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四天王寺

去年7月1日の天地玄黄ブログにも書いたように、
日本人の人質二人を殺害したイスラム国の最高指導者、
アブバクル・バグダディは、カリフを称している。

イスラム教の教祖ムハンマドの後継者であるカリフは、
トルコのオスマン家出身のアブデュルメジト2世が1924年に廃位されて
から空位にあると見られているという。

もっとも、現在のヨルダン王家の祖先であるヒジャーズ王
フサイン・イブン・アリーがカリフを名乗ったが、
イスラム世界ではほとんど承認されなかった。

オスマン家の君主がカリフを称する根拠は、1517年にエジプトマムルーク朝を
滅ぼしたセリム1世が、マムルーク朝のスルタンの庇護下にあった
アッバース家最後のカリフであるムタワッキル3世からカリフの称号を
譲渡されたという伝承に基づく。


しかしながら、大原与一郎『エジプトマムルーク王朝』によれば、
ムタワッキル3世からセリム1世がカリフ位を譲られてオスマントルコ帝国の
スルタン=カリフ制が始まったというのは史実ではないという。

セリム1世は、マムルーク朝への遠征に歴史家を伴っていたにもかかわらず、
同時代の記録にはカリフ位譲渡についてはまったく書かれていない。

しかも、セリム1世は、マムルーク朝滅亡以前のアッバース家カリフが
エジプトに健在であった頃からカリフを称していた。

その当時、イスラム教国の君主の多くが、スルタンやマリク(王)と共に
カリフの称号を名乗っていたので、セリム1世もそれに習っていただけだという。

極端なケースでは、バグダード太守に任命した側近の宦官をカリフと称した
話まであるほどである。


セリム1世は、マムルーク朝の傀儡であったアッバース家のカリフ位は、
単に預言者ムハンマドの出身部族であるクライシュ族の一族であると
いうことを示すだけのものにすぎないと考えていたという。

そのため、セリム1世は、カリフの称号自体さして権威のあるものとは
思っておらず、ムタワッキル3世からカリフ位を譲渡される
必要を認めなかった。

それが、19世紀になってオスマントルコ帝国の国力が衰退したことで、
オスマン家君主のスンナ派イスラム教徒に対する宗教的権威を主張するために、
それまで軽視されていたカリフの称号を重要視するようになった
という。

イスラム国は、西はスペインから東はインドまでの広大な地域を
支配すると宣言している。

しかし実際の所は、うまくいってシリアとイラクを領有するのが
やっとであろう。

万が一、イスラム国が国家として存続した場合、一時期カリフを
自称したフサイン・イブン・アリーの子孫であるヨルダン国王や、
オスマントルコの君主も帯びていた「二つの聖地(メッカ、メディナ)の守護者」
の称号を持っているサウジアラビア国王もカリフ位を名乗るのではないかと
いう見方もある。

もっとも、現在でも、モロッコ国王ムハンマド6世は、カリフを意味する
「アミール・アル=ムーミニーン」の称号を名乗っているという。


単に特別権威のないカリフ位を称している権力者が増えるだけの
話なのかもしれない。