No.0332 【60年代をつかまえて】イエイエで踊ろう~ Paris , Tokyo | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

こんにちは。僕のブログ【アデュー・ロマンティーク】へ、ようこそ。

 
60年代のフランス映画を観ていると、よくホーム・パーティーのシーンが出てくる。アメリカとは住宅事情が違うので、パリではプール付きの広い中庭は出てこない。例えばサンジェルマン・デ・プレ界隈のアパルトマンの一室で親密な人たちが集まって密かに開かれている、そんな感じのパーティー(そのようなパーティーには過去、一度として参加したことはないので、あくまでもイメージです、イメージ)。そしてそこでは当時、流行していた「イエ・イエ」【yé yé】と呼ばれた音楽が流れ、みんなが思い思いに踊っている。結構、激しく。お酒を飲んだり、恋やアートの話をしながら。そう、とてもスノッブなイメージがあるうーん。憧れるなウインク
 
📷️例えば、こんな雰囲気のパーティーだ。とってもいい感じだけど、こりゃ、密だわアセアセ
 
「イエイエ」は60年代の初め頃、アメリカのドリーミーなポップスをフランス語で歌ったアイドル・ソングだったものが、一人の男が現れ、健全な「イエイエ」にエロティックな歌詞を入れたり、ジャズやラテンのビートを強調したりしてグルーヴ感のある音楽に仕立てたのであった。その男の名は、セルジュ・ゲンスブール。50年代後半にデビューし、60年代から80年代を通じて常にセンセーショナルを巻き起こし、時代を駆け抜けた。
 
そうして。「イエイエ」はアメリカやイギリスのロックの影響を受けながら、だがしかし「フランス語はロックとは相性が悪い」という言説を超えることができないまま、次第に(一風変わった)ガレージ・ロックのようなものになり、68年頃にはその短い生涯を終えるのであった。
 
📖「イエイエ」に勢いがあった頃の、フランスのアイドル雑誌『サリュー・レ・コパン』。表紙は60年代の中頃まで絶対な人気があったシルヴィ・バルタン。ワガママそうな口元がとってもキュート。ビートルズが初めてパリ公演を行った時は、ビートルズがシルヴィ・バルタンの前座だったのだ。
 
そして日本では。逆に60年代の後半くらいから、イエイエの影響を少なからず受けた音楽が流行する。基本的にはイエイエ自体がアメリカやイギリスのロックやポップスの影響を受けたものなので、そのまんまイエイエのモネマネという訳ではなく、いろんなものをごちゃ混ぜにして、日本だけのオリジナルなイエイエ風なものが出来上がったという訳だ。僕の中ではその中心はGS(グループサウンズ)であり、ビート歌謡と言われるものがそれに当たると思っている。だけど。当時の日本では、アパルトマンで「イエイエ」が流れるホーム・パーティーは(多分)なかったので(当時の日本で出来始めていた「団地」では無理だ)、若者たちはダンスホールでお酒を飲みながら、GSやビート歌謡で踊っていたんじゃないかと思う。
 
僕の中での「イエイエ」は、フレンチ・ポップ全体として1983年頃から本格的に始まった(それまでは子供の頃にミシェル・ポルナレフとダニエル・ビダルを聴いていた程度だ)。セルジュ・ゲンスブールのアルバム『星からの悪い知らせ』(これはフレンチmeetsレゲエだったけど)を聴き、その後、ジェーン・バーキンを、そして80年代中頃くらいからフランス・ギャルを聴き始めてから、ようやく60年代の「イエイエ」に辿り着いて、いろいろと深掘りするようになる。とにかく。当時の僕にとって「イエイエ」を含むフレンチ・ポップはフランス語で歌われていることが何よりも重要であった。
 
それから暫くして90年代に入ると、渋谷系がフレンチポップに食い付いた。渋谷系でフレンチ系って、いったい何系?そんなことを思いつつ、ほんとは永瀧達治やサエキけんぞうや川勝正幸らが開催していた「マッド・フレンチ」のパーティーや、渋谷系の人たちのことが羨ましくて仕方がなかったぐすん。そう。僕も結構、前からフレンチ・ポップ好きだったのに。
 
そんな中で。僕にフランス音楽のことをちゃんと教えてくれた2冊の本を紹介しておこう。
 
📖歌人の塚本邦雄の名著『薔薇色のゴリラ』。ゴリラとはフランスの歌手ジョルジュ・ブラッサンスのこと。なので。この本の雰囲気は60年代以前の仏蘭西大衆音楽、つまりはシャンソンの世界である。トレビアン!
📖1971年にパリに渡り、毎日、シャンソンやフレンチ・ポップを呼吸するように聴きながら暮らした永瀧達治の著作『フレンチ狂日記』。
この本の中で紹介されている、ダニー・ブリヤンが作詞・作曲した歌の歌詞がサンジェルマン・デ・プレの魅力を伝えてくれている。
 
『サンジェルマンへおいでよ』
 
軽薄で 情熱的で 絶え間ない笑い
僕たちが飢えているのは酔い痴れること
 
喋って 歌って 愛し合う
今ではみんなが少し忘れてしまったこと
 
二十歳の頃は誰もが狂っている
でも まったく気にしない
十年後にどうなるかなんて
 
人生に乾杯 今 この瞬間に乾杯
 
さあ おいでよ サンジェルマンに
アレ・ヴィヤン・ア・サンジェルマン
 
 
コロナ禍の中においては何故だか牧歌的に響いてくる。
 
90年の終わり頃に。僕は仕事で出張が増え、東京に滞在することが多くなった。仕事が終わってから毎日のように神宮前の「ギャラリー・ワタリ(ワタリウム美術館)」や、その並びにあったフレンチ・ポップ専門のレコード店『made in france』(後に『made in …』に変わる)や、渋谷の宇田川町の『zest』に足繁く通って洋書やフレンチポップのレコードを買っていたので、東京の同僚たちから「変わってるねぇ」と言われ続けた(他人のことなんだから、ほっといてよ、もぉえー?)。もっとも買い物をした後は大学時代の友人が都内に住んでたので毎夜、渋谷や六本木に飲みに出かけていたけどぶー
 
それでは。タイトル通り。とってもお洒落でスタイリッシュなイエイエのアナログEPレコード(4曲入り)のジャケットを混ぜながら、「Paris , Tokyo」発のグルーヴィなイエイエをコンパイルしてみたので、(コロナ禍の折)自宅のリビングでひとりで所狭しと踊ってみよう笑い泣き
 
音譜最初はいきなり日本の、タイトルもそのまんまな朱里エイコが歌った『イエイエ』。レナウンの67年のCMソングで小林亜星が作詞・作曲・編曲した。これは踊れる。

 
音譜「イエイエ」歌手の代表、フランス・ギャルの63年のヒット曲『Ca Va Je T’aime』を。

 
音譜「イエイエ」ブームを皮肉った、セルジュ・ゲンスブールの64年の曲『Chez les yé-yé』。日本語タイトルは『イエイエの時代に』。

 
🔴フランス・ギャルの66年のヒット曲『白馬の王子様』【Un Prince Charmant】のEPレコード。
音譜ゲンスブールがフランス・ギャルのために書いた、とってもグルーヴィな1963年の曲『娘たちにかまわないで』【Laiss Tomber Les Filles】。

音譜同じくゲンスブールの『アイドルばかり聴かないで』【N’ecoute Pas Les Idoles】。

 
🔴イエイエ界では最も人気が高かったシルヴィ・バルタンのEPレコード・カヴァーを。
🔴シルヴィ・バルタンの前歯のすきっ歯は、フランスでは個性であり、魅力でもあった(多分、アメリカでは違うよね)。
 
音譜シルヴィ・バルタンの63年の曲『Tous Les Gens』。

音譜レナウンのシリーズCM「ワンサカ娘」の65年Ver.はシルヴィ・バルタンを起用。小林亜星の曲を日本語で歌ってくれた。

 
🔴共に人気絶頂だった時期にシルヴィ・バルタンと結婚したジョニー・アリディの66年の曲『Noir C’est Noir』。アリディはその後も第一線で活躍し、2000年以降もアルバムのほぼすべてがフランス・チャートの1位に輝くという世界的にも類をみないシンガーである。

 
🔴60年代に入り、ジャン=リュック・ゴダールのミューズとしていくつもの素晴らしい映画に主演したアンナ・カリーナの、フランス国営放送が67年に制作した初のカラー作品『Anna』の挿入歌『Roller Girl』。曲はセルジュ・ゲンスブール。

 
音譜弘田三枝子with ビリー・テイラーの『I'm Comin' Home Baby』。ジャズ・ベーシスト、ベン・タッカーが作曲、ボブ・ドローが作詞した名曲をミコちゃんがクールに歌っている。これは「イエイエ」ではないと思うけど、このグルーヴィな感じを敢えて「イエイエ」と呼んでおきたい。とにかくめちゃくちゃカッコいい。

 
音譜フランソワーズ・アルディは「イエイエ」の時代にあってギターを弾きながら歌う、シンガー・ソング・ライター然とした珍しい歌手だった。知的な佇まいが魅力的な彼女のEPレコードのカヴァーを。
 
 
音譜 62年のファースト・アルバムの中の曲『Le Temps De I’Amour』。

 
音譜ゲンスブールの64年の傑作アルバム『Gainsbourg Percussions』から『Quand Mon 6.35 Me Fait Les Yeux Doux』。

 
音譜キュートな顔立ちで人気があったシャンタル・ケニーの67年の曲『Notre Prof D’anglais』。

 
音譜「イエイエ」じゃなく「フリ・フリ」だけど(パンダの赤ちゃんのネーミングみたいだな)。田辺昭知とザ・スパイダース名義のデビュー曲。

 
音譜クロチルドの67年の曲『Fallait Pas Ecraser La Queue Du Chat』。

 
音譜アメリカやイギリスのロックの影響を受けた、ロニー・バードの66年の『Chante』。

 
音譜ひつこくてゴメン。シリーズ化されたレナウンのCM『ワンサカ娘』の初代の64年ver.はミコちゃんこと、弘田三枝子が歌った。

 
音譜B.B.こと、大女優ブリジット・バルドーが68年に歌った、ゲンスブールの曲『Contact!』。宇宙っぽいサウンドがカッコいい。

音譜同じくバルドーのヒット曲『Moi Je Joue』。僕の大好きな曲だ。

 
音譜日本のビート歌謡の女神であった黛ジュンの『ブラック・ルーム』は68年のレコード大賞曲『天使の誘惑』のB面。

音譜もう一曲、黛ジュンを。これもグルーヴィーな名曲。『土曜日の夜何かが起きる』。黛ジュンはほんとカッコいいな。

 
音譜ちょっとサイケデリックなLe Fleurs De Pavotの『Pourquoi L’amour A Deux』。もはや「イエイエ」ではないよね。

 
音譜黛ジュンと共に、ひとりGSと呼ばれた中村晃子のヒット曲『虹色の湖』。GSグループのザ・ジャガーズの68年の映画『進めジャガーズ!敵前上陸』のワンシーンから。とにかく中村晃子が可愛くて、カッコいいし、日本のパーティーがこんな感じだったんだと思うとワクワクするな。

 
音譜ジャクリーヌ・タイエブの『Petite fille damour』。気分を変えてソフトな雰囲気で。

 
 音譜64年の、ゲンスブールのアルバム『Gainsbourg Percussions』から『可哀想なローラ』【Pauvre Lola】と『Couleur Cafe』を。


📖ここで本をもう一冊。セルジュ・ゲンスブールとは「誰なのか」という攻略本を。ジル・ヴェランが書いたゲンスブールの人生を永瀧達治が訳した名著『ゲンスブールまたは出口なしの愛』。本の帯にある「私はすべてに成功したが、人生に失敗した」というコピーがすべてを物語る。
 
音譜ニノ・フェレールは「黒人になりたい」と歌を歌うほどソウルやR&Bを愛していた。その精神が匂い立つグルーヴィな曲『Les Cornichons』と『Mirza』を2曲続けて。これは踊れる!

 

 
音譜最後は、今回の記事タイトルにもなっている『Paris , Tokyo』のテーマ曲のつもり。1990年代にパリと東京のグルーヴを繋いだ曲、ピチカート・ファイヴの『モナムール東京』で締め括ろう。

 
60年代のパリで確かに大流行したであろう「イエイエ」。だけど、どういう音楽を指して「イエイエ」と呼んだのかはとても曖昧で、ほんとうは僕にもはっきりした答えが分からない。多分、「イエイエ」には実体がないのだ。それは60年代のパリの空気のようなものであり、当時、イギリスで流行していた『スインギング・ロンドン』と同じように最先端の「MODE」だったんじゃないかと思っている。
 
それでは、また。アデュー・ロマンティークニコ