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現在修理中の姫路城天主


4月9日の「天地玄黄」ブログにも書いたように、
戦国武将の子孫を騙っている人は少なくない。


しかしながら、大名華族の末裔というようなケースであれば、
祖先が戦国武将というのは概ね信用できる。


たとえば、徳川家康の子孫というなら、世が世なら江戸幕府の18代将軍
になっていた、旧公爵家の徳川宗家第18代当主徳川恒孝や、御三家の末裔
などが健在という。


細川護熙元首相が、細川幽斎、忠興の子孫で、旧候爵家である肥後細川家の
第18代当主なのはよく知られている。

肥後細川家は、室町幕府の足利将軍家の分家で、偽系図の徳川家とは違って、
れっきとした清和源氏の末裔である。


朝鮮に出兵した武将で、日韓両国でもっとも有名なのは、
加藤清正であろう。


加藤清正の家は、息子の忠広の代に大名家としては取り潰されて、
華族などにはなっていないが、子孫を称する者はいる。

2007年05月12日にあった文禄・慶長の役の謝罪イベントに加藤清正の末裔を
名乗る人が来なかったのは、馬鹿馬鹿しいと思っているからか。


文禄・慶長の役の武将では、脇坂安治が加藤清正に並ぶほど韓国での
知名度が高いという。

脇坂安治が韓国でやたら有名なのは、国民的英雄といえる李舜臣と文禄の役の
閑山島海戦などで戦っているからである。

日本では、脇坂安治といえば、賤ヶ岳の七本槍の一人で、関ヶ原の戦いで
西軍から東軍に寝返って所領を安堵された要領のいい男というくらい
のことくらいしか知られていないのだが。

脇坂安治は、閑山島海戦の時は3万石で、後に朝鮮での戦功で秀吉から3000石加増されて
3万3000石。

同じ賤ヶ岳の七本槍では、関ヶ原の論功行賞で、加藤清正が52万石、福島正則が49万8200石
の国持大名になったのに、脇坂安治は、9年後の1609年(慶長14年)になって徳川幕府から
5万3500石に加増されただけである。


韓国人なら誰もが知っているヒーローである李舜臣を持ち上げるために、
脇坂安治は歴史ドラマなどでは「日本軍最高の名将」とか。
日本人から見れば過大評価されているらしい。


もっとも、加藤清正や福島正則の家が取り潰されたのに、脇坂安治の子孫は、
祖先の要領の良さを受け継いだためか、幕末まで播磨龍野藩主として生き残り、
明治には子爵になった。


第16代当主の脇坂安知は、兵庫県西宮市に本社があるジェイシーシーの代表取締役で、
たつの市の武者行列にも加わるなど、お祭りに参加することもあるようだ。


脇坂安治の由緒正しい子孫であるのに、韓国へ行かなかったのは、
脇坂安知ジェイシーシー代表取締役がアホくさいと思っているからか。


もっとも、脇坂家は老中でありながら家光将軍に殉死した堀田正盛
の子の安政が、養子になって家督を相続して3代目になっており、
現在の当主は藩祖安知の男系の子孫ではない。


あるいは、異姓養子を認めない韓国の儒教思想からすれば、脇坂安知は脇坂安治
の子孫とは認められないから、謝罪イベントに呼ばれなかったのかもしれないが。

訂正

くわしくは15年4月30日の「天地玄黄」ブログにありますが、
細川護熙元首相が第18代当主になる肥後細川家の祖先である細川幽斎は、
室町幕府の足利将軍家の分家で管領になる家柄の細川宗家の庶流になる
和泉半国守護の細川元常の養子になったという通説に従って、
「細川護熙元首相が、細川幽斎、忠興の子孫で、旧候爵家である肥後細川家の
第18代当主なのはよく知られている。
肥後細川家は、室町幕府の足利将軍家の分家で、偽系図の徳川家とは違って、
れっきとした清和源氏の末裔である。」
と書きましたが、細川幽斎の養父が細川元常というのはあやしいようなので、
肥後細川家が清和源氏というのも確定した事実ではないということに
なります。

それゆえ、「肥後細川家は、室町幕府の足利将軍家の分家で、偽系図の徳川家とは違って、
れっきとした清和源氏の末裔である。」という部分は取り消しということにします。