Bar Adieu Romantique No.022『いわゆるテクノ・ホリック』。 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

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僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

僕の架空音楽バー『Bar Adieu Romantique』へ、ようこそ。

 

『Bar Adieu Romantique』ではお越しいただいた方に毎回、ご挨拶代わりに僕の独り言【Monologue】を書いたFree Paperをお渡ししている。

 

           Romantique Monologue No.022

            『いわゆるテクノ・ホリック

                           

 今回のタイトルは、YMOの1981年のアルバム『いわゆるテクノデリック』を引用して『いわゆるテクノ・ホリック』。いわゆるテクノ中毒というような意味にしてみたうーん

 

1979年頃から1980年代の中頃くらいまでの間、常に最先端カルチャーの中心だったYMOから大小さまざまな影響を受けた、所謂YMO Family、つまりYMO周辺に居たアーティストたちとその音楽「テクノ・ポップ」のこと。

と、言いながらも。その時代の音楽については後で「Bar Adieu Romantique」で流す曲に絡めて好き勝手に語るので、取り敢えずは脇へ置いて。
 
音楽以外で。間接的に、或いは2次的、3次的にYMOに影響を受け、逆に何らかの形でYMOに影響を与えたかも知れない人、モノ、コトを
時系列に書くのではなく、その時代のキーワードをブリコラージュ【Bricolage】しながらカタログ的に並べていくことで、1980年代のイメージが、その輪郭が、少しずつ完成されていくジグソーパズルのように浮かび上がってくることを期待しながらうーん
 

だけどなんだなぁ。そうやって80年代にスポットを当て、その時代をターム【Term】化し、再編することこそが(そもそも日本においては)1980年代に雑誌やメディアによって開発された、とても80年代な手法である、ということを付け加えておかなければにやり

 

1980年代には、こんなキーワードが頻繁に使われていた。あくまでも僕個人が興味のあった範疇であり、ヌケだらけになるけど、それでもほとんどが現在ではもう使われなくなった言葉ばかり(だから逆にどうしようもないほど80年代的だよね)。

 

🔴スキゾ・キッズ : 浅田彰の著作『逃走論』から流行した言葉。何かひとつのことにのめり込むようなパラノイアック(=マニアック)な生き方はダサく、さまざまな価値を軽やかに行き来する分裂症的な若者を指していた。

🔴ニューアカ ニュー・アカデミズムの略。浅田彰吉本隆明を始め、中沢新一柄谷行人栗本慎一郎四方田犬彦など、哲学や思想、学術的な専門分野を持っているような領域の人たちが、フランスの哲学者ミシェル・フーコージャック・デリタジル・ドゥールズらによる「ポスト構造主義」などに影響を受けながら、自らの哲学を論じた。(吉本隆明は別としても)もともとは一般的に大きな話題にならないような人たちがYMOに接近し交わることで、その時代の勢いに押され、たまたまスポットが当たった、とも言える。

🔴コム・デ・ギャルソンCOMME des GARÇONS: 80年代の初めに。山本耀司が主宰したY'sと共に真っ黒なボロファッションに身を纏う、カラス族と言われる人たちを生み出した。その創設者であり、デザイナーでもある川久保玲の圧倒的なクリエイションは常に斬新でありながら、美しくあり続けた。

🔴anan : マガジンハウスの人気雑誌。70年代には山口小夜子立川ユリが。そしてその後を受けて80年代には中川比佐子甲田益也子くればやし美子らが誌面を飾り、吉本隆明坂本龍一北野武もモデルとして登場した。80年代の初め頃、僕の周りでも「街で見かけたオシャレさん特集」に誰それが載ったとか、人違いだったとか。何やかんや盛り上がってた。

 🔴宝島 : 植草甚一が責任編集し、1973年に創刊された、伝説の『Wonderland』はマニアック過ぎるが故にあまり売れなかったため、その後を継ぎながら80年代に編集方針を変更。日本のPUNK~NEW WAVE、テクノポップのアーティストたちを中心に据えた記事のほか、中島らもによるかねてつデリカフーズ協賛の「かまぼこ新聞」や人気コーナー「VOW」で売り上げを伸ばした。

 🔴ビックリハウス:1974年に寺山修司が主宰した演劇実験室「天井桟敷」出身の榎本了壱萩原朔美によって創刊されたタウン誌的な雑誌だったけれど、1977年から休刊になる1985年まで高橋章子が編集長を務め、その編集方針や内容が1980年代のムードとぴったり合って人気が爆発した。毛筆による習字が紹介された「筆おろし塾」「妻が猿と」「ロミ山田」といった名作を生んだ)、「御教訓カレンダー」糸井重里による「ヘンタイよいこ新聞」などのカルト的人気コーナーを生んだ。

🔴点取り占い :古くからあったと思う駄菓子系玩具。80年代に脚光を浴び、僕自身もほんの一時期、熱中した。ひとりで心を落ち着かせてゆっくりと開き、出てきた点取り様のお声に耳を傾け、心の中で何度も反芻しながら自分自身の思考や行動を戒めること。それが点取り占い様と接する態度であった。因みに。当時は糸井重里がアルバイトで書いたんじゃないかと、まことしやかに語られていた。

🔴ウォークマン : 「音楽を外で歩きながら聴ける」なんて。当時の僕には衝撃過ぎた。なので慎重になり過ぎて、1979年に発売された初代ウォークマンには手を出さず、1981年発売のウォークマンⅡでデビューした。もちろんカセットテープを挿入するタイプ。鞄の中にはいつも20本くらいのカセット・テープが入っていてガチャガチャうるさかった(いま考えたら、相当カッコ悪いえー?

🔴ピテカントロプス(エレクトス) : YMOと繋がったコント・ユニット、スネークマン・ショーを率いた桑原茂一が1982年に原宿にオープンした、日本で初めてのCLUB。出入りしていたDJは藤原ヒロシ高木完坂本龍一MELONショコラータミュートビートなどのLIVEがあり、ジョン・ライドンバスキアキース・ヘリングデヴィッド・バーンらが訪れるなど、常に最先端のカルチャーを発信し続けた。

🔴コピーライター : 広告に勢いがあった時代。特に言葉ひとつで時代のムードを切り取るコピー・ライターという職業にスポットが当たった。キャッチコピー1本書いて1千万円、みたいな夢を見て。みんなが糸井重里になれると思っていた。そう。ほんとは林真理子(彼女は元コピーライターだった)、仲畑貴志土屋耕一秋山晶魚住勉真木準にさえ、なれる訳なかったけど。因みに。僕が一番好きなコピーは西村佳也が書いた(1988年頃かな)サントリー・ウィスキー山崎のコピー「なにも足さない。なにも引かない。」

🔴ハウスマヌカン:雑誌「anan」から誕生した、ブティックで働く店員さんたちを指した総称。1986年にややによる「夜霧のハウスマヌカン」という歌がヒットしたほど、トレンディな(この言葉も80年代的だな)職業だった。

🔴マハラジャ:1982年、日本で最初に大阪ダイヤモンドビルにOPENしたセレブリティなDISCOであり、後に日本各地に出店が続いた。僕自身、オープン時から頻繁に通っていたけど、日本のディスコでは初めてドレスコードを導入し、とにかくスノッブな感じがあって。週末は凄い数の人が押し寄せた。ピテカントロプスのようなキレたカッコ良さはなかったけど、まぁ、それなりに大阪独特のノリがあって、面白かった。

 

その他にも、村上春樹村上龍高橋源一郎ナウ新人類インベーダーゲームワンレンボディコンMTVDCブランド六本木WAVEミニシアターカセットブックTRAヘタウマ古着◯金◯ビなどが僕にとっての80年代的キーワードなのかな、と思う。

 

それにしても。果たして、こんなキーワードの羅列だけで、80年代が浮かび上がってくるのかなぁうーん

 

 

                 「Bar Adieu Romantique」店主より

 

そろそろ「Bar Adieu Romantique」のオープンの時間だ。

 

「Bar Adieu Romantique」がキュレーションする今回のプチ展覧会は『1980年代的 / TOKYO的 / シミュラークル的ART』。1980年代の、(基本的に)TOKYOで誕生した(逆に言えばTOKYOでしか生まれ得なかった)、シミュラークルなARTを。因みにシミュラークルとは、哲学者であり思想家でもあるジャン・ボードリヤールの著作で言及された「模像」とか「虚像」いう意味であり、中身や実態を持たない形だけのものを指す。「偽物」とか「コピー」というような意味もあるけど、本来の意味を置換させた「記号化」という意味で機能し、アートの表現を拡大させ、最終的に当時、ニューヨークを中心とした潮流であったシミュレーショニズム(イメージを引用し、オリジナル作品がもつ価値や権力を解体、再構築するという動き)に行き着いた。

 

 🎨段ボールという素材を発見し、段ボールでさまざな作品をクリエイティヴした日比野克彦。80年代の、曖昧な空気感を軽やかに切り取った若いアーティストは、今や東京藝術大学の美術学部長になった。

 

🎨大竹伸朗は、ブライアン・イーノがプロデュースしたアルバム『No NewYork』に衝撃を受け、自身のバンド「JUKU/19」で音楽活動を始めた。その後間もなくアート制作をスタートさせるのだけど、その活動は常に音楽と隣り合わせにあり、アートにおける「ノイズ」を表現し続けている。

 

🎨PARCOのビジュアル・イメージが強い山口はるみ。1960年代後半から1970年初めにかけて松本はるみの名前でとても可愛らしいファッション・イラストを描いていた。70年代中頃からはエアブラシによる表現を始め、PARCOと共に時代を歩んだ。

 

🎨ペーター佐藤。70年代後半の、初期の山下達郎のアルバム『SPACY』『Go Ahead ! 』のアルバム・アートを手掛け、80年代にはパステルで描かれたその柔らかで、可愛らしい作風がファッション関係の広告などで頻繁に露出され、特に女性からの高い支持を得た。

 
🎨永井博は、大瀧詠一の80年代初頭を飾った傑作アルバム『ロング・バケーション』や続く『EACH TIME』のカヴァーを描いたイラストレーター。その世界はもう見たまんまの、説明不要の世界。現在、世界的なCITY POPブームの中で再評価され、絶対的な存在に。
 
🎨鈴木英人も先の永井博と同じ受け入れられ方をしているイラストレーター。こちらは山下達郎の傑作アルバム『For You』のアルバム・カヴァーに使われた。

 
音譜わたせせいぞうと言えば1983年から漫画雑誌「週刊モーニング」に連載された『ハートカクテル』。ハート・ウォーミングでラブリーな、まったく毒気の無い爽やかな作風で高い人気を誇った。
 
🎨湯村輝彦は60年代から活躍していたイラストレーター。当初から変わらない作風は、80年代に「ヘタウマ」の元祖と呼ばれた。

 
🎨霜田恵美子は1980年代に活躍したイラストレーター。伝説の音楽集団TACOのセカンド・アルバムのカヴァーを描くなど、日本のNEW WAVEな音楽と連動した。そして彼女の作風は80年代後半からナンシー関ゴム版画に、その味わいが受け継がれていく。
 

🎨高野文子萩尾望都から大きな影響を受けてマンガを描き始めたが、徐々に素晴らしいオリジナリティを獲得した、僕の中では「天才」である。作品はそれほど多くはないけど。『おともだち』という単行本の中の一篇『春ノ波止場デ ウマレタ鳥ハ』で描かれている世界も絵のタッチも、それはそれは可愛い過ぎて。男のくせに、こういうのに弱いんだなにやり

🎨彼女が描いたキャラクターがマクドナルドの商品広告に使われたこともあったのだ。
 
🎨人気漫画家しりあがり寿のデビュー作こそが1985年に刊行された『エレキな春』だった。とにかく、そこには新しい笑いがあり、その作風も革命的だった。有名な漫画家(例えば白土三平楳図かずお)の画風を引用し、その価値を転換させるという、まさにシミュラークルなアート、かと。但し今回、セレクトしたのは2017年に開催された「THEドラえもん展」に出品した作品。今をときめく人気イラストレーター、ヒグチユウコの心を捉えて離さなかったという。

 
🎨久住昌之泉晴紀のクリエイティヴ・ユニット名が「泉昌之」である。ここからして、かなり変だ。日本人なら誰でも分かるはずの、日常の「あるある」を盛り込みながら、劇画タッチで進んでいくストーリーは、ほとんどどーでもいいくらいにバカバカしい世界。PICK UPした作品は作品集『かっこいいスキヤキ』に収められた「夜行」から。ハードボイルドな男が夜行列車の中で、楽しみにしていた「駅弁」を食べる際の細かな戦略や想い、葛藤が描かれ、最後には悲哀が訪れる傑作。
 🎨雑誌「宝島」の連載で人気があったなんきん。漫画家であり、劇団「WAHAHA本舗」に在籍する俳優さんでもある。
 
他にも。大橋歩大友克洋を始め、藤原カムイみうらじゅんスージー甘金ひさうちみちお原律子蛭子能収岡崎京子の初期作品も紹介したかったけど、例の文字数制限にひっかかったため諦めた。
 
音譜さて、と。日本のだけじゃなく広く世界に目を向けて。YMOを中心に世界に拡がり、世界とも共振し合った「いわゆるテクノ・ホリックな音楽」を。
 
音譜最初は。YMOにも多大な影響を与えたドイツのグループ、クラフトワーク【kraftwetk】の、1978年にリリースされたアルバム『人間解体』【the man machine】から『The Robots』を。当時はあまり違和感を感じなかったけれど、今聴くとテクノポップというより、その音触は現在のミニマル・テクノに近いような気がする。クラウトロック(ドイツのロックの総称)って。やっぱり伝統的に変だ。
 

 
音譜イタリア未来派のアーティスト、ルイージ・ルッソロの論文「騒音芸術」にヒントを得て命名された「アート・オブ・ノイズ【Art Of Noise】の、1983年にリリースされたデビュー・MINIアルバム『Into Battle』から『Beat Box』を。バグルスイエスを経て1983年に「ZTT Records」を立ち上げたトレヴァー・ホーンがプロデュース。テクノじゃないけど。フェアライトCMIやシンクラヴィアなど、当時の最先端機材を駆使した「痛いほど」のダイナミックなサウンドが衝撃を与え、以後、多くのバンドに影響を与えることに。
 

 
音譜これは間違いなくテクノポップ。坂本龍一とコラボレートしたこともある、ロビン・スコットのソロ・ユニット、Mのヒット曲『POP MUZIK』12inch Ver.で。
 

 
音譜テクノ・ポップを表現する時によく使われた、いわゆる「ピコピコ」サウンドと言えばこのグループが真っ先に浮かぶ(そう言えばYMOの音楽はピコピコ・サウンドとは言えないかも)。プラスチックスの1980年のデビュー・アルバム『Welcome Plastics』から『Top Secret Man』『Copy』を続けて。メンバーはトシこと、中西俊夫チカちゃんこと、佐藤千賀子ハジメちゃんこと立花ハジメ、そして後に音楽プロデューサーになる、元四人囃子佐久間正英と(作詞家として活躍する)島武実。ペラペラだけど、とってもキッチュでチャーミングで。YMOとはまた違ったカッコよさがあった。
 

 

 
音譜イリアこと、奥野敦子のボーカルで人気を集めたジューシー・フルーツの、1980年のデビュー・アルバムから。テクノポップmeets歌謡曲で、とってもカラフルな『ジェニーはご機嫌ななめ』を(2009年にやくしまるえつこがカヴァーした)。因みにベースの沖山優司はグループ解散後、PINK近田春夫ビブラストーンに参加している。
 

 
音譜The B-52'sの1979年リリースのアルバム『警告!The B-52's来襲』から。レトロ・フューチャーでチープでキャンプな曲『惑星クレイア』【Planet Claire】。テクノポップとは違うような気がするけど。カテゴリーなんて関係ないほど超越してるよね。
 

 
音譜細野晴臣高橋幸宏により、アルファ・レコード内に創設されたYEN Recordsから1982年にリリースされた、戸川純上野耕路太田螢一によるユニット、ゲルニカのデビュー・アルバム『改造への躍進』から『銀輪は唄う』。戸川純って。新人類を代表するように言われ、当時からファッションや雰囲気をマネする女子が多かった。現在に至る「才能があって、ちょっと変わった女子」のルーツじゃないかな。
 

 

音譜「キューピーたらこスパソース」のCMディレクターの加藤良一が加藤良1名義で結成した楽しい音楽の宅録8inchミニ・アルバム『やっぱり』をFullで。あがた森魚や戸川純のバンド、ヤプーズのメンバーで、後に舞踏集団「山海塾」の舞台音楽を担当する吉川洋一郎が参加した、恐るべき脱力音楽。因みにアルバム・カヴァーは霜田恵美子。但し。モチーフはお笑い芸人トリオの「ロバート」ではありませんから(似てるけどね)。

 

 
音譜ビー・バップ・デラックスレッド・ノイズを率いたビル・ネルソン【Bill Nelson】の1983年のソロ・アルバム『Chimera』から『Acceleration』。このアルバムには親交があった高橋幸宏JAPANミック・カーンが参加している。
 

 音譜同じくビル・ネルソンの1982年のアルバム『The Love That Whirls (Diary Of A Thinking Heart』から『Hope For A Heatbeat』。ビル・ネルソンは自らのレーベルを主宰していて、そのレーベル名はフランスの偉大なる詩人ジャン・コクトーをリスペクトして「Cocteau Records」と名付けた。
 

 
音譜1980年に細野晴臣プロデュースでリリースされたサンディー【Sandii】のファースト・ソロ・アルバムから名曲『Jimmy Mack』。そして1984年にリリースされたシングル『Sticky Music』を細野さん出演のPVで。​​​​​​
 

 

 
音譜1981年に同じく細野晴臣のプロデュースにより制作・リリースされたチャクラのセカンド・アルバム『さてこそ』から『めだか』を。戸川純とはまた違った不思議女子、小川美潮板倉文の、キャラクターと才能のバランスがとても魅力的だった。
 

 
音譜土屋昌巳見岳章を中心に結成された一風堂【IPPU-DO】の、1982年のヒット曲『すみれSeptember Love』を。因みに。土屋昌巳はJAPAN解散前のラスト・ツアーのサポート・ギタリストとして参加するほどの実力があった(僕的にはちょっとギターを弾きまくり過ぎていたような気はしたけどうーん)。
 

 
音譜エリック・クラプトンボーイ・ジョージYMO坂本龍一高橋幸宏サンディ&サンセッツの詞を書いたクリス・モズデルの、すごく豪華なブックレットが付いた1982年のアルバム『エクアジアン』【EQUASIAN】から『Psalm Of Motion』を。プロデュースは今井裕
 

 
音譜プラスチックス中西俊夫ミュート・ビート屋敷豪太、そしてヤン富田を中心に結成されたウォーター・メロン・グループの1984年のアルバムから。1960年にジュール・ダッシンが撮った映画『日曜はダメよ』で主演のメリナ・メルクーリが歌った主題歌『Never On Sunday』のクワイエットなカヴァーを。
 

 
音譜大阪では有名だったエレクトロ・ユニット、4-Dを率いていた成田忍が1985年に結成したアーバン・ダンス細野晴臣が主宰した「Non Standard」の第1弾としてリリースされた、高橋幸宏プロデュースによるファースト・アルバムから『Caramic Love』を。

 

 
音譜後にYMOと親交を深めるJAPANが、1979年にYMOの結成にも影響を与えたジョルジオ・モロダーのプロデュースにより制作・リリースした『Life In Tokyo』を。
 

 

音譜最後は。1980年代にテクノ(ポップ)と呼ばれた音楽の極北のような音楽(呼称は同じでも「似て非なるもの」とも言える)、所謂ミニマル・テクノと呼ばれる音楽で締め括ろう。南米チリ生まれのリカルド・ヴィラロボス【Ricardo Villalobos】。の12inchシングル『ENFANTS(Chants)』。同じビートが反復される、一切の感情が剥ぎ取られたかのような無機質な音楽。だけどそのビートに身体を預けているとカタルシスを感じる瞬間が。

 

 
テクノポップと、その他のエレクトロ・ミュージックに線引きがある訳じゃないので。いつものように、とても曖昧で中途半端なセレクトになってしまっていることを付け加えて、そろそろ閉店に。
 
それじゃぁ、また。
アデュー・ロマンティークニコ