資料性のある構成を心がけようと思った。そのためには、まず資料、そして証言をできるだけ数多く集めることが大切だと感じた。


資料性を重視したため、記事は何とも硬い感じになってしまったが、仕方がない。本ブログでは、『色街をゆく』では書ききれなかった、紀行やエピソードについても書き進めていきたいと思っている。

6.29首相官邸前抗議

6月29日、都内の首相官邸前で、大飯原発の再稼動ならびに国の原子力政策に反対する抗議集会が開催された。


この抗議集会はすでに毎週金曜日に開催されてきたものだが、回を重ねるごとに参加者が増加している。


29日当日、筆者は開催前の17時30分に現地に到着したが、すでに多数の参加者が集まっていた。これまでは、開催前には国会記者会館脇にいくらかの列を成している程度だったが、29日はすでにその隊列は長く、霞ヶ関に隣接する六本木通り近くにまで達していた。これは、筆者の経験では6月15日の集会の終了時に匹敵するほどの人数であった。


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国会記者会館脇に集まった参加者 撮影 筆者


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内閣府裏手の集まる警備の警官諸氏 

車両のナンバーは「多摩」が多く目についた 多摩地区からの動員か


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急速に増える参加者


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いつもは人通りも少ない永田町に外が続々と集まる まだ18時前


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手製の横断幕やプラカードは3.11以降によく見かける定番


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隊列の一方はついに六本木通りを越え、霞ヶ関方向に


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財務省まで達した隊列の一方 18時30分頃


18時になって抗議行動が開始されたが、あまりの人の多さに身動きが出来なくなると判断した筆者は、議事堂などの周辺から周囲を回りこむような動きをすることとした。


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官邸前から延びた隊列


隊列は、①霞ヶ関方向、②内閣府裏手を外堀通り方向、③丸の内線「国会議事堂前」沿いを議事堂を取り囲む形での方向、④国会図書館方向、⑤議員会館脇、などに伸びていた。①以外は、警察はあまり隊列が長くならないよう、車道にある程度ははみ出すことは仕方が無いような整理を進めたように感じた。


19時を過ぎる頃には、随所で歩行者に対しての規制が強化されていた。走り回ってやや疲れていた筆者は、溜池山王方向の坂道を少し歩いて、「ここなら歩行者も少ないので、少し休めるだろう」と判断し、通行する歩行者の邪魔にならないようガードレール寄りに立ち止まった。すると、すかさず警官から「立ち止まらないでください」と注意を受けた。「疲れたので、少し休むだけですから」と平身低頭に申し出たが、「立ち止まることはできません。赤坂まで行けば構いません」と指示される。根性の無い筆者は、諦めて議員会館前まで戻ることにした。


議院会館前付近では、警備の警官数名に「帰りの地下鉄」について聞いたが、「『国会議事堂前』は無理でしょう。『永田町』か『溜池山王』、または『霞ヶ関』まで歩いてください」との説明だった。しかし、筆者のすぐ後ろには『国会議事堂前』に通じる通路のひとつがあり、人の利用や通行も何ら問題が無かった。動員による不慣れな警官が多いのかと感じた。意図や詳細は不明だが。

増え続ける参加者と、情け無いことに自身の疲労により、いよいよ身動きができなくなり第一議員会館前付近から様子を伺っていると、19時39分頃になって、警察車両が官邸前に集合し、議事堂ならびに記者会館や衆議院第二別館の脇から官邸前に直面する道路を封鎖した。


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官邸前の道路を封鎖する警察車両


その光景を見ていた筆者は、一瞬不安になったものの、すぐに道路に参加者があふれ出し、警察も対処ができなくなったことを、参加者や現場にいた知り合いのジャーナリスト諸氏などから携帯電話などを使って確認した。


官邸前の道路は、19時30分過ぎにはすでに膨大な数の参加者によって寿司詰め状態だったことを後に複数の証言や航空写真などで確認した。


その後、主催者から「集会の終了」が告知され、20時を待たずに帰宅する参加者が地下鉄へと向かいだした。その一方で、現場に残る参加者も多数いた。官邸前からのびる道路は、さなから歩行者天国のような状況だった。


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集会終了後もその場に残った参加者の一部 以下3枚は同様の状況


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筆者が撮影や参加者やスタッフに取材を続けていると、警備の警官が「ここは歩行者天国ではありません。速やかに退去してしてください」と拡声器で指示を繰り返していた。参加者は、地下鉄の国会議事堂前、溜池山王、霞ヶ関、永田町などから帰宅していった様子だった。車両等による退去者は少ないようだった。


筆者は当初、国会議事堂前の構内までたどり着いたが、人ごみがいくらか空いてきたので、官邸前に戻って取材を繰り返した。その後、霞ヶ関まで下ると、経済産業省前のテントには、かなりの人が集まっていた。


抗議集会の参加者は、警察発表と主催者発表ではかなりの隔たりがあるようだ。この点についてネットなどで論議されているが。時間がかかるものの航空写真などである程度の数は割り出されるのではないとか思われる。


極めて断片的な報告で恐縮だが、とりあえず現時点で整理できたものをここに掲示するものである。

『色街をゆく』補記 1 吉原 その2

よく知られていることだが、「吉原」という地名や住所は、現在では存在しない。ソープ街になっているエリアは、正しくは「台東区千束」である。


だが、「吉原」の名がついた建物やスポットは、いろいろ見かけることができる。名所旧跡としては、吉原神社や吉原弁財天などがすぐに挙げられよう。


筆者がすぐに思いつくのは、「NTT吉原」である。


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2000年頃か 筆者撮影


これはNTT吉原ビルのすぐ脇にあった電話ボックスのプレートである。最も上の表記が「千束」ではなく「吉原」になっている。また、一番下の事業所名が「上野支店」となっているが、それ以前は「吉原営業所」だった。



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やはり2000年頃か 筆者撮影


また、NTTビルのすぐ近くには、かつて東京電力の変電所があった。こちらも「新吉原変電所」だった。


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筆者撮影


ちなみに、これもよく知られたところだが、現在の吉原を「新吉原」と呼ぶのは、江戸時代に由来する。かつては現在の人形町あたりにあった遊廓が、もともとの吉原。それが、火災によって現在の場所に移転し、新吉原と呼ばれるようになったとは、さまざまな文献や資料にみられるところ。


さて、ソープ街としての吉原は、これもどこか不思議な空間である。


(つづく)



『色街をゆく』補記 1 吉原 その1

拙著『色街をゆく』は月刊誌『ドンドン』に連載した記事をまとめたものだが、かなり加筆修正した部分が多く、そのほかにもいくつかの書下ろしが含まれている。具体的には、「吉原」「黄金町」「ススキノ」「飛田」「真栄原」「木辻・生駒」「安浦」は本書の為に書き下ろしたものである。


そのなかでも、吉原は筆者にとって馴染み深いエリアである。一時期は、ほぼ毎週のように通っていたこともある。


通い慣れてくると、単に遊んで帰るだけではもったいないことに気付いた。何より、吉原の「なか」はとても治安がよい。困るのはポン引き男性くらいのもので、それでもキチンと断ればそれほどしつこく絡まれることはない。



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2000年頃 筆者撮影


上の建物は、吉原の外れで営業していたバーである。筆者は遊んだ後、少し吉原のなかをふらふら歩き回ってから、何度かこのバーで休んだことがある。静かな雰囲気の、落ち着いたバーだった。値段も、カクテルやリキュールが800円くらいからだったと思う。壁に「カクテルの注文は、できるだけ努力します」などと書かれた張り紙があったように覚えている。現在は閉店してしまっている。


ほかにも、吉原のなかには何軒か居酒屋さんや小料理屋さんなどがあって、寄らせてもらったことがある。ほろ酔い気分になった筆者は、タクシーで上野まで行って、カプセルホテルで休むというのが定番だった。

(つづく)

『色街をゆく』補記 序 その4

2002年から筆者は、月刊誌『ドンドン』(日本ジャーナル出版・現在休刊)で歓楽街ルポ「日本性風土記」を連載することになった。


さて、現在ではあまり見かけなくなってしまったが、当時は風俗ルポの記事は大変に多く見かけた。その頃にはまだいくつも発行されていた風俗情報誌や、男性向け実話誌はもちろんのこと、一般の週刊誌などにも風俗体験レポートが載ることも珍しくなかった。筆者も、実話誌などにその手の体験ルポをいくつも書いたことがあった。


だが、筆者は新しくもらった連載で、そうした体験モノを書こうとは思わなかった。


まず、体験ルポと言うのはプレイ内容の紹介に偏りがちで、しかも「読者の好みに合わせるように」と、いろいろな脚色を編集者から求められることが少なくなかった。そして、脚色したとしても、どこかありきたりの内容になることが多かった。「余計なことは書かずに、料金などのシステムと利用手順だけで十分ではないのか」。筆者は、いつもそう思っていた。


なにより、体験ルポでは風俗店や女性のことばかり書くよう要求される。要求はされなくとも、その程度の記事の分量しかもらえない。ここが、筆者の最も不満なところだった。


風俗店や色街というものは、それだけで独立して存在しているわけではない。そこに至る道のりがあり、周辺には街があり、さらに歴史や由来がある。そうしたものを見て歩くだけで、いやむしろそうしたもののほうが、はるかに面白く楽しいといつも筆者は思っていた。そして、そうした色街とその周辺について、新しくもらった連載で書いていこうと決めた。


これを若月編集長に話したところ、気難しそうな表情のままぽつりと言った。


「うん、いいと思いますよ」


(つづく)

『色街をゆく』補記 序 その3

日本ジャーナル出版から発行されていた月刊実話誌『ドンドン』(現在休刊)に売り込みをかけてみたものの、編集長の若月祐二氏はまったく興味が無い様子だった。


筆者は仕事はもらえないだろうと完全に諦め、日が経つにつれ売り込みに出向いたことすら忘れかけていた。


ところが、編集部を訪れてから1ヶ月近く経った頃、若月編集長から電話で連絡が来た。


「考えたんですが、風俗街のルポをやってもらえませんか」


筆者にとって、まったくの想定外であった。さっそく時間を取ってもらい、改めて編集部を訪れた。すると、さらに驚く言葉を若月氏から聞いた。


「とりあえず、毎月5ページの連載でどうでしょう」


普通、見ず知らずの無名ライターが売り込みに行ったら、最初は単発の記事か、ページの片隅のコラム程度の仕事がもらえればいいほうである。それが、いきなり5ページの連載をいただけるなどという話は、筆者にとって未体験のことだった。


しかも、さらに驚いたことには、内容も筆者に殆んど任せてもらえるということだった。


その後、さらに若月氏と打ち合わせを重ねて内容をつめていった。連載のタイトルは、『東京ダークサイドリポート』に書いた記事のひとつから取って、「日本性風土記」に決まった。第一回は池袋で、『ドンドン』2002年2月号に掲載された。


(つづく)

『色街をゆく』補記 序 その2

ワニマガジン社刊『東京ダークサイドリポート』(99年刊)に池袋についてのルポのような原稿を書いてから、2年ほど経った2001年秋頃のこと、日本ジャーナル出版から発行されていた月刊誌『ドンドン』(現在休刊)に売り込みをかけた。


電話に出たのは、編集長の若月祐二氏だった。いつものように、企画の提案をさせていただきたいと言うと、若月氏はけだるさそうな口調で言った。


「いやあ、来ていただいてもねぇ…」


ライターの売り込みに、門前払いなど珍しいことではない。根性の無い筆者は、この時点であっさり引き下がることも多かった。だが、実話誌系の雑誌のなかでも『ドンドン』は好きな雑誌だったので、是非とも仕事をしてみたかった。「ご挨拶程度で」「お時間は少しで結構ですから」などと、何度も頼み込んだ。


その結果、「…そうですか。では…」と、とりあえず訪問のアポだけはもらうことができた。


訪問当日。名刺交換した若月氏に、過去に書いた記事のコピーを参考として渡した。そのなかに、『東京ダークサイドリポート』掲載の記事もあった。若月氏は、眼鏡の奥から気難しそうな目でそれらをちらりと見ると、机の上に無造作に置いた。そして、いつくか会話のやり取りをしたと思うが、よく覚えていない。


「それでは、よろしくお願いします」


筆者はそう言って、若月氏に深々と最敬礼すると、日本ジャーナル出版の立派なビルを後にした。


(これは、仕事はもらえそうにないな)


若月氏の興味のなさそうな雰囲気から、筆者は漠然とそう思った。

ところが、それから1ヶ月近くたって、筆者にとってまったく想定外の方向に話が進んでいくことになった。

(つづく)


『色街をゆく』補記 序 その1

以前から街歩きが好きだった筆者は、その手の記事を書く仕事をしたいと漠然と思っていたものの、なかなかその機会がなく、いたずらに街中をぶらぶら歩いては、時たま写真をとるようなことで気分を紛らせていた。


そんなある日、仕事仲間で知り合いの中田薫氏(現・イグジット代表)から、ひとつの仕事を依頼された。「ワニマガジン社から発行されるムック本に、街についてのルポを書かないか」というものだった。信頼する中田氏からの連絡に、筆者は直ちに承諾した。


ムックのタイトルは、『東京ダークサイドリポート』。編集長は、現・ミリオン出版編集局長の久田将義氏だった。


依頼内容は、池袋についてのルポだった。そのタイトルからして、久田氏はかなりアンダーグラウンドでディープな内容を要求していたのだと思う。しかし、取材力も根性も無い筆者には、深く高度なルポルタージュなど無理な話だった。


そこで筆者は、とりあえず池袋の街を駆けずり回り、また少ない知り合いから情報を得て、さらに地元の図書館や古書店、個人宅やそれこそゴミ捨て場に至るまで、手を尽くして資料の類を集めた。それらをもとに半ば強引に、「実録・性風土、池袋」「アンダーグラウンドシティ池袋の断片」という2本の原稿にまとめて久田氏に提出した。


そんなやっつけ仕事の原稿を、久田氏は快く受け取ってくださった。今から思えば、何とも恥ずかしい次第である。『東京ダークサイドリポート』は、99年夏に発刊となった。

(つづく)

野田首相の「原発再稼動」表明に市民が官邸前で抗議行動

6月8日、東京・永田町の首相官邸前で、野田総理による大飯原発3号機ならびに4号機の再稼動に関する会見に抗議する集会が行われた。


首相官邸前では、連日の抗議行動が行われていたが、この日は同原発の再稼動を認める会見が行われるとの予測から、多くの市民や学生などが集まった。



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大飯原発再稼動に抗議する市民たち

撮影 橋本玉泉


集会は18時から開始された。時を同じく野田総理の会見が始まり、その音声が現場に流された。野田総理が「国民生活を守る」という文言を使うたびに参加者から不満の声が漏れた。さらに、「福島のような事故は二度と起こさない。原発事故を防止できる対策と体制は整っている」といった旨の発言が流れると、参加者達からいっせいに「ウソをつけ!」との激しい声が飛び交った。


野田総理の発言から感じられたのは、あたかもすでに震災後の事態が収束し、原発を再稼動しても現実的または物理的に何ら問題は無いかのような可能性を念頭においているかのような感覚だった。そして、あとは「法的な整備」をするだけと野田総理は強調したように筆者には感じられた。


この野田総理の発言に対して、参加者からは激しい批判が連発された。

「『原発事故は防止できる』なとど野田総理は言うが、具体的な根拠が何も無い」

「被災地ではまだ16万人もの住民が帰宅できないのに、どこが事態が収束しているというのか」

「多くの国民は節電に努力する覚悟ができている。野田総理は国民を信用していないのか!」


野田総理の会見が終わると同時に、「再稼動反対!」のコールが起こり、20分以上も続いた。


ある参加者は、「野田首相は夏場の電力不足に備えるためなどと言っているけれど、実は夏でも原発無しでも電力が足りることがバレるのを恐れているんじゃないでしょうか」と語った。


集会には参加者が続々と集まり、20時までに4000人を数えた(主催者発表)。集会終了後も、有志がその場にとどまり大飯原発の再稼動反対や原発依存からの脱却などを求める声を上げ続けた。