こんにちは。僕のブログ【アデュー・ロマンティーク】へ、ようこそ。
【架空の美術展開催に寄せて】
毎年、国連が発表している国や地域別の「幸福度ランキング」というのがあって、つい先日、2021年版が発表された。1位は4年連続でフィンランド。以下、デンマーク、スイス、アイスランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、ルクセンブルク、ニュージーランド、オーストリアと続き、日本は56位となっている。
細かなことにはあまり関心はないけれど。重要なのは、このコロナのパンデミック下においてさえ、上位の国では幸福感を感じることができていると思えることと、その審査基準が、人生において何をするかを選択できる「自由度」。そして、いかに相手を受け入れることができるかという「寛容さ」においてであるということ。まぁ、そのすべてをそのまま鵜呑みにできないとしても、少なくとも、日本は一見、とても自由で人と人の繋がりを大切にする寛容の国のように思いがちだけれど、実は違うのかも知れないなと、立ち止まらせてくれた。少なくとも世界的なパンデミックにおいて。コロナで死ぬことよりも、感染して地域社会から抹殺されることを何よりも恐れる国だ。感染したらそれは自分の責任だと思い込まされ、他人から何と言われも仕方がないと思わなくてはいけないような、そんな国、他にあるのか、とさえ思う(あるとは思うけど、敢えて言わないでおくね)。
おっと危ない。これ以上、この話を深掘りすると、僕のブログとは違う領域の話に踏み込んでしまいかねないのでこの辺で。
アウトサイダーという呼称が
アートを「不自由」にし、
アートを「不幸」にしていないか、と考える。
国や地域の「幸福度」の基準が、人生で何をするかを選択できる「自由度」、そして、いかに相手を受け入れることができるかという「寛容さ」において、という基準があるのだとすれば、それはアートに関しても同じことが言えるのではないかと僕は考える。
今回の架空美術展のタイトルは『出口なし。ループするイマージュの迷宮』。所謂アウトサイダーと呼ばれる人たちの、無限とも思えるほどのイマージュで描かれたアートのこと。
そもそも。「アウトサイダー・アート」って何だろうか、と。もともとアンフォルメル(非具象あるいは抽象絵画)の画家であったジャン・デュビュッフェというアーティストが、自らの作品や、その当時、発見した、精神障害者や強迫的幻視者たちの作品を含めてアール・ブリュット(=生の芸術)と名付けたところから始まった。デュビュッフェはそういった過去の作品や、当時の作品に触れ、精神病院などにも足を運ぶことで、ひとりの芸術家として精神障害者や強迫的幻視者の作品に興味を引かれるようになった。
その後、1967年にパリで開催された、そういう作品を集めた展覧会で、世の中にはそういう人たちのアートが存在することが知られることになった。そして1972年には、単純に精神障害者及び強迫的幻視者のアートとしてではなく、社会の外側に取り残され、アカデミックな美術教育を受けていない人たちの作品に加え、さらにはプリミティヴ・アートやフォークアートなどの作品も含まれるようになり、それらをすべて含めて、現在では「アウトサイダー・アート」と呼び、頻繁にメディアなどに取り上げられるようになっている。
しかしながら。それをアウトサイダーと言ってしまうことに僕は強い抵抗を感じてしまう。何故なら、「アウトサイダー・アート」という呼称は、そのアーティストたちの、立ち位置を表しているだけで、その作品の表現方法や、アーティストたちの、何らかの考え方や志向を表した呼称になっていないからだ。「アウトサイダー・アート」と便宜上、名付けられ、そう呼ばれることで、そこに括られたアーティストや、その作品は特別な領域に組み込まれ、特別な目で観られて、特別な評価を与えられるものになっているように思えてならないし、その呼称が逆に彼らの芸術を不自由にしているのではないのか、とさえ思うのである。単に呼称だけで言うなら「アールブリュット(生の芸術)」の方がまだマシだと思うんだけど、どうだろう?
僕の個人的な主観に過ぎないけれど。アート全体を俯瞰した時に、それが何らかのハンディキャップをもった人の作品であろうと、所謂ジェンダー云々の作品であろうと、(ことさら特別視することなく)、それ以外のアートと何ら変わることなく平等に受け入れ、作品自体をもってのみ平等に評価されることこそが望ましいし、アートを取り巻く環境がそういう環境になって初めて、アートは「幸福」になれるのではないかと思うのだ。美術評論家でも何でもないくせに、変なことを言っているようだけど。いたって真面目に考えているのだな。
彼らは自らのイマージュを制御しない。
彼らは自らのイマージュに従い、
まるで永遠のループのように
ただただ自由に描き続けるのだ。
それでは。それが「アウトサイダー・アート」であっても、「アウトサイダー・アート」でなくても(明確な区分けなんてないのだ)。少なくとも僕自身が思う、そのようなアートをいくつか紹介していこうと思う。因みに僕自身は。天才と呼ばれるようなアーティストたち、例えばパウル・クレー(とてもアカデミックなアーティストなのに)やエゴン・シーレ、バスキアの作品も「アウトサイダー・アート」なんじゃないかとさえ思っていることを付け加えておきたい。
アドルフ・ヴェルフリ【Adolf Wolfli】(1864~1930)
スイスのアーティスト。統合失調症によりから人生の大部分を病院で過ごし、その間に描き続けた全45冊、25000ページにも及ぶ、絵と文字による妄想の物語は、現在ではアウトサイダー・アートと呼ばれる一群のアートの源流として、圧倒的な存在感を示している。因みに。日本でも4年前に『二萬五千頁の王国』というタイトルで大々的に紹介され、その途方もない世界に度肝を抜かれてしまったのであった。
ウニカ・チュルン【Unica Zurn】(1916~1970)
圧倒的なイマージュにより、唯一無二の球体関節人形を創造してきたハンス・ベルメールのパートナー。その特異なドローイングにおいて、ベルメールと共にシュルレアリスムの中に括られることが多い。けれど、彼女もまた統合失調症に悩まされていたことを考えれば、今回の所謂「アウトサイダー・アート」と「シュルレアリスム」との共通性を強く感じるし、(僕の想像だけど)もしもアンドレ・ブルトンがアドルフ・ヴェルフリとその作品をデュビュッフェよりも早く発見していたなら、アフリカのプリミティヴなアートにも魅かれていたブルトンによって、「アウトサイダー・アート」は「シュルレアリスム」の中に詩的かつ論理的に組み込まれていたはず。
Jose Lerma(1957~2021)
メキシコ生まれ。後に活動の拠点をスペインに置いたアーティスト。それにしても。彼のイマージュはどんなことになっているのかと、思う。
ルボシュ・プルニー【Lubos Plny】(1961~)
ゼロ年代以降に発見され、話題になったチェコのアーティスト。美しい線が重なり合った透明な解剖学的イマージュは、どこかハンス・ベルメールのドローイングを思わせる。
マルティン・ラミレス【Martin Ramirez】(1895~1963)
網代幸介【Kosuke Ajiro】(1980~)
立体感がなく、キャンバスの上下も関係ない自由な構図が生み出す独特な世界。彼のイマージュの中にある物語を具現したその作品は、とても詩的で愛らしい。
ヴィクトル・ブローネル【Victor Brauner】(1903~1966)
ルーマニア生まれのアーティストで主にパリで活動した。プリミティヴに回帰しつつ、未来を予兆させるシュルレアリスト。彼は代表作『眼球を摘出した自画像』を描き上げた7年後に実際に片方の目を失ってしまう。そのことからシュルレアリスム詩人のルネ・シャールによって「未来を幻視する画家」と称された。
キング・クリムゾンの絶対者ロバート・フリップの傑作ソロ・アルバム『エクスポージャー』の中から、ジェネシスのカリスマであったピーター・ガブリエルが歌った『Here Comes The Flood』を。何て美しい曲、美しいボーカルなのか、と。もちろんフリップのウネウネするギターも最高に魅力的。
ヘンリー・ダーガー【Henry Darger】
架空の『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』を具現化した15000ページにも及ぶ膨大な作品を遺した。
ライル・カーバジャル【Lyle Carbajal】
アメリカのアーティスト。情報はあまり持っていないけど、作品はとても面白い。バスキア的とも言えるかも。
ニック・ブリンコ【Nick Brinko】
とにかくちまちましている。日本のアーティスト、富谷悦子の作品に近いような気もするな。
Alexandre Huber(1955~)
自由なイマージュが溢れた作品が並ぶ。