シリーズの三つ目を投稿しなければならないのですが、

 

ちょっとここで脇道に逸れさせていただきます。

 

どうしても書いておきたいと感じる出来事があったからです。

 

そう、表題にあるとおり、ご存じの方はご存じの「NBUS」がらみの話題です。

 

NBUSとは

 

NBUSとは、Network for Biblical Understanding of Sexuality (性の聖書的理解ネットワーク)の略で、

 

日本人あるいは日本在住の有志の牧師さんたちや信徒さんたちが聖書的な性のあり方を見つめなおす米国発「ナッシュビル宣言」を和訳し賛同を呼び掛けているグループです。

 

そもそもナッシュビル宣言とは?と疑問が出てきそうですが、これについては2017年にさかのぼります。

 

 

もともと、米国福音派を中心として、聖書的な性のあり方に関する(保守的な)理解・信条を14箇条にまとめて発表したものです。

 

それってどんな内容なの?という方には、NBUSさんが一条づつ和訳を作ってくださっていますのでそちらをご参照。

 

まあ、この訳、(失礼ながら)いささか堅苦しい言葉なので、もう少し平易に理解したい方には、「解説」とか、Q&Aをまずお読みになったほうがいいかも知れません。(とくにQAはよくまとまっていてお勧めです)

 

 

 

 

述べられていることが、私自身が同性愛やトランスジェンダーについてブログで主張してきたところと各所きわめて近似しており、

 

「ああ、やっぱり同じようなことを心配している信徒さん・教職者さんって結構いたんだな~」と安堵の念を持ちました。

 

なので、同性愛・トランスジェンダーと聖書の関係については、今後このNBUSさんが(おそらく私なんかよりはるかに聖書に詳しい寄稿者さんたちの手を借りて)どんどん解説していってくれると期待します。

 

なので、私自身は自分の得意とする(?いや大して得意でもないか..)終末預言や世相分析にこれから精を出していこう、と安心しましたが...........

 

なんと、今度は「「NBUS」を憂慮するキリスト者連絡会」なんてものが出現!

 

Agaist NBUS!

 

 

この「連絡会」(めんどくさいので以下同じ(爆))いったいどういう団体なのかと思って賛同者さんのリストを覗いてみると。

 

おお、聞きなれたお名前がいくつか。。。!

 

私が以前このブログで批判させていただいた、リベラル・プログレッシブ牧師さんや活動家のみなさんのお名前があるではありませんか。

 

まずは本邦リベラル・プログレッシブキリスト教界隈(界隈ってほど広くもないんだが..)の重鎮?富田正樹牧師センセイ。

 

富田師は、「キリスト教下世話なQ&A」というウェブサイトを運営しておられ、その中で婚前交渉から妊娠中絶までの幅広い話題についてリベラルキリスト教の極致ともいえる主張をアツく展開しておられます。

 

当ブログでは、特に婚前交渉の是非に焦点をあて、師の主張について批判させていただいたことがあります。

 

 

ともあれ、富田師のほかにも、Ken Fawcett氏。(なつかし~!)

 

ご存じない方に説明しますと、Fawcett氏は、ニュージーランド出身、日本在住の方で、教職者ではないものの、リベラル・プログレッシブキリスト教の教えを伝搬するべく熱心に勉強しておられる信徒さんです。氏の手になる「旧約聖書の神の「裁き」による「虐殺」が許せない」とか「(保守的聖書解釈に基づく)天国はイエスの心に反する)」といった超絶プログレッシブな記事をとりあげ、当ブログで批判させたいただいたところ、直接苦情を頂いた経緯があります。

 

 

 

その他にも、ゲイ・クリスチャンとしてTwitterなどで盛んに活動しておられる細川隆好氏。

 

保守的なクリスチャンで、同性愛について発信したことのある方の多くは、この細川氏から「お声がけ」(要するに「サベツすな!」というリプライ)をいただいた人もいるのではないでしょうか。

 

確か、だいぶ前ですが私も氏からTwitterで苦情をいただいたことがあった(と思います。もう昔なので記憶がぼんやりしてますが)。

 

さらにさらに、「約束の虹ミニストリー」主宰の寺田留架氏。FtMのトランスジェンダーを自認し、このミニストリーでは性的少数者に優しい(?)聖書理解の勉強会などを主導しておられるようですが.......

 

しかし、「約束...」が模索するのは同性愛やトランスジェンダーの受容にとどまりません。

 

なんと、「ポリアモリー」(3人あるいはそれ以上の複数の人たちが合意の上で性的関係に入ること)について好意的な論考をしているのです。私はこのことについてちょっとブログで触れたことがあります。

 

 

おおもとの、ポリアモリーを取り上げた「約束..」のブログ記事から引用しますと、「それはイエス様が教えた「互いに愛し合いなさい」や、パウロの語った「愛は全ての律法を成就します」にも沿っているなぁと」ということですが....(あ..「愛」の解釈がカンッゼンにどっかの方向に逝っちゃってる......)

 

9/16追記: なんと私としたことが、もうお一方を忘れていました。伝道師の柳川真太朗センセイです。

 

柳川師は、かつて「婚前交渉は罪ですよ」と教える牧師さんに対してSNSで噛みつくと同時に、結婚していないカップルでも、同性同士のセックスも「愛があればええやないですか」と唱えておられました。

 

そのことについて、私は「本当にそうなの?」という視点でブログ記事を書いたことがあります。

 

 

追記終わり。

 

。。。まあしかし、いわゆる本邦リベラル・プログレッシブキリスト教界隈(?)というのは、非常に狭いというか、

 

表に出て目立った活動している人たちは本ッ当に同じ面子ばかりなんですね~...

 

(まあ、それを言ってしまったら日本のキリスト教界隈そのものが人口の1パーセント程度の狭い世界なので仕方ありませんが。)

 

しかし、この「連絡会」の主張を見ていて私はいくつか面白い点に気づきました。

 

典型的「藁人形論法」

 

この「連絡会」のHPには以下のような文言が。

 

「NBUSは転向療法という言葉はひと言も使ってはいませんが、事実上彼らの第一の目的は明らかに転向療法です」

 

「連絡会」はNBUSについて、「転向療法」を進めようとしている、と断じていますが、

 

ところが「連絡会」自身が認めているようにNBUSのウェブサイトには「転向療法」という言葉はどこにも書かれていないんですね。

 

(転向療法というのはかつて米国で行われていた拷問に近い矯正行為です。日本ではむろんのこと行われていませんし、今は米国でさえ行われていません。)

 

あのですね....「言ってないこと」を「言った」かのように断定して相手を責めるのは、「ストローマン(藁人形)論法」といって、議論のうえではとってもとっても見苦しい、「悪手」なんですよ。

 

それを私に教えてくれたのってじつは、Ken Fawcett氏なんですよね・・・ていうか、私、Fawcett氏への批判記事を書いたとき、氏ご自身から「藁人形論法」とのご指摘を受けて、記事を修正した経緯があるんですが。

 

まあFawcett氏ご自身は「連絡会」賛同人のひとりに過ぎず「連絡会」のHP記事作成に関わっているかわからないのですけどもね。でも、上記の経緯から「連絡会」がゴリッゴリの典型的藁人形論法を振りかざしているのを見て、なんだか笑ってしまいました(失礼。でもホントなんだもん)。

 

この「連絡会による藁人形論法」については、私以前にじつはもうすでに指摘してくださっている方がいますので、詳しくはその記事をご参照....(こうしてどんどん横着になっていく(汗))

 

 

(この藁人形論法についてはあとでもう一度触れます。)

 

「フォビアだあ~!」カツドーカ話法

 

また、「連絡会」HPにはこんな文言も。

 

「特に難しいのは内在化されたホモフォビア/トランスフォビアと対峙することです。社会や周りが求める「人間存在」を演じる煩わしさも、カミングアウトして外的なホモフォビア/トランスフォビアに曝されて生きるストレスも変わりはありません」

 

ホモフォビア?トランスフォビア?

 

内在化?人間存在?

 

うう~ん。なんか、聞きなれない横文字と聞きなれない熟語。

 

リベラルプログレッシブキリスト教界隈の文書をたくさん読んできた私の場合〇〇フォビアの意味はわかりますが、内在化とか人間存在についてはいま一つ、わかったようなわからないような感じがします。

 

要するにこれって、「カツドーカ」話法なんですよね。

 

だれにでも理解できるように平易にわかりやすく説明するのではなく、

 

専門用語をバアーンと打ち出して、「ホモフォビアはよくないことです!今すぐ止めなければ!」と叫ぶ。

 

そうすると、何も知らない人は「そ...そうなのかな。。。?」と同意してしまいそうでしょう?

 

でも、ちょっと待って。考えてみれば「ホモフォビア」とは何か、の定義がどこにもないんですよ。(その他の専門用語もそうですが。)

 

ちなみにこれ、横文字の専門用語を使ってる人たちのちょっと「ズルい」部分が見てとれるんですが、

 

彼らはこれらの用語を和訳して「同性愛者嫌悪」「性越境者嫌悪」と言うことは、あまりないんですよね。(「連絡会」HPでもほんのチラっとしか出てきません。)

 

なぜなら、日本では「同性愛者」「性越境者」であることのみをもって「嫌悪」するという機運が(地方には存在していているのかも知れませんが)おおむね非常に薄いです。美輪明宏さんに始まり、マツコさん、りんごちゃんなど(最近見ないかな..?)が芸能界で受け入れられている現状を見ればよくわかります。

 

だから、カツドーカの皆さんがもし「.....嫌悪」という言葉を使ったなら、聞く人たちの多くはピンとこない可能性が高いです。

 

「?俺たち別に嫌悪してなんかいないけど。好きにやればいいんじゃない?(特段関心もないけど)」

 

そんなノンポリの人たちには、きっと響かないことでしょう。

 

しかし、「ホモフォビア!トランスフォビア!」と連呼されてしまうと、何かとても恐ろしい事態が起こっているような印象になり、

 

しかもその定義がゼンゼン明確じゃないから、何か議論しているときに「あなたのその主張そのものがホモフォビアなんです!」と決めつけられてしまったら反論のしようがなくなってしまいます。

 

私は、こういう横文字専門用語のちょっとした「ズル」さに加えて、

 

そもそも(私自身文章を生業している関係で)「専門用語を親切にかみ砕いて説明することなく、どうやって自分たちの運動への理解や支持を得るつもりなんだろう?」と強い疑問を持ちます。

 

いや、むしろ、「専門用語が理解できる人たちだけ」のサークルとしてカツドーするつもりなのかな?という推論さえ頭に浮かんでしまうくらい。

 

それくらい、「リーダー・アンフレンドリー(読者にやさしくない)」HPなんですよね、「連絡会」のは。

 

突っ込みどころ満載の趣意書

 

さらに、「連絡会」の「署名趣意書」を拝見すると、これまた突っ込みどころ満載です。

 

 

まずもって冒頭から「転向療法だあ~!」という「藁人形論法」に走っているのはもちろん、

 

「キリストの教えでは、わたしたちのありようはそのまま神様のギフトです」

 

....んんん?なんですって?私そんなの初めて聞きました。

 

(もちろん冗談です。リベラル・プログレッシブキリスト教界隈では耳慣れた常套句ですね)

 

そもそも、パウロはローマ書でこう言っています。

 

7:18-19私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

 

私自身は現実的に自分のあり方が「ギフト」だなどと思ったことは一度もありません。むしろパウロが言ったことの意味がよくわかります。すなわち、私は私のありようが、ありていに言って醜く、自己中心的で、イエス様のようではないので、本当に何とかしたい、神様になんとかしていただきたい、と思っています。

 

こういった思いって、もしかすると、私だけ?「連絡会」の人たちはそういうの感じたことがないのかな?

 

趣意書には、つづいてこんな文言が。

 

「そのようなNBUSの主張は、公になされてはならないものです」

 

は....?開いた口がふさがりません。「連絡会」って、本邦キリスト教界隈の言論統制機関をもって自認しておられるのでしょうか?(いくら本人の「自認」を大切にするご時世だからって、これはあんまり飛躍しすぎていやしません?)

 

続いて、「もっぱらわたしたちは暴力とヘイトに曝される存在です」

 

ああ、この部分を書いたのはセクマイ当事者の方なのでしょうね。

 

この方のご経験について、私は何か口をはさむつもりはありません。そういう経験をたしかにしたのでしょう。

 

しかし、「もっぱらわたしたちは」という単純な類型化については、最近はあてはまらないケースも出てきている、とだけ申し添えましょう。すなわち、「マイノリティ」と呼ばれる人たちが、「マジョリティ」と呼ばれる人たちに「暴力とヘイト」を振るうケースも出てきているのです(後で詳述します。)

 

ともあれ読み進むと、こんな文言も。

 

「イスラエルが貧弱だったが故に選ばれたように」

 

いやいや!それ飛躍しすぎでしょう。イスラエルが選ばれたのはアブラハム、イサク、ヤコブに対する主の約束のゆえですよ。いったい旧約聖書をなんだと思っているのでしょう?

 

申命記にこうあるではないですか。

 

7:7-8主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家からエジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

 

ちゃんとロジックを追いましょう。「数が多かったから選んだのではない」→これ正解。「数が少なかった」→これも正解。でも、選んだ理由は「貧弱だったから」ではなく、ちゃんと「主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから」とあるではないですか。

 

余計なお世話かも知れませんが、こういう都合の良すぎる聖書の「eisegesis」(自分の望む意味を「読み込む」こと)をするから「カツドーカ」匂が増すんですよ。

 

そして、下に読み進んでいくと、また「転向療法!」の藁人形と、

 

「男女二元論、強制異性愛生殖主義、家父長制的価値観、ホモフォビア/トランスフォビア」と息もつかさぬペースでの専門用語のオンパレード。

 

(もうここまでくると、読んで理解してもらえるかどうかなんてほぼ度外視、といった印象があります(苦笑))

 

さらに最後近くになると..........

 

「神は何者かになることを条件とはせず、無条件でありのままのあなたを愛しておられます。なぜなら、神が先にわたしたちを愛してくださったからです。性のあり方を変える必要はありません」

 

いやいやいや、途中までは正しいのに、なんで最後に「性のあり方を変える必要はありません」ってなるの!

 

常々思うんですが、同性愛者でなくたって、「異性愛者としての自分のありかた」を変えなければ、と苦闘している信者さんって(特に男性には)いっぱいいると思うんですよね。

 

「通りがかりの美しい女性についつい心惹かれ、よからぬ想像をしてしまう。こんな自分を変えたい」

 

こういう性のあり方、「変えなくていいです」ってことは?どうなるのかな?それこそ、「私は真の自分に目覚めました。これからはポリアモリーを実践します!」みたいなのが正解ってことになるのかな?

 

むろん、そんなのは論外ですよね。

 

それとも、「変える必要はありません」っていう文言は異性愛者(主に男性)にはあてはまらず、同性愛者・トランスジェンダーにのみあてはまるものなのでしょうか?

 

本当に、こういったきわめて大雑把な話ばかりで、読むほうのモヤモヤは増すばかりです。

 

そして、その次が極めつけです。

 

「変わらなければならないのは、神の創造の業であるあなたの性のあり方を否定し、神の名を騙り、聖書を恣意的に用いてあなたを変えようとする人たちなのです」

 

言うに事欠いてこれ・・・?(呆)。

 

「私たちを変えようとするな!」はまだわかるんだけど、「おまいらが変われ!」というのはカンッゼンに「?」マークです。

 

なんで、自分は変わりたくないけど他人を変えようとするのでしょう?なんか矛盾してません?

 

なんで「私変わりたくない」「私も変わりたくない」「じゃあ別々に礼拝やりましょう」「さいなら。二度と会いません」っていう結論にならないのでしょうか?

 

「趣意書」の真意とその「強引さ」

 

ここまで趣意書を読むと、もはや「連絡会」の真意というか、その本当の狙い(願い)がだいぶ明らかになってきたな、と私などは思います。

 

「そのようなNBUSの主張は、公になされてはならないものです」

 

「変わらなければならないのは、神の創造の業であるあなたの性のあり方を否定し、神の名を騙り、聖書を恣意的に用いてあなたを変えようとする人たちなのです」

 

このように「連絡会」が望んでいることには、

 

NBUSによる公の情報発信をやめさせ、できればNBUSやそれに賛同する人たちを「変える」こと、が含まれているわけですね。

 

なので、「連絡会」の志向は多分に「政治的」なものがあるといえます。

 

すなわち、教会や教職者・信徒のサークル内部において聖書の教えをどうするか、という宗教的な部分にとどまらず、

 

日本社会全体においてある一定の言論や聖書解釈を公然と説くことをやめさせたいという、きわめて分不相応、かつ過剰に壮大なビジョンを抱いているわけです。

 

これ、念のために言うと「藁人形論法」じゃないですからね。だってHPにちゃんと書いてあるんですから。

 

まあ、リベラルプログレッシブキリスト教界隈が、ともすると壮大過ぎる(サベツのない理想的な社会をつくる、みたいな)ビジョンを打ち出す傾向があるのは以前から知っていましたし、

 

自分は変えるなと主張しつつ他人には変われと平然と主張するあからさまなダブスタや、

 

自分の気に食わない相手のことをさも「脅威」であるかのように針小棒大に言い募る癖といったものも私は見慣れています。

 

しかし、この「連絡会」HPと「趣意書」を見て、私はちょっと「それにしても強引すぎやしないか?」と感じたのです。

 

いくらなんでも、NBUSに一言も書いていないことを自ら認めながら「転向療法だ!」と叫ぶ、

 

(さらに趣意書本文においてはこっそり「嫌悪療法」と言い換えるいささか姑息な)そのやり方は、

 

リベラル神学に親和的な人であっても、読んでいて素直にはうなずけないのではないか、と思うのです。

 

別にNBUSの肩を持つわけではありませんが、その壮大な目標に比して文章の練度が低すぎるというか、かなり急ごしらえの感が否めないんですよね。

 

パート2に続きます。