パート1の続きです。 

 

ゲイ神学の不毛な歴史と背景

 

ここで、ちょっと背景情報を補足させていただきたく。(退屈かも知れないので興味ない方は読み飛ばしてくださって結構です)

 

じつは、NBUSが主張していることは何も新しいことでもなんでもなく、

 

もともとあった教えを基本とし、ゲイ神学との対峙を通じて改めてまとめたにすぎません。

 

そもそも、「聖書は同性愛を罪とは言っていない!」という主張に代表される「ゲイ神学」の萌芽は、

 

私の記憶が確かなら1980年にJohn Boswell が「キリスト教と同性愛―1~14世紀西欧のゲイ・ピープル」という書籍を出版したのがその先駆けです。

 

そして、Boswellが主張した数々の持論は、保守的聖書解釈に立つ学者たちからクッッッソミソに批判されました。

 

私も過去記事で多少Boswellについて書かせてもらったことがありますが、

 

 

 

今読み返しても、彼の「ゲイ神学」はあらゆるところに突っ込みどころ満載で、もはや今となっては真面目な論評をするほどの価値もなかったのでは?と感じます。

 

しかも彼のこの書籍は(事実をねじ曲げて)「聖書は最初から同性愛を禁じていなかった!」と主張したがゆえに、

 

「キリスト教による同性愛差別をなかったことにするのか!」と、当の同性愛者たちからも一部批判を受けるというオマケまでついたそうです。

 

話が逸れましたが、要するにゲイ神学の出現をBoswellに辿るなら約40年前。

 

そして、その系譜を継ぐ?珍説を開陳するゲイ神学者たちは次々現れたものの、ことごとくケチョンケチョンにこき下ろされてきたわけです。

 

こうして、ゲイ神学の理論的ジムナスティック(アクロバット、と言いましょうか(笑))を駆使した熱心な説得活動にもかかわらず、それが西洋キリスト教界の主流的解釈になることはついぞありませんでした。

 

私の浅い観察の結果でも、もうゲイ神学やLGBT神学は反論され尽くしており、

 

またそれらの神学は40年の時を経て洗練されハッテンし説得的になっていくどころか、

 

反対にますます粗野・強引で「内輪向け」な言説ばかりが表に出てきている印象があります。

 

(たとえば「イエスは実はトランスジェンダーだった!」とか...↓ほとんどどーでもいいような記事ですが)

 

 

ところで個人的な見解ではありますが、ゲイ神学の出現は、日本のそれとは違う欧米キリスト教界の事情も大きく関係している、と私は考えます。

 

西洋では幼児洗礼に始まり出生後すぐ信者として登録される制度をとっているところがたくさんありました(カソリックはもちろん、プロテスタントの一部教派でも今でもあるみたいです)。

 

その歴史的経緯から、多くの日本人クリスチャンにはちょっと理解しがたいところでもありますが、「生まれながらにクリスチャン」というアイデンティティを自認している方が西洋には結構おられます。

 

で、そのアイデンティティはしばしば、聖書を読むか読まないかも、またその教えに同意するかしないかにも関係なく保たれる傾向がありました。(多くの日本人における「私は仏教徒です(≒仏教徒の家の生まれです)」に近いかも知れません。)

 

そして時代が下り、一般社会で婚前交渉が広がり、また続いて同性愛者の権利運動が存在感を増したとき、保守界隈から「そんなことをする者はクリスチャンではない」といった批判が出てくると、

 

その批判が往々にして、「生まれながらにクリスチャン」と自認する人たちのアイデンティティを脅かすものとして痛く「刺さる」ことになるわけですね。また、その「刺さる」層は、日本とは比較にならないほど広いわけで。

 

だから、ゲイ神学に限らずリベラルプログレッシブ神学というのは、ある種そういった「信者自認」を持つ人たちから痛切に求められてきたがゆえに出現したのではないか、と私は推理しています。

 

つまり、みずからの「信者自認」と、(保守派が主張するところの)「性的規範」との板挟みになっている人たちに対して、

 

聖書的に適当な理屈をつけながら「大丈夫。(例:婚前交渉していようが何をしていようが)あなたはちゃんとクリスチャンですよ」と請け合い、慰撫してあげるという、きわめて便利な「ソリューション」なわけです。

 

しかしいっぽうで、日ごろから聖書を熱心に読み、信じ、実践しようとする「ガチ勢」である保守派の群れにとっては、そんなものは牽強付会、荒唐無稽な絵空事にしかきこえません。

 

だから、彼らはそれに説得されることなどほとんどなく、結果「保守」「リベラルプログレッシブ」の二つの群れは、まるで並行宇宙(?)みたいに別々の聖書観を持ち現在に至っているわけです。

 

なによりも、ゲイ神学・LGBT神学は最初から聖書の無謬性を疑う立場です。それゆえ、聖書を字義どおり信じようとする信者さんにはまったく受け入れらる余地がないのです。だから今後この「並行宇宙」が交わることも決してありません。

 

西洋を観察していて(といっても私の観察範囲はほぼ米・英にとどまりますが)興味深いのは、この「並行宇宙」的なものの存在が、教会の中にはもちろん、社会全体にも影響を与えているのがはっきりと見てとれるのですね。

 

それはまあ当然かも知れません。減少傾向にあるとはいえ、(自認かガチ勢かを問わなければ)信者の数は日本よりはるかに多いのですから、

 

だからキリスト教(界)の内部における対立が、わりあいとよく社会全体における対立を映し出している、と考えてもほぼ問題ないものと思われます。


で、もちろんリベラル・プログレッシブ界隈にとってはこれは面白くないことです。彼らは、自分たちの主張が思ったより受け入れられていないことを知っています。

 

なので、昔は相手を「ホモフォビア」「ビゴット」だとか「異性愛主義を偶像視する偶像礼拝者」などと罵るだけでしたが、

 

最近は保守的聖書観に基づく性のありかたについての教えを「ヘイトスピーチだから規制せよ」という流れになってきています。

 

 

誤解を恐れずに言えば、彼らの運動は究極的には「社会の主導権を握り反対派を沈黙させるための権力奪取」を志向しているんですね。

 

(これを考えると、この同じ流れを汲む「連絡会」が、言論の統制や相手を「変える」ことに執着するのもまた当然の成り行きとい思えます。)

 

バックラッシュの始まり

 

ところでつい先日英国で就任したトラス新首相は「女性は女性。私は男女別々の空間を支持し、女性の権利を守る」と述べたそうです。

 

 

(一見関係ないように見えますが、この背景はのちに詳述します。)

 

トラス氏は以前から「トランス女性は女性だ!」というトランス活動のマントラをあえて公に否定するなど、いわゆる「ウォーク思想」(なんでもやたらに進歩的にするのがいいという思想)に真っ向から反対するようなタイプの政治家らしいのですね。

 

なので、ゲイ運動についてはともかく、トランス運動については否定的な人物であることは見てとれます。

 

もちろん、政治家というのは機をみるのに敏で、自分で信じているかいないかにかかわらず票に繋がるとみれば心にもないことを言う人がたくさんいますから、トラス首相が内心でどう思っているのかは分かりません。

 

ですが、英国の首相が就任早々公然とこう言うことを言える、ということ自体が、一つの大きな「潮目の変化」を表しているのではないか、と私は思います。

 

というのも、英国はかつて、同性婚を(米国よりも早く)法制化したのはもちろん、

 

ドラアグクイーンを幼稚園に招いて読み聞かせをさせたりだとか、

 

 

かつては医学診断抜きで性自認「のみ」に基づいた性別変更の法案を推進するなど、

 

 

こちらの面ではけっこうな「ウォーク」街道を進んできた国です。

 

それが、どうして新首相はわざわざ(LGBはともかく)「T」すなわちトランス主義に釘を刺すようなことを言ったのか?

 

私は、その背後に、英国でほとんどバカバカしいほどのレベルにまで達した「トランス絶対主義」と、それに対する「バックラッシュ」があるとみています。

 

その象徴ともいえる事件の一つが、カレンホワイトです。複数の性的暴行を働いて逮捕された50代の男が「自分の性自認は女」と主張し、男性の身体のまま当局を欺いて女子刑務所に入り、そこでもまた強姦事件を起こしたというものです。

 

 

この事件は以前からトランス主義に疑いの目を向けていた人たちのうちに大きな怒りを引き起こしました。(↑ガーディアンの記事では、「こういったケースはレアで、一つ事件があったからといってシステムすべてを否定することはない」といった関係者の呑気なコメントで結ばれていますが、全く同じような事件が米国の刑務所でもいくつか発生しています。)

 

生まれつきの男性が「心は女」と主張してはいても、その根拠は「自認」しかない。それでもトランス運動においては、「自認」を疑ったり否定すること自体が「サベツ」で「トランスフォビア」だ叫ぶ一点突破戦法で進撃を続けてきたのですが、

 

「心は女」と主張する者が男性器で女性を強姦するなどという、聞くだけで脳が捻くれそうな事件が実際に起こったことで「トランス主義」への懐疑は深まったことでしょう。

 

トランス主義の弊害はこのような極端な例にとどまりません。男性が女性を自認し、そのように扱えと社会に強要するということはすなわち、「男性の身体を持った者が女性専用スペース(トイレ、更衣室等)に堂々と侵入」し、「男性の身体を持った者が女子スポーツに進出する」ということを意味します。

 

女性たちにしてみたらそんなことをされたらたまったものではありません。

 

こうして、少しづつトランス主義への懐疑と不満が蓄積していくことになったのです。

 

マイノリティの暴虐?

 

昨年の話になりますが、同じく英国では、「ハリーポッター」シリーズの原作者であるL.K.ローリング氏が、行き過ぎたトランス主義に対して「生理があるのは女性だけだ」と苦言を述べたところ「脅迫メールの洪水」に遭いました。そればかりか、活動家の中には「ローリング氏の自宅前で住所がわかる状態の写真を撮影し公開」した者もいたそうです。

 

 

実際、トランスの進出に疑念を持ったり、またあえて反対する女性たちに対して、トランス活動家たちは極めて先鋭的な攻撃キャンペーンを行ってきました。

 

すなわち、「TERFs(Trans Exclusionary Radical Feminits: トランス排除主義過激フェミニスト)」とレッテルを張り、暴言と脅迫を繰り返してきたのです。

 

 

こんなことでは、トランスに同情しその権利を擁護する輪が広がるどころか、被害を受けている女性たちはもちろん、社会全体にそれこそ本物の「嫌悪」が生まれてしまいかねません。

 

そこへきて、昨年、英国社会で絶大な影響力を誇っていた「Stonewall」というLGBT圧力団体が、かつては自らを頼ってきた政府機関から距離を置かれつつある、という報道がありました。

 

 

これらの記述だけでは、初見の読者のみなさまにとっては「点と線」がつながるかつながらないかの状態かも知れませんが、

 

上述したトラス英首相の「女性は女性。私は男女別々の空間を支持」する、という発言の背景には、

 

西欧諸国で萌芽し怪物にまで成長して猛威を振るった「トランス主義」が、


もはや「ジンケンだから」という理由で無条件で是認されるものではなくなりつつあり、


むしろ懐疑の対象となってきている、という状況が伺えます。

 

もはや無視できない悪影響

 

ついでに。カレンホワイト事件やJKR氏その他トランス懐疑派女性への「TERF」ラベル張りや脅迫などは、海外事情に詳しい人でなければ知ることのない事柄かも知れませんが、

 

ニュージーランド出身の重量挙げ選手、ローレル・ハバード氏と、米国の大学水泳選手、リア・トーマス氏のことなら、本邦の報道でも取り上げられたのでご存じの方は多いかと思います。

 

ハバード氏は男性として生まれ女性に「トランス」し、東京オリンピックにまで出場しました(途中棄権)。リア・トーマス氏もやはり男性として生まれ女性に「トランス」、その後いくつかの大会で一位を獲得するなどして物議を醸しています。

 

 

トーマス氏に至ってはいまだに「男性器を保持しており」女子更衣室利用中に「それが(他のチームメイトから)見えることがある」うえに、性的志向は女性を好み「女性とデートしている」と報じられています。そして、不満と困惑を持つチームメイトたちはコーチに抗議しても取り合ってもらえず、自分たちで抗議活動をすることも考えたが出場できなくなることを恐れて二の足を踏んでいるとも。

 

日本ではここまでの詳細は伝えられていませんが、少し察しの良い方なら、断片的な報道だけでトーマス氏のふるまいがどれほどの不公正、女性へのハラスメント、そして悪影響につながっているかがわかると思います。

 

かつて、トランス運動の初期にあっては「ジンケン」を前面に出しつつ、女性スペースの安全や女性スポーツ競技の公正さに懸念を抱く意見に対しては「そんなことは絶対に起きないから」と推進側が請け合って議論を終わらせるのが常でした。

 

しかし、そんな話を今心の底から信じる人たちはどれくらいいるでしょうか。

 

ゲイ権利の要求への反感

 

上記は、行き過ぎたトランス運動へのバックラッシュの概要を述べたものですが、実はLGBT運動のうちの「G」であるゲイ権利についても、ここまでではないにせよ、反感が静かに広がっているという事象があります。

 

過去記事で取り上げた事象ですが、あるゲイのセレブは、自分の「夫との子」を代理母を使って迎えるにあたり、自分のヌード写真の腹部に子宮と胎児の超音波写真をはめ込んだポートレートを発表しました。

 

 

この真意は本人にしかわからないことですが、これに対して「代理出産した母親の存在を無にしている」といった批判が寄せられています。

 

ともあれ、同性婚が法制化されれば、次に確実に来るのは「ゲイカップルが子を持つ権利」です。

 

これには養子と代理出産が考えられますが、


後者は海外では幅広く行われており、その結果代理出産契約の非人道性(妊娠中は雇用主の許可なく医療ケアを受けられない、流産したら報酬は減額、他人の卵子を使う場合免疫抑制剤を投与される、等)に少しづつ注目が集まってきています。

 

そして、何よりも特徴的なのが、「トランス運動」でも「ゲイ権利運動」でも、それが行き過ぎると被害を被るのは必ず「女性」である、ということです。

 

考えてみれば、トランス運動により、女性スペースの安心安全を奪われ、


女性スポーツ競技では同じ女性が叩きのめされ、


さらにゲイカップルのため同じ女性が代理母として「利用される」事例を目にすれば、

 

たとえ(一般的に)男性に比べ弱者への共感性の高い女性であっても、さすがに疑問を持ち始めるのではないでしょうか。

 

時流の読み誤り

 

さて、上述の事象は、今回取り上げた「連絡会」には何ら関係のないことです。「連絡会」の賛同人の中には、私の知るところでは過激な活動に関与している人は誰もいません。

 

ですが、私が言いたいのはこうです。


「連絡会」が「憂慮」しているところの、「性的マイノリティを否定する言説」というのは、「なにもない虚無から俄かに湧き上がってきた」わけではないということです。

 

たとえば「神道政治連盟」の、「差別的な冊子を配布」したとされる会合の担当者は

 

「海外ではトランス女性(男性として生を受けた、性自認が女性であるトランスジェンダーのこと)と呼ばれる方々がスポーツをして、いい記録をとって、『普通の女性が不公平じゃないか』という声も上がっています」

 

と弁明したそうです。

 

 

つまり、今や特段海外事情に詳しいわけではない(と思われる)政治関係者も、上述したリア・トーマス事件やそれに類するような事象を知りえるようになっており、それに対して(やや見当違いながらも)対策を練ろうと動きはじめているわけです。

 

自民党の山谷参議院議員に至っては、「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとか、ばかげたことはいろいろ起きている」と、かなりあけすけな発言をしています。

 

 

もはやお年寄り(失礼!)の域に入っている政治家さんでさえも、海外で起きているトランス問題を知っているのですから、日本国内での認知は急速に広がっているといっていいでしょう。

 

だから、「連絡会」の人たちは、「日本で「宗教右派」が勃興してきている!」と脅威を感じているのかも知れませんが、


ちょっとものの見方がズレてるんでは?思うんですよね、私は。

 

今、「行き過ぎたLGBT運動」への「懐疑」、「嫌気」さらには「反動」が生じつつある西欧(主に英米)。

 

そしてその様子がちらほら耳に入ってきていることで「ちょっと待て、このまま活動家の言うことホイホイ聞いてたらうちらヤバイことにならない?」と警戒心を強める日本。

 

(繰り返しますが、「連絡会」はこれらの事象になんの関係もありません。むしろ、「連絡会」の人たちは、海外LGBT勢がいろいろやらかしてきたことで「とばっちり」を受ける側なのかも知れないとさえ私は思います。)

 

NBUSが現れたのはまさにそのタイミングなのです。(ちなみに「解説」を見ると「既に「同性婚」が合法化されている国々では、結婚の定義を広げ、三人以上の「結婚」、子供と大人が結ばれる「結婚」、動物を含む「結婚」などの合法化も検討され始めています」とありますから、まさに西欧の混乱ぶりについての問題意識がNBUS運営側にあることが見てとれます。)

 

そして、そこに反対運動をぶつけてきた「連絡会」。


私は、余計なお世話ながら、なんとも「間が悪いな~..」と思います。

 

今、はからずも、西欧の混乱ぶり、そして英国の「トランス主義」からの急速な「回帰」のおかげで、日本でも少しづつですがLGBT運動への警戒心を持つ人が増えてきています。

 

そして、これまで問題に関心のなかったノンポリの人たちでも、「LGBTを推進しても本当に大丈夫なの?」という疑問を持ちつつあるのです。

 

なのに、先に指摘したように、「連絡会」の文章は難解な専門用語が多すぎて、もともと以前から「アライ」だったり「ウォーク」だったりして用語を知悉した人たち以外の賛同を得るのは難しいつくりになっています。(今Change.Orgでは18000筆を記録しているようですが、今後伸びるかどうか.....)


これでは、LGBT運動に警戒心や懐疑の念、あるいは懸念を抱いている層の心をつかむのは到底不可能でしょう。

 

また、たとえ「連絡会」が多数の署名を獲得したうえでその趣意書にあるように要望書とともにNBUSに手渡したとしても、NBUS側がそんなことで主張を撤回するとも思えません。

 

だいいち、人口の1%の中のクリスチャンの、さらにそのサブグループであるリベラルプログレッシブキリスト教界が、

 

法で保証された信教の自由、思想の自由、言論の自由を止めようったって、それは到底無理ってものです。

 

そして、それが憂慮するところの「言説」のたぐいは、今後別の各所からも次々湧き出て来ることはあっても、決してやむことはないと思います。

 

だから、あんなに熱のこもった趣意書にケチばかりつけたうえこんなこと言うのは失礼極まりないとは思うのですが、

 

正直、私は予測します。

 

「........コップの中の嵐に終わる、か.....」と。

 

(パート3に続きます)