パート1の続きです。

 

「どっちもどっち」論の陥穽

 

ところで、今回のハマスによる大規模攻撃に対しイスラエルは即座にガザへの空爆を行うとともに、こちらも未曾有のスケールの地上侵攻作戦を実施すべく準備に入っていると報じられています。

 

これに対し、SNS上では日本人の(クリスチャンもノンクリスチャンも含め)アカウントからは

 

「ハマスは酷いが(空爆などをする)イスラエルも酷いことをする」「どっちもどっち」

 

的な論を開陳する人もおり、左向きの界隈ならともかく、いわゆる政治的に比較的保守な人たちの中でさえもこういった議論をする人はかなり多いという印象を受けました。

 

こういうのを見ると、日本ならではというか、長らく四方の海と日米安保に保護され、骨の髄まで平和に慣れ切ったがゆえの感想なのかな、と思ってしまいます。

 

イスラエルにとって今後絶対にやるべきなのは、人質を救出するのと同時に、ハマス側の軍事アセットを「粉々に破壊する」ことです。

 

それを今しなければ、確実にまた「次の惨劇」がやってきます。それも近い時期に。

 

今でも記憶している人がどれくらいいるかわかりませんが、今を去ること9年前の2014年、イスラエルはハマスによる4,000発に及ぶミサイル攻撃に対し、Operation Protective Edgeという侵攻作戦を発動させました。

 

これによりイスラエルは国際的な非難を受けたものの、ハマス側はその所有する資源そのものが失われたので、その後しばらくは攻撃をする力がありませんでした。

 

「報復攻撃」などとニュースで聞くと、ただ怒りに任せてムチャクチャに爆撃しているような印象を受けますが、実際は全然違います。

 

イスラエル空軍のピンポイント爆撃は驚くべき精度であるのに加え、

 

爆撃に先立って「退去を促す連絡」を入れるという念の入れようです。

 

先日ガザ市民に取材していたあるテレビ番組を見ましたが、その中でパレスチナ人の女性が「爆撃するから退去しろって連絡が来たけど、たった15分でどこへ行けっていうの?」と怒っていました。

 

それは確かに気の毒です。しかし、ここにはもっと構造的な問題があります。

 

もう昔から知られていたことですが、ハマスは武器の集積所などのインフラを「病院」「学校」その他、一般市民や病人、子供などが集まる場所に「意図的に」置いています。

 

そうして、イスラエル軍の空爆で犠牲者が出たら「それ見たことか」とメディアにアピールするためです。

 

↑拙ブログの過去記事です..興味のある方はどうぞ

 

言ってみれば、こういった市民もハマスの戦術の犠牲者なのですが、

 

それでも、これを聞くと「ではハマスは『これからどこどこの村を襲撃する。死にたくなければ15分で退去せよ』と一度でも警告したことはあったのか?」という言葉がこちらとしては喉元まで出かかってきてしまいます。

 

ともあれ、イスラエルはそもそも「自分たちの絶滅を狙う集団が周囲にいるという状況でどう生き延びるか?」を常に意識している国です。


それに対しハマスは「ハマス憲章」の中で「ユダヤ人を殺すことを呼び掛ける」ハディース(預言者ムハンマドの言行録でイスラムではコーランに次ぐ権威)を引用しています。それも散発的な攻撃ではなく、「審判の時が来る前にユダ人を一掃し世界を清めなければならない」という、要するに民族絶滅を期した内容です。

 

↑他の過去記事。

 

想像してみてください。例えばの話ですが、北朝鮮の憲法に「我々は誰でも日本人を見かけたら殺さねばならない。日本人を世界から一層しなければならない」とか明記されていたらどうします?

 

ともあれ、ハマスに軍事的な資源と資材がある限り、何度でもテロ攻撃を仕掛けてくるのは明白です。いままでもそうでしたしこれからもそうでしょう。

 

それに対し、イスラエルは歴史的に何回も「民族絶滅を期した」攻撃を受けてきました。繰り返しになりますがこれは旧約聖書にさかのぼると同時に、近代ではホロコースト。彼らは自分たちを脅迫をしてくる諸勢力が本当に、本当にガチで「民族絶滅」を目指しているということを身に染みて知っています。だからそれを防ぐため必要な行動をしています。

 

だから、「どっちもどっち論」に傾く人の議論に接するにつけ、私はモヤモヤしてしまうというか、「このひとたち、本当に自分の言ってることわかって発信してるのかな?」と疑問を感じてしまうのです。あまり日本人の悪口は言いたくないのですが.......

 

「平和でなければ成立しない信仰生活」

 

私は最近、いのちいのことば社のムック「百万人の福音」の特集で、「争いを引き起こすのは誰か」という記事を読みました。その中で星出卓也さんという牧師さんが、明治から第二次世界大戦前にかけての日本がどのようにして軍国主義体制を構築してきたかを詳細に論じておられました。

 

 

この記事、戦前の歴史について私も知らなかったような、勉強になる内容が多く、リベラル進歩主義のような異端的なことを言っているわけでもなく、また、以前批判させていただいた木村公一牧師や岩村義男牧師のような「日本人への怨念」がにじみ出るようなものではない、あくまで真摯な記事ではありました。

 

.........ったのですが、それでも読後心に溜まったモヤモヤが晴れない、そんな特集でした。

 

読んで1-2か月ほどたち、私はハッと気づいたことがあります。

 

この特集の中でひときわ強い印象に残ったのは「今この世での、地上での(物理的)平和を保持するため」、ほぼその目的だけのために祈ったりあるいは政治的働きかけをする、そのことばかりに焦点が置かれているように見えたことです。

 

この星出牧師さんへの悪口のように見えてしまうのは本意ではないのですが、

 

何か、「国が平和である(戦争状態でない)ことが信仰生活の前提」のように見えてしまいます。


このような信仰を持つ人たちは、

 

ひとたびこの日本の「平和」が崩壊し、例えば北朝鮮のミサイルが着弾して数千人の死者が出るとか、

 

中国軍が台湾に侵攻し周辺海域が閉鎖されることで日本が「兵糧攻め」に遭うとか、

 

そういった事態が発生したら一体どう行動するのだろう?と気になってしまうのです。

 

(またそうでなくとも、私はこういった星出牧師さんのような方が、今回のハマスの蛮行とそれに対するイスラエルの対応についてどのような考えを持っておられるか、強い関心のあるところです。)

 

「平和絶対主義」

 

日本が長年平和だったことはもちろん良いことですし、私はそういう時代に生まれたことを神に感謝しなければならないと思っています。

 

ただ、その長く続いた平和がゆえに、この日本社会においては、奇妙な「平和絶対主義」というか、ヘタすると「平和原理主義」?のようなメンタリティが横溢しているように感じられてしまいます。

 

それが「どっちもどっち」「ハマスも酷いがイスラエルも酷い」といった、今回のテロ事件への「ピンボケ」した反応に現れている気がするのです。

 

少し話は飛躍しますが、たとえ話でこのことを考えてみます。

 

ある学校で継続的ないじめが起きており、被害児童が耐えかねて加害児童を殴ってしまったとします。

 

そうなると、学校側としては典型的にはその生徒に「だめじゃないか」と指導すると思われますが、

 

実はこういったケースでは、何よりもまずいじめの発生に対して学校側が把握していなかったり無視していたこと、そして加害生徒を懲罰していなかったこと、が真の問題です。

 

ちなみに、私はポーランド人の知り合いから聞いて驚いたのですが、ポーランドの学校ではいじめが発生しそれが学校側に訴えたられたら「即座に」教師が動き、加害生徒をクラス全員の前で謝罪させるのだそうです。その人のお子さんも、東洋人の血を引く容姿のため当初はいじめやからかいの対象となったものの、そういった対策によりやがてそれらの行為も収まっていったとのこと。

 

(注:このブログを読んでくださっている方で、まさか「イスラエルがパレスチナ人を長年虐めていたからパレスチナ人が殴り返しただけじゃないか!」などと左向きの主張する方はいないと思いますが、念のため申し添えると、ハマスはむしろ「自分が虐められたことを口実に、相手の近所に住んでいたりただ通りすがっただけの老人、女性、子供を含む一般人に目をつけたうえ、これを誘拐したりサディスティックな方法で危害を加えている」という嗜虐趣味の異常者に近いので、上記のたとえには当てはまりません。)

 

私は子供たちが日本の学校にお世話になっていますからあまり批判はしたくないのですが、こういった事象への対応については、ハッキリ申し上げて十分行われているとは感じられません。

 

こういった日本における学校のいじめ問題と、それへの一種奇妙な対応の象徴的な例が、あの北海道旭川で発生した女子中学生いじめ自殺事件とそれへの学校側の対応だと私は思います。

 

この事件において、学校側は被害児童の保護者に対し「加害者にも未来がある」などと申し向け、自らの無作為を正当化したと報じられています。

 

この事件は極端な例かも知れません。が、私自身の体験(N-1ですが..)からは、学校の先生がクラスでいじめ、暴力などの加害を行う生徒に厳しい懲戒を加えたという話は、ごくごくわずかな例しか聞きません。もう10数年保護者やってますが......。

 

逆に「放置」「黙認」、あるいは良くても「当該生徒にねんごろに言い聞かせる」(そして当然ながら加害行為は収まらない)という場合がほとんど。

 

この背景にあるものはいったいなんだろうと私は常々思っていましたが、一つ可能性があるのは「行き過ぎた平和主義」です。

 

「平和絶対主義」というか「平和原理主義」というか。(まあ俗な言い方をすれば「ことなかれ主義」という表現で足りるかも知れませんが。)

 

日本人は「平和と水はタダだと思っている」などと揶揄されることもあります。

 

しかし、それがゆえなのか、見せかけ上・表面上の平和を守るためなら、誰がどんな目に遭っていても目を瞑る、あるいは命や尊厳を犠牲にしても意に介さない、そんなメンタリティが見え隠れするのです。

 

学校で普段はいじめを見過ごしつつ、加害生徒が被害を訴えても耳を貸さない、こういった風潮と、

 

ハマスの行為に対応して即座に相手を叩こうとするイスラエルの対応を「どっちもどっち」「イスラエルも酷い」などと言い向けて物事を有耶無耶にする風潮の間に、なにか共通するものを感じてしまう私は深読みしすぎでしょうか?

 

識者たちの奇妙すぎる「正義なき免責」

 

この、奇妙な「平和絶対主義」あるいは「平和原理主義」のようなものを考えていくのに、もう一つ検討に値する、興味深い風潮があります。

 

よく「Yes, But」論法などと言われますが、最近「ハマスの蛮行は許されない。『だが...』」などと続けて、イスラエル叩きの「ためにする」議論を展開する人も多く見られます。

 

こういった議論では、論者の口から「ハマスの蛮行は許されない」という言葉が漏れ出た瞬間、

 

まるで彼の頭の中ではまさにその蛮行が綺麗さっぱり「免責」され、

 

「水に流され」あるいはまるで「最初から発生しなかったか」のように扱われるのが通例です。

 

そして、対応するイスラエルの手段のみがあれこれと俎上にあがる一方で、

 

そのような人の口から「ハマスを今後二度とテロが出来ないようにするにはどうしたらいいか」の具体案が出てくることはまずありません。

 

なので、このような(彼らの頭の中で起きているであろう)「奇妙な免責」は私の言いがかりでもなんでもなく、事実だと思います。

 

このような論者は、きっとイスラエルがどんな対応をしようと、わずかでもそこに実力行使が含まれる場合は必ず文句が出てくるのでしょうが、

 

仮にこういう人たちを満足させるため、テロ被害者側であるイスラエルが何の実力行使もせず、ハマスに対して懇ろに対話を呼びかけ続けることにしたらどうでしょうか?

 

ハマスの側はテロやり放題です。しかし、まあ軍事行使が起きなければ、マスコミにより報じられることもなく、日本側から眺めた「表層的」な風景はいまより「よほど平和」でしょう。

 

で、イ国の市民は(少しづつですが確実に)殺され続け、そうでなくても常にガザからのロケット弾飛来に怯え続けるでしょうが、日本の論壇を成す識者さんたちの頭の中は、何しろ「戦争」が起きていないから、よほど気が楽、「ヘイワ」で安心安心というわけです。

 

なんだかこれを想像すると、どうしてもこれら論者の姿勢と、

 

上述の「日本の学校の対応」とが相似形に見えてしまうのです。

 

ここで求められている平和って、「一方当事者がどれだけ殴られても(実質的には)何もしない」ということでのみ成り立つ平和ですよね。

 

つまり、ありていに言って「正義なき平和」ですよね。でもこれって本当に「平和」なのでしょうか?

 

「平和国家ニッポン」が見えなくしているもの


 上で論じてきたような「平和絶対主義」「平和原理主義」を、「平和ボケ」とか「ことなかれ主義」で簡潔に言い表すことは可能かも知れません。

しかし、私としては、その奥にもっともっと根深い、「霊的問題」があると感じています。

それは、「『悪』というものの存在を直視しない」「『悪』を見定め、これに厳しく対処する必要を認めない」という霊的な盲目です。

 

もしかすると、日本という国の歴史的経緯と文化的構造に踏み入り、これを西洋と対比して検討するならば、

 

十戒といった「絶対基準」を(完全な順守はできなかったにせよ)根底に置いていたジュデオクリスチャンベースの西洋世界では、何が善で何が悪かという意識は日本人より持ちやすかったのかも知れません。

 

(まあ今のポスト・クリスチャンの西洋世界においては「ポリコレ」「ソーシャルジャスティス」「アンティレイシズム」といったものが十戒に代わる「絶対基準」になってしまったという、これまた別の困った問題も観察されますが..................)

 

それに対し、日本人の伝統的な宗教システムでは聖書ほど明確な善悪の基準は提示されていませんし、

 

何か善悪基準らしきものがあるにせよ、それはどちらかといえば「世間様」とか「ご先祖」とかいったものの前にのみ問題になるもので、

 

「天地を創造した神の前にあっての罪」といった概念が理解されていない以上、こういった、「悪」に対する「曖昧模糊・有耶無耶」な処理が行われてしまうのは、仕方のない帰結なのかも知れません。

 

ともあれ、私としては、ノンクリスチャンの日本人ならいざ知らず、

 

聖書を知っているはずのクリスチャンの日本人さえもがこのような風潮に巻き込まれてしまっているとしたら、もどかしくて黙って観ていることができません。

 

しかし、まさにこの東洋的善悪相対主義のようなものの残滓が、いまや「平和ニッポン」でのみでしか通用しない、ピンボケした、「悪」を見定める必要のない(そしてこの世界の本当の霊的現実からはかけ離れた)「平和原理主義」的キリスト教信仰へと日本人クリスチャンをいざなっていると思えてならないのです。

 

パート3に続きます。