Adieu Romantoque No.540『セルジュ・ゲンスブールのように Ⅱ 』 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

 
 

                   Adieu Romantique No.540

     『セルジュ・ゲンスブールのように Ⅱ 

 

前回の続き。作詞・作曲家であり、歌手、映画監督、俳優、作家、ジタン(煙草)愛好者であり、アルコール愛好者。さらに女性愛好者でもあり、ロリータ・コンプレックを持ち、挑発的で諧謔の人で。決してイケメンではないのに、その人生において、数多くの美しく魅力的な女性たちを愛し、そして愛されてきた男、セルジュ・ゲンスブール 【Serge Gainsbourg】(1928~1991)のこと。

📷️無精髭に煙草、ルーズなファッションがとても似合う男、ゲンスブール。
 
🎨ゲンスブールはもともとは画家になる夢を持っていた。ピカソサルヴァドール・ダリの影響を受けながら。さらには晩年のインタビューで「あなたにとっての絵画とは?」という質問に対してゲンスブールはこう答えている。「フランシス・ベーコン !。そのフランシス・ベーコン【Francis Bacon】(1909~1992)の作品をいくつか。
 
🎨ゲンスブールの肖像画にさえ見えるベーコンの作品。ゲンスブールはベーコンの作品の奥深くに自分自身を見ていたのかも知れないなうーん
 

セルジュ・ゲンスブールのように…

僕もそうじゃない。

 

前回では、ゲンスブールがボリス・ヴィアンに憧れて曲を書き、自ら歌を歌うようになったところから始めて、さまざまな恋愛を挟みながら、フランス・ギャルに対して自分自身が遊びながら、挑発的でオリジナリティの高い曲を提供するようになり、音楽家として頭角を現すようになる1960年代半ば頃までの話を書いた。

 

それから先のこと。セルジュ・ゲンスブールに対する、複雑な愛を込めて。

 

ドキドキ前回から書いているように。ゲンスブールの女性遍歴は続いていく。1967年には、ゲンスブールはずっと憧れていた世界的な大女優ブリジット・バルドー【Brigitte Bardot】(1934~)と(ある意味、強引に)出会い、ふたりは恋に落ちる。

 

ブリッジト・バルドー。永遠の小悪魔。ファム・ファタール。まるで仔猫のような。ジョン・レノンも彼女の大ファンだったという。B.B.【べべ】という愛称は本人のイニシャルと「赤ちゃん」を意味するフランス語bébéから付けられた。1955年にルネ・クレールが撮った『夜の騎士道』の出演を経て、ロジェ・ヴァデム(この人も女性にやたらモテた)の監督デビュー作品『素直な悪女』で一躍、時代を代表するセックスシンボルに。それから何本かのヴァデム作品や、『殿方ご免遊ばせ』(57)や『気分を出してもう一度』(59)など、ミシェル・ボワロンの作品に出た後、63年にジャン=リュック・ゴダールの傑作『軽蔑』で、それまでのバルドーとは異なる魅力を爆発させた。

 

📷️まさに仔猫のような雰囲気を持った、若かりし頃のバルドー。

 

音譜1967年のある日、ゲンスブールからバルドーに「あなたのために書いた曲があるので一度、聴いて欲しい」という電話が入った。それはゲンスブールが(恐らく。ピエール・ド・マンディアルグの1963年の小説『オートバイ』【La Motocycletteからインスパイアされて)作詞、作曲した(バルドーに対するゲンスブール流の愛の告白とも言うべき曲)『ハーレー・ダヴィッドソン』【Harley Davidson】だった。

 

ハーレー・ダヴィッドソンに乗れば
マシーンの振動を感じて
欲望が湧きあがってくる
腰のくびれの中から…

 

音譜当時の「ブリジット・バルドー・ショー」の映像から。

 

キスマーク最初の内、ふたりは(互いに臆病な者同士だったため)なかなか打ち解けることができなかったという。けれど。それから1ヶ月後にバルドーはこう言い放った。「私たちは同じものを愛し、同じものに心をときめかせ、同じものに酔いしれた。そして私たちは狂ったように愛し合っていた」と。トレビアン!

 

音譜同じく。67年にリリースされた、ゲンスブール作のシングル曲『Contact』(この曲はピチカート・ファイヴがアルバム『ロマンティーク96』の中で日本語でカヴァーしている)。因みに、宇宙っぽいヴィジュアル・イメージはロジェ・ヴァデムジェーン・フォンダ主演で撮った映画『バーバレラ』(68)より一歩、先行していたのかも。

 

音譜ゲンスブールとバルドーが68年に録音した『ボニー・アンド・クライド』【Bonny and Clyde】では、アーサー・ペンが67年に撮ったアメリカン・ニュー・シネマの傑作『俺たちに明日はない』ウォーレン・ベイティフェイ・ダナウェイ風にイメージを演出した。

 


音譜1968年にバルドーに捧げたゲンスブールのアルバム『イニシャルB.B.』【 Initials B.B.】からタイトル曲を。

 


音譜ジェーン・バーキン版の方がよく知られているけど。ゲンスブールとブリジット・バルドーによる名曲『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』【Je t'aime…moi non plus】アナログ12inchのカヴァーと共に。1967年にゲンスブールがバルドーへの愛の証しとして書き、二人のデュエットで録音はしたものの、内容がスキャンダラス過ぎてバルドーは当時の旦那さん(ギュンター・ザックス)の怒りを買うことを恐れ、この曲を発売させなかったため、ふたりの関係も終わってしまう。結局、バルドーは1986年にようやくこの曲の発売を許可し、バルドー版は約20年を経て遂に陽の目を見ることとなった。さまざまなドラマを生んだ、曰く付きの曲だけど、なんのかんの言っても名曲だと思うなイヒ

 


キスマークバルドー曰く「ゲンスブール。彼は最悪と最高、陰と陽、白と黒。間違いなくアンデルセンやペロー、グリム童話を読んで夢見ていたユダヤ系ロシア人の王子様が、人生における悲劇的な現実を前にして、カシモド(ノートルダムのせむし男)になってしまった人。彼を愛おしく思うか、忌わしいと思うかは、彼自身の、または私たちの魂の状態によるのです」

 

ドキドキカトリーヌ・ドヌーヴ【Catherine Deneuve】(1943~)。1962年に『パリジェンヌ』【Les Parisiennes】で映画デビュー。その後『悪徳の栄え』『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』に出演。その美しさで高い人気を得た後、異能の映画作家ルイス・ブニュエルによる、冷たいエロティシズムが漂う官能的な作品『昼顔』『哀しみのトリスターナ』で演技派女優としても高い評価を得た。ゲンスブールとは1980年にクロード・ベリが撮った『Je vous aime』で音楽を担当し(出演も)ゲンスブールが書いた『神様はハバナタバコが大好き』【Dieu fumeur de Havanes】をデュエットした他、81年のアルバム『Souviens Toi De M'oublier』でもゲンスブールの曲を歌っている。因みに(67年に交通事故で25歳の若さで亡くなってしまう)女優フランソワーズ・ドルレアックとは実の姉妹。

 📷️ゲンスブールとドヌーヴの2ショット。

 

ドキドキヌーヴェル・ヴァーグの中心であり、映画の断層とも言われたジャン=リュック・ゴダールのミューズであり、結婚もしていたアンナ・カリーナ【Anna Karina】(1940~2019)と。

🎦アンナ・カリーナとゲンスブールとの接点は、彼女が主演した1967年のTV映画『アンナ』【ANNA】(フランスで最初のカラー放送だった)。ゲンスブールはその映画に出演し、音楽も担当した。
 
🎦映画では丸い黒縁の丸いメガネをするコケティッシュなアンナ・カリーナが登場する。
音譜映画の挿入曲『ローラー・ガール』【Roller Girl】を。


ドキドキフランソワーズ・アルディ【Françoise Hardy】(1944~)。1962年に『男の子女の子』【Tous les graçons etles filleosで歌手デビュー。(そのナチュラルな佇まいは他のアイドルとは異なっていたものの)イエイエ歌手として人気を集めた後、1968年にアメリカのマーガレット・ホワイティングが歌った『It Hurts to Say Goodbye』にゲンスブールがフランス語の詞が付けた名曲『さよならを教えて』を発表。彼女のキャリアの分岐点となる。以来、ゲンスブールとはもちろん、ゲンスブールの奥様だった(法的には結婚していなかったけれど)ジェーン・バーキンとも親しくなる。ゲンスブールとフランソワーズ・アルディがお互いにどのような関係であったのかは分からないけれど、ゲンスブールは1984年のアルバム『Love On The Beat』の中で『kiss me Hardy』という曲を歌っている。

音譜『さよならを教えて』【Comment te dire adieu】
が収録されたフランソワーズ・アルディのEP盤のカヴァーと、その曲を。


ドキドキジェーン・バーキン【Jane Birkin】(1946~2023)。先月に。とても残念だけど彼女の訃報が届いてしまった。彼女はロンドン生まれだけれど、フランスの女優・歌手と言ってしまっても問題ないだろう。もともとモデルとして活動していた中で1965年に『ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!』を撮ったリチャード・レスター『ナック』【KNACK】に18歳で出演。間もなく、その映画の音楽を担当したジョン・バリー(当時、あの007シリーズのテーマ曲の編曲や『007ドクターノオ』『007ロシアより愛をこめて』の音楽で大成功していた)と結婚し、娘ケイト・バリー(2013年にアパルトマンから転落して亡くなってしまう)を産んだ。

 

🎦スタイリッシュな映画『ナック』のワンシーン。バーキンもまた、とってもスタイリッシュだった。

📷️1966年「VOGUE」のための。僕の大好きなファッション写真家ノーマン・パーキンソンが撮ったジェーン・バーキンの、僕の大好きな写真。とても可愛い。
 

🎦その後、スウィンギング・ロンドンの雰囲気を満載した、ミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』(66)、1968年にジョージ・ハリスンが音楽を手掛けて話題になった『ワンダーウォール』(68)に出演(バーキンの役名はペニー・レイン。彼女の可愛らしさだけが際立っていた)した後、フランスに渡り、ゲンスブールと出会うことになる運命の作品、ピエール・グランブラ監督の『スローガン』【Slogan】でゲンスブールと共演する。


🎦『Slogan』のTrailerを。


キスマークジェーン・バーキンはその時のことをこう回想している。「セルジュと始めて会ったのは、『スローガン』のスクリーンテストのため、フランスを訪れているときでした。浅黒い肌に変わった顔立ちで、うす紫のシャツを着ていました。彼は痛烈な皮肉屋でしたが、決して不愉快というわけではなく、本当は何も気にしていない人なんだなというのが分かりました。主演のオーディションはすでに有名だった彼にすべてがかかっていたので、他の女の子を選ぶことも可能だったはずです。特にマリサ・ベレンソン(祖母はファッション・デザイナーのエルザ・スキャパレッリ。後にルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』やスタンリー・キューブリックの『バリー・ロンドン』などの映画に出演する女優)はとても素晴らしかったから」

キスマークこの映画の撮影中に、ゲンスブールとバーキンは濃密に愛し合うようになる。だけど予定では撮影が終わるとバーキンはイギリスに帰ることになっていた。「私は『スローガン』の撮影を終えてイギリスに帰国せねばならず、セルジュはひと晩中泣いていました。私に涙が見えるように、自身の顔をずっとキャンドルライトで照らしながら。それから間もなく、(監督の)ピエール・グランブラと食事をしているところにジャック・ドレーが現れたんです。実はグランブラ監督が、これまで見たことのないような女の子を知っていると、ドレー監督に私を紹介してくれてアラン・ドロン主演の『太陽が知っている』に出演することになったのです」。この映画のおかげで彼女はそのままフランスに留まることになった。運命のいたずらというやつか。

 

 📷️「エルメス」の社長が偶然飛行機でバーキンと隣り合わせた際、バーキンが籐のかごに無造作に物を詰め込んでゴソゴソしているのを見て、「何でも入れられるバッグを」とバーキンに贈ったことから、あのエルメスのバッグは「バーキン」と呼ばれるようになった、というようなエピソードは女の子たちの方がよく知っているはずうーん

 
📷️ジェーン・バーキンはイギリス生まれで、当時流行した「Swinging London」の中心に居たのでファッション・センスは抜群。ゲンスブールも彼女からのアドバイスでいつしかファッションセンスが磨かれていった。

 
ジェーンバーキンはVOGUEのインタビューでゲンスブールについて愛情たっぷりに(懐かしさを込めて)こんな風なことを語っている。
 
キスマーク「彼は私の言葉によく耳を傾けてくれました。例えば、彼はもともとヒゲを生やしていませんでしたが、実年齢よりも若く見えることがコンプレックスだった。そんなとき、私は『彼が8日間ほったらかしにしていたヒゲのある顔がハンサムだと思う』と伝えると、彼は自分でヒゲトリマーを買って、そのままにするようになったんです。ナチュラルメイクのようで、彼の顔に陰影を生みだしました」
 
キスマーク私は靴下アレルギーなので、裸にソックスだけの男性の姿を想像するとぞっとするんです。ある日、シューズのお店「REPETT」でセール品がたくさん入ったかごの中に、柔らかなホワイトレザーのメンズ用のシューズを見つけたので、それをセルジュのために購入したんです。彼は偏平足で靴が合わなくて年中悩んでいたので。彼はその靴を生涯、素足で履き続けました。下着も同様で、私はジーンズの下は裸の方がずっとエロティックだと思うということも、彼に言いました」。そうしてゲンスブールは彼のトレードマークとなるジーンズを愛用するようになったのだ。恐らく、下着も何も着けないままに。

音譜1969年にリリースされた、ゲンスブールとジェーン・バーキンとのアルバム『ジェーン&セルジュ』【Jane Birkin - Serge Gainsbourg】から69’はエロな年』【69, année érotique

 



音譜バルドー版が発売できなかったため、1969年に再び録音されたゲンスブールとジェーン・バーキン版『ジュテーム・モア・ノン・プリュ』【Je t'aime…moi non plus】。バルドー版とバーキン版、どちらがエロいか、どちらのバージョンの方が愛に溢れているか、なんて聴き較べてみるのも面白いかもうーん



キスマークジェーン・バーキン曰く「この曲を歌ったのは嫉妬に駆られたから。セルジュがこの曲をブリジット・バルドーと歌い、リリースはされていませんでしたが、それをテレビのスタッフやジャーナリストたちに聴かせたんです。みんなにこの曲を聴かせて誇らしげにしているセルジュの姿を見て、他にもこの曲に関心を持つ人がいるなら、自分で歌った方がいいなと思ったんです。バルドーだけでなく、別の美女と新たなバージョンの『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』を歌われたら嫌だった。なので、セルジュに一緒に歌わないかと誘われたときは、即OKしました」と。とても可愛らしい女心だと思うな(まぁ、誰だって嫌だろうけど)。


因みに。1973年の映画『ドンファン』では、バーキンとバルドー、お互いが裸で共演することに。

 

🎦1976年に。ゲンスブールが監督、出演、音楽も担当した同タイトルの映画『ジュ・テーム・モア・ノンプリュ』。主演はジェーン・バーキンと、アンディ・ウォーホルのファクトリーのイケメン・スターだったジョー・ダレッサンドロ。この映画でのジェンダーレスなバーキンは新しい魅力に溢れていた。

 

音譜1970年に制作されたゲンスブールのアルバム『メロディ・ネルソンの物語』【 Histoire de Melody Nelson】は、中年男性とメロディ・ネルソンという少女との愛の物語を描いたトータル・アルバム。アルバム・カヴァーにはジェーン・バーキンのポートレイトが使われていて、この時、ジェーンはお腹にゲンスブールとの子供、シャルロットを宿していた。因みに。この後、バーキンは主演した映画『ガラスの墓標』(ゲンスブールも出演し、音楽を担当)のプロモーションのために、ゲンスブールと共に初来日を果たしたのだけど、日本に降り立ったバーキンのお腹がかなり大きくなっていて、その状況をまったく聞かされていなかった配給会社の日本ヘラルドは「これじゃぁ、映画の宣伝にならない」とカンカンだったという。一方、バーキンの、そのお腹のことをインタビューで聞かれたゲンスブールは「俺の子供であることを願うよ」と言ったとか、言わなかったとか。

 
キスマーク最後に。ジェーン・バーキンの、こんな言葉を置いておこう。「タブーがないというのが私の理想だったんです。セルジュはよくこう言っていました。『僕たちは不道徳なカップルじゃない。道徳を超越したカップルなんだ』と。


セルジュ・ゲンスブールのように…

僕もそうじゃない。

 

数多くの女性たちを愛し、そして愛された男、セルジュ・ゲンスブール。その数多くの「愛」にインスパイアされ、自らの創造性を膨らませてきた彼の魅力を伝える記事は次回へと続く。

 

それじゃぁ、今回はこの辺で。

アデュー・ロマンティークニコ



【追記】
書き始める時には考えてなかったのに。
今回はゲンスブールを巡る女性たちを切り口にして語りながらゲンスブールの魅力を語るという形になったような気がする。ブログって。書き進む内に方向が変わり、予定調和にならないところが自分の感情にリアルで面白いと思う。