未曾有の同時多発テロ攻撃
去る10/7、イスラエルのガザ地区を実効支配するイスラム過激主義勢力「ハマス」が、イスラエルに対して未曾有の規模のテロ攻撃を開始しました。
(いろいろと問題の囁かれるクリスチャントゥデイですが、結局この手の報道は国内クリスチャン系メディアではここが随一です。クリスチャン新聞も一応報道はしてくれていますが、キリ新・クリプレなんかはウェブサイト上では触れてもいない...)
詳細は引用記事に記載されていますが、過去ハマスはイスラエルに対し何度もテロ攻撃を仕掛けてきたものの、ここまで大規模、広範囲で統率のとれた攻撃は私の記憶する限り今回が初めてです。
他の(主に海外)メディアをあたっても、その内容としては、
・「戦闘員が陸・海・空からイスラエルに侵入する(バイクにプロペラとパラグライダーを取り付けたいわゆる「モーターグライダー」も使用された模様)」
・「ガザ地区を囲む壁の要所に設けられた検問所を何か所か集中攻撃し制圧」→「その後爆発物で壁そのものを撃破」
など、戦略的・戦術的にもこれまでとは一線を画した高度なもので、これらが数千発のロケット弾攻撃と同時進行で行われたようです。
しかし、今回際立ったのは何と言ってもその残虐性です。
(ここから書くことは読むだけでムカムカする内容なので、体調の悪い方は読まないでください。)
ガザ地区近くでは当時「イスラエル・パレスチナの平和を願う音楽フェス」が開催されており、その出席者がハマス戦闘員の襲撃に遭い200名以上が殺害されました。また、ひとたびイスラエルに侵入したハマス戦闘員たちは、住居を一軒一軒巡回しては次々と市民たちを殺害。さらには女性・お年寄り・子供たちなどを人質として多数ガザ地区に連れ去りました。
しかも、それらの蛮行の動画が(パレスチナ側自身の手によって)SNS上で公開されるに至りました。手を後ろ手に縛られた人たちがハマス戦闘員に無理やり連れ去れる情景に加え、女性が殺害され服を脱がされたご遺体の両腕両足がヘシ曲げられ、車両の上に載せられ見世物にされている、といった見るに堪えないものも今ネット上に回っています。
加えて、(おそらくは生きたまま)火をかけられ炭化するまで焼けこげにされた犠牲者たちの遺体や、さらには頭部が切断された子供たちの体までも発見されています。(リンクは貼りません。どうしても確認したい方はご自分で検索してください.....)
これらの、およそ人間業とは思えない残虐な所業に接した際の反応はさまざまでしょうが、
私自身は激しい憤りを覚え、もしできるなら志願してハマスと戦いたい、という考えさえ一瞬浮かびました(もちろんIDFは外国人なんか雇いませんし、私みたいなポンコツが役に立てるとも思えませんが)。
しかし同時に、私は何か、神様によって頭から冷水を浴びせかけられたような、
まるで、ともすればこの世の心配ごとに埋もれがちな自分に対して、喝を入れられたような、そんな感覚を覚えてもいます。
多くの人たちは(サヨク・リベラルの界隈は除いて.....)、このハマスの蛮行に怒りや嫌悪感を抱いておられると思います。
私もそうです。しかし、私は同時に、これが、日本という国に居ては見えにくい「霊的現実」なのではないか、とも感じているのです。
戦争の作法:旧約時代vs.現代
テレビを見ていると、イスラエルに詳しいと肩書にあるコメンテーターさんが、「なぜハマスが一般市民にこんな残虐なことをしたのかわからない」としきりに首をかしげておられました。「専門家なのに、しっかりして頂戴よ!」と一瞬呆れそうになりましたが、私は、ああそうか、これは仕方ないな、となかば納得しました。
というのも、このような光景は初めてではなかったからです。
2015年、イスラム国によって日本人ジャーナリスト後藤健二さんと、その知人湯川遥菜さんが処刑され、またイスラム国の蛮行(敵パイロットを檻に入れて焼く、捕虜にした女性を市場で売買する、等)が報道により明らかになったときもそうでした。
日本人の反応は「なんで?」「どうして?」といったものしかなく、その中でわずかに飯山陽さんといったイスラムの専門家がその背景となるイスラムの思想を解説してくれるのみ。
(しかもそういった現実的解説をしてくれる専門家もごく少数派で、主流派・有名どころのセンセたちは「イスラムは平和のシューキョー」というおなじみの経文を唱え.........。)
「なぜ彼らはそんなことをするのか?まったく理解できない」
戦後日本に生まれ、生きている日本人としては当然の感想です。
(そして、左巻きの人たちはそれを頭の中で勝手に「●●の占領政策が悪い」「サベツが悪い」「貧困が悪い」と結論付けて終わりにしてしまいます。)
また、「わからない」で済ませておいたほうが、心が楽、ということもあるかも知れません。
世の中にそんな蛮行を是とする思想があるという事実を知ったり、その思想の体系の一端を垣間見るといった行為は、それ自体が「闇をのぞき込むような」恐ろしさを伴うものだからです。
そういった思想は自分たちの依って立つ(そして当然視している)文明的秩序や前提を根底から揺るがしてしまいかねないからです。
しかし、私自身は、そこから目を背けてはいけない、と個人的に強く思っています。
なぜなら、これこそが「霊的現実」だと思うからです。
「戦争状態にあっても非戦闘員を意図的に攻撃することはしない」
「敵地にあっても相手方の非戦闘員、ことに女性、お年寄り、子供を手荒に扱わない」
こういったプロトコルが国際紛争で採用され、完全に順守することは難しいにせよ、これが押し頂かれるようになったのはそれほど昔のことではありません。しかし、ユダヤ―キリスト教文明のうえでは、人はだれしも神の姿に似せて造られたものであり、罪のない者の血を流すのは忌むべきこととされてきましたから、こういったプロトコルが成立するのは当然の成り行きと言えたでしょう。
最近のロシアによるウクライナ侵攻ではこれがロシア側において全く守られていないことが露呈しましたが、それでもロシア軍は(少なくとも建前上は)女性を誘拐したり遺体を冒涜することなどを高らかに誇示したりはしていません。
それに対して、ハマス、およびそれに賛同するパレスチナ人たちはわざわざその動画を自ら拡散しています。つまり、「自らの闘争のあるべき姿」、あるいはイスラエルに対する戦争の「作法」としてこれらの行為を認めているということです。
また、北米や英国など世界各地に散らばった在外パレスチナ人の間では、この攻撃を機にパレスチナ支持のデモが行われたり、
果てはその成功を「祝って」街頭でキャンディを配る人たちまで出てきているということです。
日本人の間では、例えどんなに左巻きでも、
「今回のハマスの残虐行為は許しがたい。だが日頃のイスラエルのガザに対する仕打ちが酷いので、ハマスがここまでのことをするまで怒ってしまうのもやむを得ない面もある」
といったことをしたり顔で述べるのがせいぜいですが、
現実問題として、イスラエル人だけでなく、全く無関係の滞在者、たとえばタイ人などもハマスに処刑されており、さらには人種的にはパレスチナ人と同じアラブ系イスラエル市民の犠牲者さえ出たという情報もあります。
これを、「イスラエルの圧政が~」で片付けるのは到底無理があり、
やはりハマス側、およびそれを支持しているパレスチナ人たちには、私たち日本人には想像もつかないメンタリティが存在していると結論せざるを得ません。
戦闘員である敵兵士どころか、非戦闘員の一般市民、女性、老人、子供を無差別に殺害、
いや、むしろ積極的にこれらの弱く抵抗力のない標的を選んで、誘拐したり、あるいは惨たらしい方法で処刑したりする。
かつてイスラム国が行って世界に衝撃を与えた蛮行に類似したこれらのやり口を見て、
IDF高官が漏らした、イスラエルは「動物のような人間」と戦っている、という認識に同意してしまう人もいるでしょう。
(個人の感情としては深く共感します。)
ただ、私自身としてはそれより、これらの行為を見るにつけ、
現代社会に突如として「旧約聖書的な世界」が出現した、という印象のほうが強いです。
よくSF映画やアニメなどでありますが、いま私たちが生きている時空間に突然大きな亀裂が走り、
全く別の「並行世界」の光景や、そこの住人たちが顔を覗かせる、そんな感じです。
7世紀を固着させた教典
いま私は「旧約聖書的な世界」と申し上げましたが、
ハマス、そしてそれに先行した類似例であるイスラム国の行為について厳密なことを言えば、
これらはイスラムの聖典であるコーランに根拠を求める、と言ったほうが正確な物言いかも知れません。
「敵の首を切り落とせ」といった教えは「敵の心に恐怖を叩き込め」という戦訓とともにコーランの文言に含まれており、
また敵方の女性を戦争捕虜として自らの奴隷とすることもコーランは許可しています。
そして、コーランをベースとするイスラム法の解釈においては、キリスト教界でよくリベラルがやるような「ここにこう書いてあるのは、本当はこういう意味(あるいは、文字通りの意味ではない)」といった議論をしてしまうと、
最悪「冒涜」と見なされ命に関わるので(コーランの冒涜は死刑が基本)、
あえてそういった解釈学を展開する人もなく、
その結果、コーランを忠実に実行しようとすればするほどイスラム国のように残虐になり、
また「穏健派」がイスラム国を「異端認定」して退けようにも、その理論的材料が乏しいという現実があります。
(彼らはコーランをないがしろにしているのではなく、むしろ文字通り遵守し実行しているからです。)
コーランというものは旧約聖書どころか新約聖書成立から数世紀も後に書かれたものなのですが、
おおざっぱな議論との謗りを承知で言うと、
西暦7世紀ごろの戦争の「作法」、すなわち敵の心に最大限の「恐怖」を叩き込む、そのために首を切り落とす、女性を誘拐する、といったことが、コーランという不可侵の聖典の成立によって「固着」されたがために、
これらの勢力においては未だに千数百年前の戦争のやり方が使われている、とも言えるでしょう。
また、私は塩野七生さんの著書を読んでいて驚いたのですが、
十字軍の当時、イスラム勢力側は「捕虜の全身の生皮を剥いで城壁に吊り下げる」といったことをしていたのに対して、
キリスト教国側では、騎士団と教皇配下の兵士との間で、「恥辱を与えるためイスラム勢力捕虜の髭を剃り落とすのは是が非か」という論争があったそうです。
つまり、もうそんな時代から、ジュデオクリスチャン的な「戦争中の敵にも人間の尊厳がある」とする概念が萌芽していたわけです。
従って、私としては、敵方に対しても一定の自制を行うという価値観の採用は(日本の武士道といった例外はあるにせよ)おおむねキリスト教の出現と広がりに起因するものと考えられるので、
そのような自制を一切行わない、イスラム国やハマスのような戦いのあり方を、やはり「旧約聖書的」と呼びたくなってしまうのです。
(これは旧約聖書がそのような戦いを奨励しているという意味ではなく、新約聖書を基盤とするキリスト教がグローバルに広がる前において支配的であった規範や世界観という意味です。)
「ペルシャの君」
ところで、今回の大規模テロ攻撃についてはイランがスポンサーであるというのは半ば周知のこととなっているようです(イランは直接の関与を認めていませんが、ハマスがイランから武器と訓練といった支援を受けてきていたことは確実です)。
ことの背景には、スンニ派アラブ諸国とイスラエルとの関係改善による自らの孤立化を嫌ったイランが、1)ハマスを焚きつけることで大規模テロを起こし、そこで2)メディアにイスラエルの報復攻撃を報じさせることで同国の立場を悪化させ、3)これによりスンニ派諸国とイ国の関係を分断する、という目的があったという見立てがあります。
しかし、このイランによるイスラエルへの憎悪というのは以前からそれこそ説明の難しいほど異常なもので、「イスラエルに死を」はほとんど彼らにとって国是のようなものになってしまっているようです。
聖書の視点から言うと、実はイランの前身であるペルシャ帝国の支配者というのは代々ユダヤ人に友好的でした。エズラ・ネヘミヤを読むとペルシャの王はエルサレム再建を許可したり再建事業に援助を与えるよう命じたりしています。
このイランがイスラエルに向けての激しい憎悪を掲げるに至った経緯は、やはり1970年代末に起こったイラン・イスラム革命に端を発するとしか考えられません。(それまで元首だったパーレビ王はイスラエルに融和的だったようです)。
実は、旧約聖書ダニエル書の10章には、「ペルシャの君」という言葉が出てきます。
これは字面だけを取るとprince、王子、あるいは高貴な身分の誰か、ということになりそうですが、文脈から言うと明らかに「霊的存在」です。ダニエルに現れて終わりの日の幻を告げた存在(ヤハウェあるいはイエスの旧約における顕現)そして大天使ミカエルと対峙することのできるほどの力があるということは、普通の肉体を持った人間ではありえないということです。
Moriel Ministries を主宰するJacob Prasch 師の解釈では、これは特定の地域を支配する霊的存在、もっと言えば悪霊ということなのですが、
驚くべきは、ダニエルの時代から、エズラ・ネヘミヤ、さらにはその後の長きにわたってペルシャの支配者がユダヤ人・イスラエルに向けて牙を剥いたことなどないのに、
ダニエル書の預言の内容には終わりの時代にそのようなことが起こるとハッキリ書いてあるのです。(それを聞いたダニエルは心底驚き色を失ったことでしょう。)
いったい聖書預言というものは本当に不気味というか恐ろしいもので、
それが書かれた当時には何の意味もなさなかったようなことが、往々にして後の世になって誰にも言い訳できないような形で現実になっているのです。
私たちの文明世界とは一体何か
私たちは、たとえクリスチャンであったとしても、旧約聖書を読んだとき「ゲッ昔の人はこんなに野蛮だったのか」とか、「ああこの時代に生まれなくてよかった」とかいった感想を抱き、「遠い昔の話」「今の我々には関係ない」と心の中で片付けてしまい勝ちです。
しかし、私はそうは考えません。
私は今回のハマスの蛮行と、それを支持、あるいは何やかや理由をつけて容認しようとする人たちを見るにつけ、旧約聖書こそ人間の真の姿を隠すことなく描写している、と確信するに至りました。
詩編83:4にこうあります。
「 彼らは言っています。『さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。』」
これは、古い世界の遺物のような言葉でもなんでもなく、今現在、ハマス、そしてそれを支援するイランがまさに唱えていることです!
またゼカリヤ書14章には、最後の戦いでエルサレムが攻められるとき「町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く」とあります。
これも、まさにイスラム国やハマスが機会と資源さえあれば実行したいと切に願っていることではないですか?
実は、新約聖書の一部にも、注意深く読むとまるで「旧約聖書然」とした描写があります。それは黙示録です。
黙示録11章には「二人の証人」が預言したあと反キリストに殺され、その死体はエルサレムで晒しものにされるとあり、また「地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う」と描写されています。
今回のハマスの攻撃に伴い、誘拐された女性が服をはぎ取られ腕と足をへし折られた上そのご遺体が車の上で晒しものにされているという動画が出回り、
また前述したように欧米各地のパレスチナ移民およびその支持者たちの間で「攻撃を祝ってキャンディを配る」人々まで出てきています。
これもまさに、聖書における生々しく描写とよく近似しています。
私は今回のハマス攻撃で「現代社会に突如として『旧約聖書的な世界』が出現した」と述べましたが、
こうして注意深く見ると、新約聖書もまた「(福音の広がりによって)旧約聖書的な人間のあり方が消滅する」といった前提は少しも持っていないことがわかります。
むしろ、新約聖書もまた極めてグラフィックなかたちでもって、そういった醜い人間の行為が復活してくることを示唆しているわけです。
そうすると、私は、現代日本人が当然視しているこの文明・規範・秩序といったものはいったい何なのだろうか?と自問せざるを得ません。
そして、今回の事件のような凄惨な光景に接するにつけ、私たち先進国住まいのクリスチャンは何か重要なことを見落としているのではないか、と強く内省を迫られているような気がしてならないのです。
大天使ミカエルとサタンの戦い、サタンの狙い
先ほど引用したダニエル書の預言に登場する大天使ミカエルは、実は黙示録にも登場します。
「天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」(12:8-7)
もしも天使たちまでも動員されるような大規模な霊的戦いが起こったら、この地上に影響を及ぼさないはずはありません。
また、ダニエル書にはミカエルが「あなたがたの君」と書かれているとおり、イスラエル・ユダヤ人のために置かれた御使いであることがわかりますが、
これらの戦いは主に「ユダヤ人を巡る戦い」であることがわかります。いや、もっとありていに言えば「ユダヤ人滅亡を狙った」サタンの飽くなき試みです。
思えば、出エジプト記から、エステル記、またinter-testimental periodであるマカバイ家の反乱を引き起こしたアンティオコス・エピファネスによるユダヤ人弾圧、加えて近代におけるホロコーストに至るまで、イスラエルを民族ごと滅ぼそうとする試みは歴史上何度も何度も繰り返されてきました。サタンは常にユダヤ人を滅ぼすことを狙っており、その情景は黙示録にも登場します(したがって近い未来にもう一度繰り返されます)。
イエスの初臨前においては、救い主はユダヤ人の中から生まれることがわかっていたがゆえにサタンはユダヤ人を狙いました。
そして、イエスの初臨・十字架・復活が成し遂げられた今、サタンの狙いはイエスの再臨前にユダヤ人を根絶やしにしてしまうことです。マタイ23:39に、「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしをみることはありません。」とあり、ユダヤ人が集合的に回心してイエスを呼び求めるまでは決して再臨は起きないからです。
ですから、私たちは今回世の終わりに来るべき情景の「予告編」を見せられたと考えて間違いないと私は考えています。