数学で言う「厳密」ってどう言うこと? | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

私は物理学者で日々数学を言語として物事を考えています。だから、この問いは数学は自然言語などの他の言語とどこが違うんだろうかと考えているのです。これから言う考え方は数学が専門でない者が言う独断と偏見に基づいた言述ですので、数学者にこの意見に関するご意見を聞きたいところです。

 

結論から先に言うと、厳密であるとは背理法が成り立つと言うことだと私は考えています。でも、それを論証して行くには、まず物理学ってなんだろうという話を準備としてしなくてはならないので、前置きが長くなってしまいますのが、我慢して読んでください。

 

さて、物理学ってなんだろうって考えてみる。物理学は数学を使ってこの世界を分析しています。でもそれが学問と認識されてきた初めの頃は複雑な事象は取り扱えず、数学も単純なものを使っていた。そして、ニュートンが出て、微分積分の概念を発見し、ニュートンの法則を見つけた。その場合の、この法則の最も重要な点は、その法則によると初期の物質の位置と速度、すなわち物質の状態の初期条件が与えられると、その後の物質の状態は一意に決定論的に決まっていると言う点です。これを数学の言葉では決定論的な微分方程式に従っていると言います。さらにもう一つの重要な性質があります。ニュートンの法則は力は加速度に比例しているという。加速度とは位置を時間で2階微分したものです。微分とは割り算によって定義されるので、時間で2階微分するとは、時間の2乗で割り算したものと同じです。だから、時間 𝑡 の向きを未来から反転させて −𝑡 に入れ替えても、(−𝑡)^2=𝑡^2なのでニュートンの法則の数学的な方程式は変わりません。物理学では、これを時間の向きの反転に対してニュートンの法則は対称であると言います。要するに、ニュートンの法則は、

 

1)決定論的法則である。

2)時間の向きの反転に対して対称ある。

 

と言う二つの重要な性質を持っています。数学では1)でなくて、確率論的方程式とかストカスチック微分方程式という非決定論的方程式もあります。しかし、ニュートンの法則はそうではなくて、決定論的微分方程式なのです。

 

その後、人類はもっと複雑な現象も数学という言語を使って論じられるようになりました。そして、ニュートンの法則だけでは説明できない現象をニュートンの法則を拡張したそれもっと基本的な法則によってこの世界の記述に成功してきました。それがマックスウェルの電磁方程式であり、アインシュタインの相対性理論であり、量子力学です。でも、このようにニュートン力学を拡張するにあたって、不思議に物理学者が拘ったのは、上の性質1)と2)だったのです。拡張って無限の方向がありますので、何もこの1)か2)を満たさない拡張だって可能なはずです。なのに物理学の発展の歴史を振り返ると、物理学者はこの2点は絶対に譲らなかった。これが物理学ってなんだろうって考える場合のカギになるのです。

 

さて前置きが終わって、数学で言う「厳密」ってなんだろうって言う本題に入ります。数学も初めのうちは単純な計算や論理の展開しかできなかった。そして少しづつ発展していって、ついにユークリッド幾何学が発見されて、数学の論理の雛形ができた。私はこれを物理学におけるニュートンの法則が上記の1)と2)の雛形を提供したのと同じような現象だと考えています。このユークリッド幾何学で最も重要な点は、

 

*背理法が使える

 

にあると考えています。背理法が成り立てば、

 

「AばならなBである」

 

と言う命題を証明する代わりに、

 

「Bでないならば、Aであるとすると矛盾が起こる」

 

ことを証明しても良い。ところで、背理法の証明では、あれが悪い、これが悪いって、まるで思春期のガキの言っているようなこを捲し立てていれば、物が出来上がってしまう。こんな理屈が正しいのは思春期のガキの世界と数学の世界だけです。他の世界では、このような否定的な言質ではなくて、肯定的で生産的な提案がなくてはならないのです。なぜなら、数学以外で使われる論理体系では背理法が成り立たないからです。

 

そして、聞くところによると、数学で歴史的に重要な定理の証明の大変多くの定理では、まず背理法によって最初の証明がなされ、その後、否定による証明ではなくて直接証明する方法が提示されてきた。何せ、否定的意見を論うのは、肯定的な意見を提示するよりも遥かに易しいからです。

 

この背理法の力に魅了された数学者たちは、その後ユークリッド幾何学を雛形にした数学的論理をより高度に発展させて拡張してきた過程で、その拡張法として上記*の性質を絶対に譲らなかった。この場合にも、拡張法には無限の可能性があるにもかかわらず、そこを譲らなかった。なぜならそこを譲ってしまうと、数学的証明に対する背理法の美味しい汁が吸えなくなってしまうからです。

 

そして、数学の拡張を常に背理法が保証される方向に拡張する、これが「厳密」であると言う意味なのだと言うのが私の意見です。そして、数学とは背理法が成り立っていると言う点が他の言語とは最も違った言語である、それが数学の個性だと私は考えています。