断片的な日々  -60ページ目
<< 前のページへ最新 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60

職業差別・セクハラ捏造事件 序

瀨戸弘幸氏の発言に関する疑問

東村山関連について最近になって注目が集まるきっかけとなったのは、政治的な活動を進めているジャーナリストの瀨戸弘幸氏がかつて東村山で起きた「市議・朝木明代氏転落死事件」に言及し始めたことである。この件について、筆者も発言の準備をしているところである。


筆者も浅学無能とはいえ表現者の端くれであるから、どのような人物に対しても軽はずみな発言をすることはできない。まして、筆者は瀬戸氏についてほとんど知らないわけであるから、わずかな材料だけで瀬戸氏の活動や人格その他を否定しようなどとは思っていないし、できようはずもない。筆者はただ、そのつど疑問に思うことを、ただその箇所あるいは関連事項のみについて指摘するのみである。

 

瀬戸氏について疑問に思うのは、その事実確認である。本ブログにおいて既述のとおり、結論や推論においてその前提となるものは事実であり、その確認こそがジャーナリストにとって重要であると考えられる。


ところが、瀬戸氏のブログ「せと弘幸Blog『日本よ何処へ』」にアップされた記事の中には、疑問に思わざるような記述が随所に見られる。たとえば、「朝木明代元東村山市議殺害事件(17)」と題された記事の中には、次のような記述がある。



この『民主主義の汚染』などに書かれている内容は、東村山警察署の当時の千葉副署長などの言い分をそのまま取り上げているので、余り信用できません。(以上、「せと弘幸Blog『日本よ何処へ』」より抜粋)



まず、宇留嶋瑞郎氏の『民主主義汚染』の書名が『民主主義の汚染』となっていることは、とくに注意すべき問題ではない。人名や地名などの固有名詞を間違えることはよくあるものだし、その程度の誤植や錯誤を指摘していたらキリがない。また、非建設的な揚げ足取りとも見られかねない。


しかし、それでも疑問が生じる。上記の瀬戸氏の文章によると、同書が元東村山署副署長である千葉氏の「言い分をそのまま取り上げている」と断言しているが、その根拠は同書のどのあたりに記述を指しているのかが極めてあいまいである。同書は全七章、総ページ数254ページで構成されており、万引き事件および転落死事件については第三章「万引き事件発生」から第五章「転落死と空白の二時間」に詳しくレポートされている。だが、同書を通読しても、瀬戸氏の指摘する具体的な記述や論調がはっきりと特定できない。むしろ、当初は「これは現行犯みたいなものでしょ」という警察の発言に「理解しにくい感覚」と疑問を抱き、さらに故朝木市議の知人の発言なども盛り込むなど、公正な視点で書かれた実に地道なレポートになっている。そのため、故朝木氏の「自殺説」「他殺説」「事故死説」のいずれを採用するにせよ、事実確認のために必要な多くの情報が採用されている。同書を通読していれば、その内容を肯定するにせよ否定的に理解するにせよ、無視するということはあまり考えられない。


にもかかわらず、なぜ瀬戸氏は同書について言及することを、「余り信用できません」と述べて無視、あるいはそれに近い扱いをしたのかが疑問である。


ここで考えられ得る可能性としては、まず瀬戸氏が同書を実際に読んでいない、または何らかの事情により記事の執筆までに読む機会を逸してしまったのではなかろうかということである。もちろん、これは憶測に過ぎない。ジャーナリストたるもの、読んでもいない資料について言及するなどまずありえないことであり、仮に読んだにもかかわらずその内容について理解できないとしたら、ジャーナリストの資質と適正に関わることだからである。


ではなぜ瀬戸氏が同書の内容に言及しないのか。これについて筆者は「わからない」としか言いようがない。不明点が多いにもかかわらず無理やりこじつけて結論を出そうとするのは、最もジャーナリズムに反することであると筆者は信じて疑わない。


「謀略論」という便利なツール

ここでいう「謀略論」とは、ある個人や集団の行動や発言等の背後には、さらにより大きな団体や組織の意志や思想が存在し、その個人や集団を支配しているという考え方である。


この謀略論という考え方は、自らの行動を正当化し、大義名分を創生するという点で大変に便利なものである。


謀略論の仕掛けとしては、まず「多数にとって不利益または害悪である組織または思想」というものを認定することが必要となる。例を挙げるなら、国際テロ組織のようなものなどがあげられよう。


そうした危険な行動を起こす可能性があると認められる団体が、個人や集団の背後に潜んでいて、その行動や発言を支配していると考えるだけで、謀略論は出来上がりとなる。


この謀略論はいろいろな活用法があるが、最小の労力で最大の宣伝効果を得られるという利点がある。いかなる些細な行動も、「その背後の巨大な敵への攻撃」というように論点を拡大して解釈させることができる。


ここであくまで仮定での、架空の話を例として挙げよう。ある特定の個人に対して、集団による威圧あるいは諸般の妨害行動が行われたとする。そうした行為が、たとえ世間的な視点から見ると単なる「数にものを言わせた弱いものいじめ」に過ぎないとしても、謀略論を活用すれば、「巨大な敵との戦い」という大義名分を掲げることができるのである。


すなわち、謀略論によるいわゆる「レッテル貼り」は、弱いものいじめや私的なリンチを正当化するのに非常に都合がよいわけである。


こうした謀略論が人間の基本的な権利や人権を侵害しやすいものであることは、言うまでもない。だが、そうした極めて憂慮される実例が、都下の東村山市で実際におきてしまっている事実が存在する。その実例については、今後詳しく紹介していくこととなる。



重要なのは事実であるということ

調査報道という作業において、最も重要なのは「事実」をいかに確実かつ具体的に把捉することではなかろうかと筆者は考える。筆者を含め、多くのライターやジャーナリストはそのために時間と労力をかけて取材をはじめとする作業によって、事実に到達するための材料を収集する。


そして、事実を把握した上で得られるものが、仮説や推論、あるいは結論と呼ばれる数々の意見や結末であると考えられる。


だが、そうした結論が必ず得られるとは限らない。有能かつ精力的なジャーナリストが取材を続けたとしても、必ずしも結論へと到達できるとは限らない。


しかし、いかに凡庸なライターやジャーナリストであっても、実際の取材活動を行うことによって、必ず得られるものがある。それは、事実へと到達しうる数々の断片的な情報である。


これらの断片的な情報には、誤りや見当違いがしばしば含まれており、あるいは「一見して明らか」と思われる事象に思わぬ隠れた情報が隠れていることもあるため、精査や確認が必ず必要となる。そのように精査することによって事実を確認することができる。


この事実確認こそが、ライターなりジャーナリストの重要な作業であることは言うまでもない。なぜなら、そうして得られた事実こそが、すべてのベースとなりうるものだからであり、この事実確認なしには何も生み出さないからである。あたかも、食材なしには料理を作ることはできず、建材なしに建物を建設できないことと同じである。


筆者は1年3ヶ月ほど前から、ある事件をきっかけとして東村山関連の取材を続けている。本ブログでは、この件についても記事を公開させていただこうと考えた次第である。


東村山関連の記事を書くにあたっては、筆者による現地取材のほか、宇留嶋瑞郎氏『民主主義汚染』(ユニコン企画発行・1998年3月10日刊・254ページ)等の関連書籍のほか、『週刊朝日』95年7月28日号P.154のほか、170点以上の雑誌掲載記事、およびインターネットサイト『東村山市民新聞』、ならびに開示請求によって得られた公的資料などの、公開された媒体や資料を参考にさせていただく。個別の資料については、今後必要に応じて引用し、出典を明らかにすることをお断りしておきたい。

<< 前のページへ最新 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60