門前町明神社の境内には3つの石碑が立てられています。
1つは播隆上人名号伝説を伝える碑。
もう二つは、いろは茶屋犠牲者供養碑と鼠小僧治郎吉の墓と伝えられる碑です。
今回はいろは茶屋にまつわるお話をいたします。
〜いろは茶屋〜
元は、旧手力雄神社境内入会地(旧岐阜高等農林学校 現学びの森)に古井戸があり小さな塚と共に立っていたと伝わります。
江戸時代は文化・文政の頃まで、各務原を通る街道中山道は東の鵜沼宿から西の新加納宿まで見渡す限りの草野原で中山道で寂しい難所の一つであったようです。
この草野原にかまえた「いろは茶屋」は、旅行く人に一夜の宿を貸すこともあったそうです。
旅人にとっては幸いの宿でしたがその正体は、旅人から身ぐるみ剥ぎ取り殺害し、一夜明ければその屍を床下の井戸に葬る、鬼の源助の営む旅宿であったようです。
ある時、お初という娘がこの宿に泊まります。時同じくしてお初の懐中物に目をつけた男がいろは茶屋に入り込みます。
夜が更けるにつれ落ち着かないお初は一人の男に心の騒ぎを伝えます。
お初の懐中物に目をつけて宿に入った鼠小僧次郎吉でしたが、お初の話しを聞き、互いの部屋を代えて寝につきます。
知る由もない亭主は、よき獲物として娘の部屋に太刀を忍ばせ襖を開けて忍び入ります。
かかることもあろうかと備えていた治郎吉は、源助が太刀を下す間も与えず組伏せて一刺して成敗しました。
後に残ったのは、恐ろしい往時を物語る古井戸と宿に咲く桜のみとなりました。
桜が咲き御霊を鎮めてきましたが、悪人滅びても、井戸中の死者の魂魄は猶消えることなく夜な夜な迷い出たと言われます。
遂には、寛政5年に無縁の御霊を弔うために、このいろは茶屋の建物跡と井戸に並べて石碑を立て供養したといいます。
鼠小僧次郎吉の功績はいろは茶屋と共に伝えられ、寛政年間次郎吉が処刑されるとその遺徳を偲んで墓石が建てられたと伝わり、今日では境内にひっそりと佇みます。
(那加町史より)
地域には、土地と共に先人が歩んだ歴史がたくさんあります。
大切に伝えていきたいです。
禰宜



