パート1の続きです。

 

前回は、神を信じる人たち、その中でも信仰のために集って働く意欲のある人たちが、

御言葉を聞いて胸を刺され、またその後喜びに満たされ再出発する様子を、ネヘミヤ八章を例にとって説明しました。

悔い改めというのは、何もノンクリスチャンだった状態から信者になった時だけに行われるものではなくって、

むしろ、成熟した信者の方のほうが頻繁に悔い改めを実践しておられることのほうが通常です。

(なので、これを書いている端から「もしかすると、クリスチャンの読者さんにとってはまさに『釈迦に説法(?)』」とちょっと不安になってきています(汗)。)

ともあれ、教会にこの世の流れが押し寄せてきたとき、そしてそれによって若い信者さんたちが足をとられてしまったとき、

そんな場合に訪れる危機に対して、何を備えればいいのかと考えたら、

健全な御言葉の教えはもちろんですが、

やはり大人の信徒たちがこのようにして「御言葉を真剣にとらえ」て生きていくことの例を絶えず示していくことなのではないか、と思っています。

教会の若い人たちが罪を犯してしまったとき、

成熟した信徒たちの悔い改めと再出発の姿が目に焼き付いていれば、

自分が一体どうやって再出発すればいいのかの手がかりになると思うのです。

しかし、前回の例はまだ御言葉とそれを聞いて再出発する信者の内面心理を漠然と取り上げただけですので、

今回はもう少し悔い改めについていろいろ具体的に書いていきたいと思います。

ヨハネ八章の女

突然ですが、ヨハネ八章には姦淫の場で捕らえられた女がイエス様の前に引き出される有名な話が出てきます。


8:1イエスはオリーブ山に行かれた。 
8:2そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 
8:3すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 
8:4イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 
8:5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 
8:6彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 
8:7けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 
8:8そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 
8:9彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 
8:10イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 
8:11彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


このエピソードは長きに渡ってリベラル派にさんざん濫用というか悪用されてきていたことをご存知の読者さんも多いと思います。

いわく、

「イエス様はこの女に石を投げなかった!」

「だから我々も婚前交渉その他の性的行動を『罪だ』と言ってはならない!」

みたいな。

これ自体はもう本ッ当に低レベルな議論で、取り上げる時間すら勿体ない(爆)

ともあれ、私はこの聖書箇所には我々信者とイエス様との個人的関係について、非常に重要な教えが含まれていると思います。

この聖書箇所、「傍観者」として眺めるか、「当事者」として眺めているかで、だいぶ見えてくるものが違うのです。

傍観者としてイエス様と女を眺めると、

「あ、イエス様が『罪に定めない』って言った」

「じゃあ僕らも『罪だ罪だ』言っちゃだめだよね」

といったお粗末な解釈が出てくると同時に、

逆に

「イエス様、最後のところで『もう罪を犯さないようにしなさい』言うとるやん」

「じゃあ僕らも『罪を犯すのはやめようね』言わんとあかんやん」

といった教えも導き出せるかのように思えます。

ですが、こーゆー不毛な議論にエネルギーを使うより、

私たちは「当事者」としてこの話をとらえたほうがいいのです。そのほうが益があると思います。

すなわち、私たち信者ひとりひとりがこの「姦淫の女」であって、

目の前にイエス様がいらっしゃる、ということを想定するのです。

私たちは、実際には姦淫を犯したことはないのかも知れません。

しかし、イエス様が(特に男性に対しては厳しく)「情欲をもって女性を見ただけ」で罪だとおっしゃったのはご存知のとおり。

それでなくても、私たちの「罪性」はとても根深いもので、

信仰生活の長いかたほど、私たち人間には、ただ単に行動面の問題というより、内面により深い問題があるということに気づいていらっしゃるかと思います。

ともあれ、当該の箇所をもう一度「当事者」として見てみましょう。

私(ここでは捕らえられた女の立場になってみます)の罪は、もはや皆の目に明らかです。

私は、私設法廷に引き出され、群衆は判決を求めています。

そして、イエス様は「罪を犯したことのない者が最初に石を投げなさい」と言われました。

だから、リベラル派には残念ですが、やはり「罪は罪」というのは明らかであって、

また、罪のないイエス様には、「石を投げる権限」があるわけです。

(ただ、信者が人に向かって「あなたのしていることは罪ですよ」と指摘することの是非については、もう少し込み入った考察が必要です。これは後で説明します)

しかし、イエス様は石を投げられるにも関わらずそうしませんでした。

なぜか?

それは、イエス様の初臨の目的から明らかです。(「裁くためではなく、救うために」来られたとヨハネ3:17にある通り。)

 

イエス様は罪の購いのためやがて十字架にかかることが決まっていました。

このエピソードの周辺では仮庵の祭が祝われており、その後宮清めの祭り、そして過越しの祭り、といった具合に、

ヨハネはユダヤの例祭を用いて時間軸を示し、イエス様が刻一刻と十字架に近づいていく様子を描写しています。

ともかく、イエス様は、まさにこの女を含めた罪人たちを救うため十字架にかかり苦しみを受ける地点に確実に向かっていました。

だから、イエス様が「私もまたあなたを罪に定めない」とおっしゃったのは、

気まぐれでインスタントな、あるいは事務手続き的な「恩赦」とか「特例」みたいなものとしてとらえては決してならないわけで、

その裏には十字架の計り知れない重みがあるということを認識しないといけないのです。

私たちがこのエピソードを「当事者」としてとらえたときにはこのようなことがわかります。

すなわち、

私たちは明らかに神の前に罪人であり、

本来であれば石打ちをもって裁かれるべきはずが、

イエス様は刑罰を身代わり受けて下さったので、

私たちは「これからは罪を犯さないようにしなさい」との言葉をかけられ、解放された、

ということがわかります。

まさに救いの本質ですよね。

ギャラリーはどこへ行った?


さて、そこでイエス様の前に女を引き立ててきたパリサイ人や聖書学者その他の群衆にちょっと目を向けてみましょう。

コメンタリーを読んだことのある方はもうご存じかと思いますが、

彼らは純粋にイエス様を罠にかけることを企図していたのであり、

イエス様が「女を石で打て」と言えば、ユダヤ人には死刑執行の権限がローマから与えられていないことをとらえて「ローマ帝国に反抗した」と訴え、

イエス様が「女を石で打つな」と言えば、彼らは「イエスはモーセの律法を蔑ろにしている」と訴えるつもりだったのです。

(しかも、律法を厳密にとらえると、「どうして男が捕まえられていないのか」とか、「石打ちと定められているのは婚約した処女が姦淫した場合だけじゃなかったっけ?」等突っ込みどころ満載ですが)

しかし、彼らはイエス様の答えを聞くと、年長者から一人また一人と立ち去ってしまいました。

ちなみにイエス様は問答の最中地面に何かを書いておられたと記されています。

これが何だったのかははっきりとはしておらず、

ある学者は「イエス様はその場にいた人々の罪を地面に書いていた」と推測しますが、

別の学者は「イエス様はその場にいた人々の『名前』を地面に書いていた」としています。

後者は、エレミヤ書17章13節に「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちが水の泉、主を捨てたからだ」とあることを根拠としています。

 

聖書の世界観では「いのちの書に名が記される」のが救いであるのに対して、逆に「地面に名が記される」のは、いずれ風が吹いてしまえばその名は消えてしまうので、死すべきことを示しているわけです。

 

そして、イエス様が自分たちの名を知っていたという驚きに加え、地面に名が書かれたというシンボリズムによって、自分たちが滅びに向かっているということを示されたので彼らは退散した、と推測するのですね。

いずれにせよ、興味深いことがあります。

彼らギャラリーのうち、誰一人として

 

「イエス様、私は罪がありませんから石を投げても構いませんよね?」

 

と主張する者がいなかったということです。

イエス様が何を書いていたにせよ彼らの全員が「自分には罪がある」ということをはっきり自覚させられたわけです。

もちろん、彼らの中に「イエス様、私はあなたが示したように罪人です。どうすれば赦していただけるでしょうか?」と教えを乞う者もいませんでした。

このことを黙想して感じるのは、なんびとといえどもイエス様の前に立って「私は罪がありません」と主張できる人間などいない、ということです。

しかし、ほとんどの人たちは漠然とそのことを自覚したとしても、不快な思いをしたくないのでイエス様の前に留まることを選ばないのです。

何かが違う、何かがうまく行っていない、そんな感覚を抱えていても、人はイエス様の前にじっととどまり、イエス様が自分に何をおっしゃるか注意深く耳を傾けようとはしません。たとえ、なにかの折りに福音を耳にしたとしても、スっとそこを離れて自分の生活に戻ってしまいます。

イエス様を取り囲んでいた群衆のように、これ以上自分のボロを見抜かれてしまう前にさっさと退散してしまおうと考えてしまうことのほうが、多いのです。

 

ただ、それでは正しい方向に針路を直して再出発することもできません。

 

だから、クリスチャンである私たちにとっては、自分の罪が明らかに示されて、悔い改めに導かれるのは、むしろ多大なる恵みだと言えます。

 

クリスチャンでありながら、罪を犯したままそれが誰にも知られずただただ時間だけが過ぎていくなんてことがあったら、むしろそっちのほうが悲惨です。

 

なので、これは自戒を込めて書きますが、そういうことだけは無いように気を付けたいものです。

 

告白と赦しーヤコブ5:16

そうすると明らかになってくるのは、

 

聖書記者に霊感を与えてこの話を記録させた神様は本当にこの捕らえられた女に心を留められていた、ということですね。

彼女の罪は周辺の全員に知られ、彼女はただイエス様が一体何をおっしゃるか待つことしかできませんでした。

そして、彼女はハッキリと「罪に定めない」というイエス様のご意思をイエス様本人の口から聞いたのです。

何が大事って、これほど重要なことはありません。

罪の悔い改めっていうのは、なにか漠然とした、

 

「オレって罪人かな~?う~ん、オレまあまあイイ人だけどたまに人の悪口言ったりもするしなあ~。どっちだろ?」とか、

 

そういう曖昧な意識ではなかなかできるものではなくって、

「自分はこれこれの罪を犯した」

「自分のこれこれこういった考え方、感情の動き方、あるいは行動(あるいは、ある行動の欠如)は、明らかに罪だ」

ということを本人が明確に意識するに至る必要があるのです。

そして、その上で、イエス様がその贖いのために十字架にかかって下さり、赦しを与えてくださったということを実感することが大事です。

私は、自身がプロテスタントの信者であって、カトリックにはいろいろと問題があると認識していますが、ただ「赦しの秘跡」っていうのは実によくできた仕組みだな、と思っています。

自分でその罪を誰かに対してハッキリ言い表すことと、そして赦しを与えてもらうということが、いかにその人を養いその後の歩みを励ますか、という点は決して軽視できないからです。

ただ、もちろんプロテスタントの信者さんはそのためにカトリックに宗旨変えまでする必要はない、と私は考えます。

私自身は、信者さんの間で互いに励まし合う「小グループ」を作ることをお勧めしたいです。

たとえば、「メンズ」「レディース」といった感じで、同性で、なおかつ信仰歴もある程度の期間あり、信頼のおける少人数のメンバーでミーティングをするのです。

もちろん、ミーティング自体は交わり全般を目的とするのですが、その一環として、もし罪を犯してしまったことがあればそれを誰かに告白し、祈ってもらうのです。

ヤコブ書5:16にあるとおりです。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

ここで注意すべきなのは、メンバーの範囲が広すぎたり人数が多すぎると、告白したことに尾ひれがついてゴシップが生じたり、あるいは信仰の幼い人が事案の取り扱いを間違えてしまったりする場合もあるので、人数は少なめにするということです。

(その点、全会衆の前で罪を告白させるようなのはやり過ぎだと思います。)

ていうかもし信頼のおける信仰仲間が一人しかいないといった場合には、その人と二人でのミーティングでもよいでしょう。

日本人はシャイなので、自分のしてしまった恥ずかしいことを人に告白するのは勇気がいります。それも踏まえた少人数ということです。

また、信者どうし交わりの一環ですから、典礼のような形式も要りません。告白するほうも聞くほうもシャチホコばって身構えることも要りません。以下のように何気なくすればよいと思います。

A「.......そういえばさあ、聞いてくれる?オレこないだエロ動画見ちゃったんだよね」

B「そうか」

A「仕事でめっちゃストレス溜まっててついつい我慢できなくてさあ」

B「お前最近忙しそうだったもんな」

A「でも、やっぱ見たあと絶対後悔しちゃうんだよなあ」

B「やっぱそうだよな、わかるよ」

A「オレさ、エロ動画見るの本当に辞めたいんだ。辞められるよう祈ってくんない?」

B「わかった。愛する天のお父様.........」

ここで大事なのは、両方とも「何が罪か」ということの定義と、「罪の代償はイエス様が支払ってくださった(だから救いそのものには影響しない)」ということで考えが一致していることです。

聞き手のほうが「へえ?まあそれくらいいいんじゃない?」といった軽い流し方をしてしまうと、告白しているほうは何も解決せずモヤモヤするだけですし、

逆に「ナニッ!なぜそんなことをしたんですかッ!クリスチャンとして失格です!今すぐ悔い改めなさいッ!」みたいな感情的な反応をしてしまう人が相手だと、そもそも告白自体できなくなってしまいます(苦笑)。

 

ともあれ上で例示したような率直な交じわりを持つことの益は図り知れません。

 

自分でハッキリ誰かに罪を告白することで、どうにかしなきゃいけないという決心がつきますし、


祈ってもらうこと自体が大きな励ましになるからです。

 

とはいえ、クリスチャンになってから、あるいは教会に加わってから日が浅く、そういう仲間がいない方もいるでしょう。

 

そういう場合は、少なくとも、神様に向かった祈りのなかで罪を告白し、取り扱って頂くよう願うのがよいかと思います。

 

罪の示しと成熟

最後にもうすこし補足を。

 

罪とその認識は実はいろいろなパターンがあって、

ある人が、クリスチャンになっても従前から引きずっている中毒的な罪の行動をやめらずにいる、という場合もあれば、

長期間真摯に信仰生活を送っている人が、ある時期に自分が今まで気づかなかった隠された罪とか、あるいは自分が何気なく見過ごしていたことを罪として神様から示されるというのもあります。

いずれの場合も、実は一番大事なのは「本人が自ら罪だとはっきり認識している」ということであって、

ある信者が、客観的立場から、別の信者に向かって

「キミのやっていることは罪だよ、おやめなさい」

と指摘するのは、簡単なことのようでいて、実はちょっと難しい側面があるのです。

というのも、その行動が明らかに身体精神に有害なこと(薬物使用、暴力、暴言、あるいは性的な罪等)であれば話はわかりやすいのですが(これらの場合は隣人愛の観点からもできるだけ害を広げないよう本人に諫言するのが妥当です)、

もっと込み入ったものになると、例えば「お祭りで神輿を担ぐのは罪?」とかいった問題が出てきます。

この例でいうと、私自身は、神社というのは時として悪霊の巣のような場所もあると思っていて、基本近づかないことにしてますが、

その一方で、神社やお祭りを単なる文化伝統と考え、イエス様への信仰と競合しないものと漠然ととらえ、むしろ喜んで神輿を担ぐ幼い信徒さんもいます(牧師さんとかがこれではちょっと困りますけどね(苦笑)。)

そういう信徒さんに「それは罪ですよ」と指摘することに益があるのか、ちょっと難しいところです。

「聖書のここにこう書いてあるから罪」という論法は、もちろん議論の首尾としては通っているのですが、

それを指摘を受けた人がたとえ同意したとしても、「何章何節に書いてあるから罪」という表面的な理解にとどまってしまったら、それはそれで残念なこと。

「何が罪で何が罪でないか」という問題は、できれば、聖書全体の文脈に加えて、「私たち信者は何のために今生きているのか」という大きな流れの中で理解していきたいところです。

 

というのも、信仰の幼い人が、ある行動について「これぐらいいいジャンよ~固いこと言うなよ~」と思っていても、

 

信仰の成熟した人はその同じ行動について「私はこれをしている時間、果たして神様のために生きているのだろうか?」とハタと立ち止まることもあるからです。

 

信者が、もしも「自分の人生の全ての領域は神様への捧げものである」と考えるのであれば、物の見方も必然的に変わってきます。

 

なので、私たち信者は、聖書を部分的にではなく全体的に学ぶことに努めるとともに、

 

御言葉を文字通り自分の人生に直接関わるものとして真剣にとらえ、実践し、それを通じて成熟を目指していくようにしたいものです。

 

そしてその後ろ姿を若い信徒さんに見せられるのであれば、

 

今後の時代の暴風や、ますます過激化していくこの世の流れの中にあっても、まだ希望は残っていると私は信じています。

 

(パート3に続きます。)