パート2の続きです。

 

さて、浅学ながらどうにか読者の皆さんの益になるよう悔い改めについて書いてきましたが、長々しくなってしまったのでパート3で終わりにしようと思います。

 

前回は、ヨハネ8章の女を主題にして、

 

クリスチャンになった後でも、自分の犯してしまった(あるいは今犯している)罪があったらそれを明確に認識し、その罪の贖いのためイエス様が十字架にかかってくださったことで赦しを頂けたという真理を再認識し、

 

そのうえでもし可能なら、信頼のおける兄弟姉妹に罪を告白し相手から祈ってもらうような率直な交わりを持つとよい、といったことを書きました。

 

今回は、ヨハネ8章の女の旧約聖書的なバックグラウンドに少し触れ、クリスチャンが「罪から離れるための格闘」を生きていくために是非ともぜひとも必要なもう一つの要素を、お分かちしたいと思います。

 

ヨハネの福音書と旧約、ホセアに隠れた新約

 

ちょっと話が逸れますが、前回取り上げたヨハネの福音書は、旧約聖書との結びつきがきわめて濃いのが特徴です。

 

例えば、冒頭「初めに、ことばがあった」は明らかに創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した」を意識していると考えられますし、

 

また光と闇の記述もまた創造逸話(創1:4)からの影響を思わせます。

 

さらに、大きな光と小さな光(創1:16)の部分は、イエス様(ヨ1:9)と洗礼者ヨハネ(ヨ5:35)がそれぞれ光というメタファーで表現されることで再現されます。

 

また前回触れたように、ヨハネがユダヤの例祭によってイエス様の活動時期を示していることとか、枚挙に暇がありません。

 

その観点から8章の女を見ると、この逸話も(無論実際にあったことを記録したものでしょうけども)旧約聖書的との関連がどこかに隠れているのではないか、と私は思います。

 

そう考えると旧約聖書の中でもっともこの女との逸話と共通する点があるのはホセア書ということになりましょう。

 

ホセア書では、北イスラエル王国の預言者ホセアが、神から示されて姦淫の女ゴメルを娶り子を設けるところから始まります。

 

そして3章で、ホセアはその姦淫の女を愛するようにと再び示され、ホセアは行って女を「買い取」ったとされています。

 

(あまり明確には書かれていませんが、おそらく1章でホセアが娶って二人が子を設けてから、女は出奔したうえ売春婦として身売りしまったものと推測されています。)

 

文面から明らかなのは、ホセアと姦淫の女の結婚の顛末が一種のシンボリズムとして働いているということです。

 

すなわち、イスラエルがヤハウェを裏切って偶像崇拝(姦淫)したにも関わらず、神はイスラエルを愛することをやめようとされない、まさにそのことを表しているわけです。

 

さらに、これを新約の視点から考えると、ホセアが代金を支払って「買い取り」をしたという部分は、イエス様が(十字架という)対価を支払ってその民を贖われるさまが想起されますし、

 

「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない」(3:3)という言葉がけが、とても懇ろで愛情の籠ったトーンに聞こえ、ヨハネ8章の女に対するイエス様の言葉を思わせます。

 

そもそも、律法に厳密に従うならば、ホセアの妻は死罪になってもおかしくありませんでした。

 

そうでなくとも、夫のほうから離縁状を叩きつけてもなんら責められることはない状態ではあったでしょう。

 

それなのにホセア書の顛末はまったく違うことになっています。

 

そういうところが、この箇所はどうも旧約的ではなく新約的な色合いがある、と言いましょうか。

 

あるいは、「旧約の中に既に新約のイエス様の愛が暗示されている」と表現したほうが適切かもしれません。

 

(私個人的には、「律法の執行」よりも「憐れみ」を優先するこの姿勢が、マリアを晒し者にすることを望まず密かに離縁しようかどうか悩んだヨセフの優しさとも共通するものを感じます。)

 

ホセア書は3章より後になると、預言者と妻がどうなったのか定かではありません。

 

しかし、姦淫の女を娶り、相手が出奔しても追い求め、身を買い受け、懇ろに諭す、

 

神様の愛とはまさにこのようなものなのかとただ圧倒されてしまいます。

 

痛みを感じる神

 

それにしても、旧約聖書の預言書というのは、預言者がヤハウェに命じられ常識ではありえないようなムチャなことをする場面がたびたびあり、その記述というのはいつも淡々としているのですが、

 

ホセアの心情を想像するに、彼が経験した苦しみ痛みはいかばかりだったでしょうか。

 

自分の身に置き換えたら到底堪えられないような心痛があったろうと想像してしまいます。

 

そして、その心の痛みは、まさに背信のイスラエルを愛し続けようとする神様が感じた痛みと、スケールは違えども同種のものなのではないか、と私は思います。

 

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「聖書の神様は心の痛みを感じる神様」です。

 

もちろん神様は神様ですから人間と同じではありません。

 

しかし、人が罪深いさまをみて「心を痛め」られる神様のご性質は、はるかに時代を遡って創世記の6:6といった記述にもあります。

 

そして、ヤハウェとその民の関係がたびたび夫と妻に例えられているならば(例えばエゼキエル16章)、

 

神様が自分の花嫁と定めたイスラエルが他の神々への姦淫に落ちていくさまを見るにつけ、ここでもやはり著しい「心の痛み」を感じておられたであろうことは否定できないと思うのです。

 

私たちが学べること

 

そして、ここから私たちが学べることは何でしょうか。

 

私たちは、預言者のように文字通り姦淫の女と結婚する必要は勿論ないとは思います。

 

しかし、この預言者の行動から最低限わかるのは、私たち人間は、神様の後を歩こうとするならば、誰か特定の相手を、その欠点いかんに関わらず愛し続けるようにするべきだ、ということです。

 

また、そうして初めて知ることのできる感情というものがある、ということです。

 

特定の人を、相手の出方に関わらずずっと愛し続けるのはハッキリ言って簡単ではありません。

 

そのような愛し方は、当然ながらこの世の在り方をとはかなり異質です。

 

私たちは、周囲の人との関係を扱うときしばしば「相手が良いことをしてくれたら良いものを返し、悪いことをしてきたら悪いものを返すか、あるいは関係を遠ざける」といった姿勢になりがちです。また、自分なりの「期待値」みたいなものを相手にあてはめ、相手がそれを下回ると勝手に裏切られたように感じたりするものですよね。

 

(しかし、クリスチャンの皆様はご存知のように、それとは全く違う愛し方をせよとイエス様は私たちにチャレンジしておられるわけです(マタイ5章等)。)

 

ともあれ、誰かを無条件に愛す、そして愛し続けることを選んだ場合、それでも相手が間違ったことをして、自分が傷つけられる可能性は必ず出てきます。

 

でも、そのとき驚き怪しむのではなく、それを覚悟の上で、そうなったとしてもたじろがない、と決心したうえで、愛するのです。

 

....と、言葉にしてみれば簡単ですが実際難しい。

 

私自身は、まず何をおいても自分の妻、子供たち、そして教会の兄弟姉妹に対してはそのようにしようと思っています。

 

それでも、何かの拍子に自分の態度が悪くなってしまうこともあり、後で気づいて悔い改めることの繰り返しなのですが.......

 

卑近な例で恐縮ですが、私自身は、昔妻と言い争いをして、一度だけ相手がボソっと「別れる」と呟いた瞬間があり、いまだにそれを覚えています。(彼女もそれ以来二度とそんなことを言いませんし、私もほじくり返すつもりは毛頭もありませんが。)経験のある方は理解していただけるかも知れませんが、その時感じた甚だしいショックと「痛さ」は今でも鮮明に思い出すことができます。

 

そのことがあってから、私自身はそのような痛みを「相手によって不当に傷つけられた痛み」ではなく、「人を愛することの対価」ととらえるようにしています。

 

(まあ私自身も甚だ至らない夫であり、きっと妻を傷つけてしまったこともあったと思うのですが(笑)。)

 

しかし、私の教会の主任牧師などはもっと徹底していました。

 

教会に集う人たちの中に、若いころの私さえ比べ物にならないような「社会不適合」な若者がいたのですが、

 

主任牧師は「彼を愛し続ける」と決心し、彼にお金、衣類、食べ物を与えたり、就職を世話したりとさまざまな援助をしていました。

 

ところが、その彼はふと礼拝に来なくなり、家庭もうまく行かなくなり、ついには自分で命を絶ってしまいました。

 

主任牧師も、牧師夫人も、そのことを話すときはいまだに涙ぐんでいます。内心でも、「こんなに愛し続けたのになぜ?」という思いも沸いているでしょう。

 

しかし、主任牧師は今でも、「愛する」とは感情ではなく、決心して愛することだ、と言っています。

 

結局のところ、人間的な愛とは違う「アガペー」の愛で愛するということはどこかでこういう犠牲を払うことなしでは成立しないのですね。

 

このようにして、私たちクリスチャンは、罪だらけの私たちを愛し心を痛められた神様の足跡を、拙いなりにでも辿ることが必要なのです。

 

このようなことを通じて「痛み」を感じ、受入れる経験をすると、やがて私たちは「神様も痛かったんだ」ということが身に染みてくるようになるのではないでしょうか。

 

(ただし、クリスチャン女性の場合ちょっとご留意いただきたいことがあります。女性の場合、特に独身女性の場合、男性と接する際の距離は注意したほうが良いと思います。男性は下心とか勘違いの癖がある場合が少なくないので万一ヘンな恋愛沙汰になると困りますから。そういったことがないように、同性の姉妹とのしっかりした交わりを育んでいただくと同時に、もし既婚でご自身の家庭は安定している状態であれば、できればご夫婦で協力して、愛を必要とする人に尽くしていただきたいと思います。)

 

一人での闘いは難しいが.....

 

さて、ここいらあたりで、やっと表題の「罪から離れようとする格闘」と関連が出てきます。

 

もしも自分が愛し続けてきた相手が何か間違ったことをして、その結果自分の心が痛む経験をしたら、

 

やがてクリスチャンは「イエス様もきっと痛かったんだろうな......」と実感するときが来ます。

 

もちろんイエス様の味わった痛みとは比べ物にはなりません。

 

しかし、それが「愛するが故の代償」であるならば、私たちの感じる痛みは、小さくはあってもその質としてはイエス様の痛みに近づいているのではないでしょうか。

 

そして、人はそのような種類の痛みを味わうと、

 

「イエス様が痛い思いをしたのは、オレの罪のせいだったんだな`.....」

 

「オレの罪のせいで、イエス様はあんな痛い目にあわなければならなかったんだ」

 

「だったら、もう二度とあんなことはするまい」

 

と心が固まってくるのです。

 

私の経験から言うと、人は自分の罪を自分の力で制することばかり考えていても、うまくいかないことが多いです。

 

罪から離れようとする格闘には、実はいろいろな要素が絡んでおり、一人ぼっちで自分の意思の力で戦うのは厳しいものがあります。

 

そこでたとえば、パート2で書いたように、信頼のおける兄弟姉妹と(同性だけで)少人数のグループを作り、祈りあう。

 

また、見返りなく誰かをずっと愛し続ける過程で感じうる心の痛みが、その人自身をも正しい道に立ち返らせる力となり得ます。

 

さらに付け加えますが、逆の視点から考えると、

 

自分が誰かから見返りなく愛されていることを実感した人は、多くの場合、その愛してくれた人を裏切り心を痛めさせるのが嫌だという心理が起きて、次第に罪を犯さなくなるものです。

 

(↑これ、主任牧師や教会の兄弟姉妹に散々世話になった私自身の本音でもあります。(^_^;))

 

第一ペテロ4:8

 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 

なので、この聖句は何重にも真実だと思います。

 

が、ここで言う「愛」は美しくフワフワした「愛こそすべて」とか「love is love 」みたいなスローガンとは全く異なります。

 

心の痛みを経験することを覚悟のうえで決心して愛する。

 

終わりの時代にあって、そのような関係性の中で育まれる交わりが教会には是非とも必要だと確信します。

 

あなたはどう思われますか?

 

(終わり)