犠牲者精神が結ぶ大連合
ここでいよいよ著者はLGBT運動に目を向けます。
そもそも、LGBT運動とは一体何でしょうか。
もともと、ゲイとレズビアンはその性質も要望も全く異なるものでしたが、60年代の「ストーンウォール暴動」と80年代のHIV危機を通じて、「犠牲者」としての性的マイノリティの共通意識が称揚され、両者の連合が生まれたと言われています。
「ストーンウォール」によって、ゲイライツ運動は、権力に弾圧される犠牲者が立ち上がる革命的運動としての認識を得ました。
またHIV危機は、従来の、「いわゆる『性的逸脱』は倫理規範によって扱われるべきもの(そしてその行為による健康被害等については『自らが招いた』とされるもの)」という考えかたを後退させました。
同危機によって、ゲイの性的行為により健康被害が生じたなら「彼らは医療へのアクセスを不当に阻まれた『犠牲者』であって、速やかに適切な医学的措置を与えられるべき」とする考え方が支配的となったのです。
(これは、「婚外交渉に付随する問題はただ単に避妊と中絶技術で解決すればよく、倫理問題として扱われるべきものではもはやない」という現代の姿勢の延長線上にあります。)
とはいえ、フェミニズムの文脈下にあるレズビアン運動にとっては、本来LとGの差異は簡単には埋められないものでしたが、
女性が女性であるゆえの不利益や、ゲイと全く異なる性の在り方から来る違いを無理やり脇へ押しやる形で、「犠牲者性」に基づいて、「共通の敵である異性愛規範」を倒すための連合を形成したのです。
著者によれば、これはその後の、さらにTやQを加える発展への伏線となっています。
ブルースからケイトリンへ
さて、2015年に「カミングアウト」し2017年に性別適合手術を終えたケイトリン・ジェンナー氏(元ブルース・ジェンナー氏)は、いわゆるトランスジェンダリズムの象徴として注目を浴びました。
氏は、メディアの取材に「ブルースであった時は、自分は嘘を生きていた」と告白しましたが、トランスジェンダリズムは「内的・心理的自己」を真正な自己とするこれまでの思想の流れを極限まで推し進めたものです。
生物学的なものであろうと、あるいはそこから派生する社会規範であろうと、男女のバイナリーを規定するものは「真の自分を生きる」ことを阻害する要素として否定されます。
また、上述のHIV危機を契機とした思想のシフトは加速され、「性別を変えたい」という願望はもはや倫理の問題ではなく、また精神科医によって「治療」されるべきものでさえもなく、ただ単純にホルモン治療と外科技術により対処されるべきものとなりました。
しかし、LとGはシスジェンダーを前提とする「男女のバイナリー」を前提とし、Tはむしろこれらのバイナリーを破壊しようとするものです。
にもかかわらず、ストーンウォール運動にはドラアグクイーンが当初から参加していたといった事情に加え、フェミニズム運動が以前から「ジェンダーとセックス」の完全な分離を支持していたことや、
さらにはLとGの連合と同様に、「犠牲者性」という共通項を基にした「異性愛規範という敵を打倒する」という目標への熱意がこの加入を後押ししたのです。
(連合のために生物学的差異を度外視する姿勢は、既にLとGの連合の時点で始まっていた、と著者は指摘します。)
ところが、Tを迎えたLGBT運動は不安定なものになり始めます。
レズビアン=フェミニズム運動の一部からは、女性の身体性に関する歴史(すなわち、女性が女性の身体であるがゆえの、生理、妊娠出産といった負担や男性身体からの迫害を受けてきたこと)を忘れるべきではないという声が上がりはじめたのです。
(女性の身体で育ったことがなく、その不利益を一度も受けたことのない者が「女性を自認」したとして、そのための権利運動は「女性の権利運動」と言えるのか?)
しかし、運動の主流では「トランス女性は女性」というポジションはほぼ完全に受け入れられ、これによりLもまた不安定化しました。
(例:男性から女性にトランスした者が「レズビアン」を名乗り、女性との性的関係を望む。これはG、さらにはBも理論的には同様です。)
現状のところ、「トランス女性は女性」という命題を否定するフェミニストは、(「TERF」といった蔑称をつけられ)言論界で猛烈な罵倒の対象となっています。
この現象からは、これまでの思想の流れから、「自己とは『内的心理的』自己である」というポジションが、いかなる外的・客観的条件にも優先するようになってきたことが伺われます。
さらに加えて、トランスジェンダリズムのもう一つの余波が「家族の否定」です。
(マルクス主義から「全ての社会関係は政治である」とする精神を受け継ぐ)トランスジェンダリズムの立場からは、「子供が自分の性別に疑問を持った」場合に親がそれを否定するのは不当な「抑圧」であり、その場合は親の権利は却下されるのです。
ジョグジャカルタ原則
ここで憂慮すべきなのが、インドネシアのジョグジャカルタで「人権専門家」が会合し策定した「ジョグジャカルタ原則」です。
この原則では、性的指向は完全に本人の内面的・心理的な感覚に委ねられ、(それなら、幼児性愛もまた性的指向と認められるのか?)、辛うじて「当事者間の同意」のみが守られるべき規範として残されています。
さらには、性的少数者が「家族を持つ権利」を明記することで、またそのために「援助された生殖(代理母と精子提供にほかなりません)」の権利を定めることで、「家族を持つこと」はその実、「性的少数者の内的・心理的幸福感」に奉仕するための営為と見られていることを暗喩していると著者は見ています。
この原則は、移ろいやすい現代社会の感覚的嗜好に基づいて規定された「受け入れ可能な」性的活動の範囲に一時的に依拠しているにすぎません。何が受け入れ可能で何が受け入れ不可能なのか、その基準の枠組みが存在しないのです。
したがって、国が同原則にもし従うならば、この原則に内在する不安定性と同様、法の運用もまたきわめて恣意的で可塑的なものになる危険がある、と著者は警告します。
未来予想とクリスチャンの立場
これらをもとに著者は、未来予想としていくつかの事項を挙げます。
性的倫理については、現在「当事者間同意」という極めて危うい原則だけが存在していますが、そうであっても、異性婚規範が否定された以上、現在主流として認められない「近親婚」等を禁止する根拠は薄く、この問題がさらなる不安定化を招くのは確実です。
同性婚についても、議論が「愛」「幸福」といった感情的キーワードに左右され、これへの反対はEmotivismに基づき無条件に「(内心の)ビゴット」に動機づけられていると断定されてしまいますが、著者は冷静に「同性婚の法制化は無過失離婚から始まっていた」と分析しています。
一方トランスジェンダリズムについては、これにより親の権利が危機に晒される一方、過激なトランス主義への反対も起こりつつあります。MtF選手の女子スポーツへの参加による女性への不利益が明らかになり、またホルモン治療の副作用も未知数です。著者としては、親の意向で「トランス」させられた子供たちが、健康被害を理由に親を訴える訴訟が起きる可能性を指摘しています。
しかし、他方では宗教の自由は、今後も多方面から圧力を受けることになるだろうと著者は警告します。Emotivismの横溢により、「性的規範へのこだわりは不条理な嫌悪感の正当化に過ぎない」というナラティブが確立してしまっているからです。
そして著者は最後に、クリスチャンとしてどう考えるべきかを論じます。
著者としては、現状に嘆いても仕方がない、それはそれこそ自分の「内的・心理的」自己を一時的に癒す効果しかない、と冷徹に指摘しますが、
教会は、まず「感覚的な美しさ、好ましさ、心地よさ」にあまりにも偏った現代の潮流に自分たちが乗せられていないか点検する必要がある、と言います。つまり、この世の潮流に反対するとき、無意識に同じような手法を使ってしまうことを戒めているわけです。
そして、教会こそが、その門を叩く者に、現代的な「内的・心理的自己」とは異なる、自己を理解するための「枠組み」を提供すべきだというのです。
そして、聖書を基にした性倫理を明確に教え、また自らそれを実践しなければなりません。
(クリスチャン自ら「無過失離婚」を自らしてしまうようでは、LGBT運動への反対として体を成さない、とも言えます。)
興味深いことに、著者は現代の教会の状況を2世紀のローマ社会における教会になぞらえています。
当時教会は、ローマ皇帝の存在にも関わらずイエスを王とし、「肉を喰らい血を飲む(聖餐式の誤解)」怪しげな集団と見られていました。
現代の教会もまた、「内的・心理的自己」という絶対的権威に従わず、「人々を幸福から遠ざける悪徳」とされる規範にこだわる集団です。
しかし、なぜ2世紀の教会が成長したかと言えば、パンを裂き、祈りを共にし、イエスの教えを忠実に実践した信者たちが強いコミュニティーを形成し、保持したからです。この点を指摘し、著者はこの本を結んでいます。
個人的読後感
以前ご紹介したLive Not By Liesと同様、この本もまた非常に濃くボリュームのあるもので、読むのに骨が折れました(私の無学ゆえに、この投稿もまたあまりまとまりがなく要領を得なかったり、あるいは不十分なものになってしまったことはご容赦願います....)
しかし、この著者のアプローチに感銘を受けた点があります。それは、現代の「自己」の正体と、その形成の経緯を細かく見ていくことで、自分もまた、クリスチャンと名乗っていながら、その実「現代の自己」の在り方に影響されてしまっていないか、点検できるようになる、ということです。
「神はあなたの大きな夢を実現させて下さる」「祈れば金持ちになれる」といった、成熟した信者ならすぐ見破れるような陳腐なフレーズはもちろんのことですが、現代のキリスト教界は聖書の教えなのか自己実現のモチベ―ショナルスピーカーなのか区別がつかない事例が溢れています。
「現代人はなぜ『自己』というものをこうとらえるのか」.....一見小難しい哲学問答ですが、やはり著者自身がクリスチャンだけあって、この本には教会を強める有益な知見に溢れていると私ブログ主は思います。
パート4に続きます。