パート3の続きです。

 

個人的読後感(続き)

 

さて、Carl Trueman の洞察によれば、ジャン・ジャック・ルソー以降、「内面心理」こそが自己を定義するものという思想が次第に支配的となり、


またフロイトの影響によって「性欲」は自己の核心的な構成要素とされました。


最後にマルクス主義的文脈でそれらが再解釈され、個人個人が「内的心理的」に定義する「性」に基づくアイデンティティが革新的な政治運動の基軸となるに至りました。

なかでも特筆すべきは、ルソーやロマン主義の詩人たちに始まり、人間の自然本能を善と仮定し、倫理を内面の感情に帰し、社会こそが人を腐敗させる悪であるとする思想が、

 

やがて性的規範をして人が十全に生きて幸福になることを妨げる「悪徳」と見做す考え方の萌芽をもたらしたということです。

さて、読者のみなさんのうち、クリスチャンの方、特に保守的教義を信じる信者や教職者の皆さんは、ネット上でリベラル・進歩主義キリスト教の考え方に接する際に、

「・・・・・なんでこういう発想になるの?」と戸惑ったり途方にくれたりした経験はおありでしょうか。

私は何回も、いえ数えきれないくらいあります。

そのときはただ苛立ったり、憤りを感じたりしただけでしたが、今、Carl Trueman の洞察を基にすることにより、そういった現象もきわめて平易に説明がつくことになります。

 

「我慢するとおかしくなる」

 

 

https://twitter.com/isa_ckt/status/1198086828852572161

https://twitter.com/isa_ckt/status/1198217757751250944

 

あるクリスチャンのアカウントです。「ポルノを見るのを我慢し過ぎるとおかしくなる」という発想です。

 

(そもそもポルノ自体製作過程において、詐欺的な契約による女優の強制出演等人権侵害を含んでいる可能性が多分にあったりとか、米国においてはポルノ女優の薬物中毒と自殺が異常なまでに多いとか、そういうことを知ってるのか知らないのかはわかりません。)

 

ここからは、すなわち

 

「性欲を満たすというのは人生において不可欠といえるほど重要な事項」

 

という思想が伺えます。


食事しなければ死にます。水を飲まなければ死にます。睡眠しなければ死にます(まあその前に耐えられず眠りこけてしまうでしょうけど)。しかし、性欲を充足しなくても人間は死にません。

 

ところが、上記アカウントの発想ですと、

 

どうやら「性欲の充足は我慢するとおかしくなる」となっているようです。フロイトの登場以降、「性欲の充足」を人の「自己」にとって極めて重要な要素とみなす見方が支配的となりましたが、その思想の流れが顕在化したわかりやすい一例と言っていいでしょう。

 

納得がいかない!

 

次の例です。その筋では有名な富田正樹牧師による完全にリベラル神学に依拠した「Q&A」サイトです。

 

https://ichurch.me/qa.html

 

その一部に、婚前交渉の可否を論じる一ページがありますが、師は特段根拠を示さず

 

「独身であることを選んだ人が、その恵み[よいセックス]から除外されなければならない、ということにも納得がいきません。」(強調筆者)と断言しています。

 

つまり、結婚しているかしていないかにかかわらず「人が性的充足を味わうことを阻害する規範など納得がいかない」ということのようで、

 

なぜ納得がいかないのかは特段書かれていないのですが、そうすると「人は結婚の有無にかかわらず性的充足を得る(ことについて他者からとやかく言われない)権利を有するのが当然」という主張に見え、従って性欲の充足を人の人生にとって不可欠な部分とする思想が伺えます。

 

異なる枠組み

 

上記二例のうち、後者の、牧師さんの発想でもうひとつ顕著なものがあります。

 

それは「婚前交渉をしない」という個人的選択肢については理解を示しつつも、「宗教に基づいた性的規範」には断固たる拒絶を示していることです。

 

「『婚前にはセックスしない』というのは、個人の選択の問題であって、決して宗教的な理由であってはならない」(強調筆者)

 

理由として師はこのようなことを挙げています。

 

「『神』の命令を理由にして物事を判断する人は、必ず自分の考えと違う人を裁き、責めます。考えが違う他者の存在を容認できないのです。そして、それが他者のこれまでの人生を否定し、深い心の傷を負わせることになりかねない」(強調筆者)

 

平易に解釈するとこれはほぼ「宗教に基づく性的規範は悪徳である」という思想で、Carl Truemanが論じていたものと全く同じです。

 

かかる性的規範があるがゆえに、「婚前交渉をした者は責められ、罪悪感を感じ」るため、これに反対するというのです。

 

これらを総合すると、師の議論は、人が結婚の有無にかかわらず性欲を充足する(ことについて他者からとやかく言われない)権利に並々ならぬ重点を置くだけではなく、

 

人がその性行動に対して他者からの批判を受けると、その「内的心理的」自己が「傷つく」のでと、かかる批判には断固たる反対をするという意志が見て取れます。

 

「婚前交渉は罪ですよ」という言葉は、ある人々にとっては許容できない「人生の否定」であり、「心の傷を負わせる」重大な「罪」とみなされているのです。

 

これを見ると、まさに「内的・心理的」自己がほとんど神聖で絶対不可侵のもののように扱われていることがわかります。

 

対話が成立しないわけ

 

私ブログ主自身は、以前師と対話を試みたこともありましたが諦めた経緯があります。SNS上での師と他のアカウントとのやりとりを見ても、やはり対話は不可能という印象は強まるばかりですが、

 

その原因は、「枠組み」の違いということに帰せられると思います。

 

Trueman が論じた思想の流れに沿って説明するならば、

 

「内的・心理的自己」「性欲の充足」が極めて重視されているがゆえに、

 

「性的規範」の存在に対する「事象」の紐づけのしかたが、保守派と彼らのような論者では正反対になってしまうのです。

 

わかりやすくいうとこうです。

 

保守派的に考えれば、「性的規範は神が与えられたものだから大事にしなければならないのは勿論、これを無くしたら家庭崩壊やシングルマザー激増等々、深刻な諸問題につながるので、規範は私達を守るためにあるものでもある」、といった議論になりますが、

 

かたや彼らの場合、

 

宗教ベースの性的規範があるがゆえに

 

人はポルノを見るのを我慢し過ぎておかしくなり、

婚前交渉をした人は人生を否定されて傷つき、

独身者は性的充足を味わう機会を奪われ、

シングルマザーはスティグマを貼られ苦しむ。

 

従って、「宗教的理由の婚前交渉忌避・禁止はあってはならない」という結論になるのです。

 

だとしたら、もはや両者がこの主題について対話しようにも、その対話は「性的規範」という一つの主題に対する対話のように見えて、

 

その実「原因事象『A』(性的規範)とその帰結『B1』『B2』『B3』『B4』(有害事象)......の関係性をすべてを立証/論破」しようとする、不毛な試みに過ぎなくなります。

 

さらにいうなら、その有害事象すべてが「内的・心理的自己」に基づく事象、


すなわち

「我慢し過ぎておかしくなる(と感じる)」

「人生を否定されて傷つく(と感じる)」

「婚前交渉ができずリア充な人生が送れない(と感じる)」

「スティグマを貼られた(と感じる)」

といったものなので、

 

これらは議論でどうこうできるものでもないのです。なぜなら、つづめて言えばすべては立証も反証も不可能な「お気持ち」に帰せられるということになるからです。

 

新しい枠組みを

 

「性欲充足不可欠主義」や「内的お気持ち絶対主義」に陥ってしまった人たちと何を対話しようと無意味と諦めてしまうだけでは、あまりにも悲観主義な結論になってしまうので、

 

最後に私は、クリスチャンはどうやって「新しい枠組み」を提供できるのだろうか、と考えてみたいと思います。

 

私達クリスチャンは、「自己」を相対化することを提唱し、それを自ら実践する必要があると思います。

 

七面倒くさい言い方を避けてざくばらんに表現すると、要するに「愛し合いなさい」「愛しなさい」という戒めを実行すること、になります。

 

そのためには、「自分の必要を脇に置いて相手の必要を先に考える」ということです。

 

この原則はさまざまな場面に適用できるでしょう。

 

なんとなれば「性欲の充足」にしたって、(男性は特に)「自分の必要を脇に置いて相手の必要を先に考える」ことを強く意識するべきだと思います。

 

私は以前ある先輩の信者(既婚者男性)から、「セックスというのは夫のほうではなく奥さんを満足させるためにある」という助言を受けたことがあり、そのときは「ずいぶん極端な発想だなあ」と感心させられたものです。

 

しかし、今になって思いますが、ポルノの隆盛と「性欲絶対主義」の世の中にあって、クリスチャン、特に男性は、これくらいのラディカルな「発想の転換」をしないとダメだと思うのです。

 

無論、これ↑は既婚者に限った話ですが、

 

この原則を適用すべき場所は他にもいろいろあります。

 

教会での奉仕にしても、「私(が自分)の賜物(だと思っている何かの才能)を生かせるような奉仕をしたい」ではなく、「その群れを養いその必要を満たすために自分にできることは何か?」といった考えに転換することも大事です。

 

また、献金ひとつとってみても、これもまた「自分の必要を脇に置いて相手の必要を先に考える」ことの実践です。

 

あるいはそういった宗教的な形をとらなくとも、ただ単に兄弟姉妹に食料や物を融通してあげることから始めたっていいでしょう。(←これを実践するには、表面的なつきあいを越えて、相手が今どういう状況で何を必要としているのかが把握できる密接なコミュニティーが存在していることが必要になってきますが。)

 

家庭生活にせよ、奉仕にせよ「内的・心理的自己」から出発するのをやめるべきなのです。

 

無論簡単なこととは言えません。しかし、少なくともこれを実践している群れがあれば、そこに「違う生き方」の可能性が可視化されてくるでしょう。

 

ただ、その「違う生き方」が今に広がってリバイバルが生まれるだろうとか、そういう楽観的なこともまた私には言えません。

 

未信者や求道者の人たちが、ある教会に行きがかり上出入りすることになっても、その中の長年信者をやっている人たちの群れに入っていくのは勇気がいるものですし、「ただ賛美と説教を聞きたいだけだから放っておいてほしい」という心理状態の人もたくさんいるでしょう。

 

未信者や求道者の人たちの中から、信仰を持ち、生き方を変え、「キリストの体」の一部となっていく人が出てくる事例というのは、私の知る限りでも一年のうちに多数あるというようなことではありません。

 

信者の地道な営為がどれだけこの世に影響を与えるかについては、(無責任なことを言うようですが)神のみが差配する領域であり、私たちクリスチャンはただただイエスの戒めに忠実でいようとすることしかできないのかも知れません。

 

自己からの離脱

 

最後に、私自身が経験したことをお分かちしたいと思います。

 

もう二十年ほども前のことですが、私は信仰を持つ前からある「夢」を追っており、信仰を持ってからもその夢を捨ててはいませんでした。

 

ただ、その夢を追いかけるためには資金が必要で、実家住まいのまま、自分の給料を車などの諸機材につぎ込んでいました。

 

ちょうどその頃、私は将来妻となる女性と教会で出会い、交際を始めましたが、私は次第に、夢を追い続けるかたわら(結婚というけじめをつけずに)女性と交際を続けるのが苦しくなってきました。もういい歳でもあったので先のことも何も約束できずに漠然と交際だけ続けるというのは何かとても不自然なことをしているような気になったのです。その一方で、私は幼いクリスチャンとして「神様は全能の方なのだから、きっと自分の夢をかなえてくださるはずだ」という思いが捨てきれずにいました。

 

しかし、結局主任牧師から

 

「ねえこれからどうすんの?結婚しないままずるずる付き合うの?もしも〇子(妻の名前)が結婚したいと思ってて、君がずっとプロポーズしなくって、それで他に『僕は〇子と結婚したいです』って男が現れたら君は止める権利ないってことになるけど、それでいいの?」

 

的なことを言われ、熟慮したうえで自分の生き方を「転換」することにしました。

 

心の中に「あんなに大事だった夢を諦めるのか?」という声もありましたが、懸命に就職活動して正業につき、いろいろな機材は全部売り払い、妻にプロポーズし受け入れられ、所帯を持ちました。

 

今思えば、これは私の「自己からの離脱」の第一歩だったのかな、と思います。

 

もし私が自分の「内面的・心理的自己」を第一にするなら、夢を追いかけ続けるという答えになったでしょう。あるいは、ひどい場合には「結婚し、妻を働かせておいて自分は夢を追う」なんてことになったかも知れません(実際そういう夫婦も見たことがあります。。。(汗))

 

しかし、内心では、かりそめにも相手に対して「愛」なんてことを口にするのなら、そんな選択は絶対ありえないというのもわかっていました。「愛とは自分を捨てること」と主任牧師が口を酸っぱくして教えてくれたし、イエス様がなぜ私たちを愛してくださっていると言えるのかと言えば、「彼が私達のために命を捨てて十字架にかかってくださった」から、その点だけは、幼い信仰ながら理解していたからです。

 

私は、「夢」という自己のアイデンティティの(結構大事な)一部をこうして喪失しました。しかし、今私は一人の女性の夫であり、子供たちの父親であり、教会の信徒たちにとっての兄弟であり、

 

その結果、それら周囲にいる「愛する他者」たちとの、網のように細かく張り巡らされた関係の一部となっています。それが自分のアイデンティティなのです。もちろん、その関係の上に立って全てを差配しておられるのが私達の主、イエス様であることも知っています。

 

なので、今だからこそ思うのですが、自己の内面を探求して得られるアイデンティティって、そんなに重大なものなのでしょうか?

 

こんな問いをしてしまうと、例えば自分の性的指向や性的自認について悩みに悩んだ末それを自分のアイデンティティとした方には、申し訳ないとは思います。

 

だけど性的な情熱のエネルギーというのはどっちにしても年をとったら衰えるし、性的自認についても、若いころと年を取って以降では変わってしまうことは往々にしてあるらしいのです。

 

しかし、信仰を持って神様の子となり、愛で結ばれた信者の群れの一部となったとき、人は自分が神の子であり、その神の「家族」の一員であるという不動の真理がそのアイデンティティとなるのです。そして、その「家族」のために自分に何ができるだろう、ということが次第に自分の関心の中心となっていくのです。

 

そんな群れを見つけるのは結構な難事業ということは知っています。


しかし、そこにしか「オルタナティブ」、すなわち、「現代の自己」に代わるもの、そしてその「現代の自己」から脱するための助けになるものはない、私はそう確信するのです。

 

ですので、私は祈ります。

 

天の父なる神様。どうか私達クリスチャンが愛を実践できるよう強めてください。そうすることで、私達があなたの弟子であることをこの世が見ることができますように。自分の内的・心理的アイデンティティが承認されることを求めて果てしない乾きを抱えたまま苦闘している人たちに、あなたの信者の群れを通じてあなたの愛が届きますように。求めていない人に届けたいとは言いません。しかし、何かを願っているはずなのに得られず、満たされないことを感じている人たちに、あなたの下では「違う生き方」が存在するということが伝わりますように。イエスキリストの御名を通してお祈りします。アーメン。

 

(終わり)